宍戸 節太郎(ししど せつたろう、1969年 - )は、ドイ… 宍戸 節太郎(ししど せつたろう、1969年 - )は、ドイツ文学者、國學院大學教授。 秋田県大館市生まれ。1992年上智大学文学部ドイツ文学科卒業、ケルン大学(ドイツ)に学ぶ。 1998年上智大学大学院文学研究科ドイツ文学専攻博士課程満期退学、2009年「他在の可能性 エリアス・カネッティにおける「変身」の詩学」で文学博士。國學院大學文学部准教授、教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。
内田 青蔵(うちだ せいぞう、1953年〈昭和28年〉3月2… 内田 青蔵(うちだ せいぞう、1953年〈昭和28年〉3月28日 - )は、日本の建築学者・建築史家。専門は近代建築史と近代住宅史。学位は、工学博士。神奈川大学建築学部建築学科教授。 秋田県大館市出身。秋田県立大館鳳鳴高等学校を経て、1975年神奈川大学工学部建築学科卒業、1983年東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻博士課程中退。1986年「住宅改良会」の活動からみた大正・昭和初期(戦前)における「洋風系独立住宅」の導入と成立に関する研究」で工学博士の学位を取得。東京工業大学付属工業高等学校教諭、1995年文化女子大学造形学部助教授、教授、2006年埼玉大学教育学部教授、2009年より現職。
丸山不二夫(まるやま ふじお、1948年〈昭和23年〉 - … 丸山不二夫(まるやま ふじお、1948年〈昭和23年〉 - )は、日本の哲学者、IT教育者。大学院時代の専門は数理哲学。稚内北星学園大学初代学長。元早稲田大学客員教授。IT関連のコミュニティーの組織者としても知られている。日本Javaユーザ会、日本Androidの会初代会長。クラウド研究会代表。IT技術者の情報共有コミュニティー「マルレク」、学生向けのディープラーニングの開発・教育のコミュニティー「MaruLabo」を立ち上げ、現在はそれらを統合した一般社団法人MaruLaboを主な活動としている。 秋田県大館市出身。東京大学教育学部卒業。1981年(昭和56年)一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。
佐藤 周子(さとう ちかこ、1938年2月13日 – 198… 佐藤 周子(さとう ちかこ、1938年2月13日 – 1988年6月23日)は、日本の放射線医学者。 1938年、秋田県大館市に生まれる。1946年、教師だった父の転勤に伴い、岩手県花巻市に移住した後、秋田県秋田市に移住。秋田県立秋田高等学校卒業。1962年、東北大学医学部卒業と同時に結婚。1963年、東北大学放射線基礎医学教室助手、1970年、愛知県がんセンター研究所放射線部研究員に勤務。1972年、スタンフォード大学留学を経て、愛知県がんセンター研究所研究室長に就任。1985年、同研究所放射線部長(同センター初の女性管理職)。1988年、猿橋賞を受賞するが、その1ヶ月後に死去。 佐藤周子 - KAKEN 科学研究費助成事業データベース
佐々木 潤之介(ささき じゅんのすけ、1929年7月16日 … 佐々木 潤之介(ささき じゅんのすけ、1929年7月16日 - 2004年1月23日)は、日本近世史学者。民衆史に着目し、「世直し状況」論、「幕藩制国家」論を提唱した。一橋大学名誉教授。一橋大学教授・早稲田大学教授・歴史学研究会編集長を歴任。 1929年、秋田県大館市で生まれた。秋田県立大館中学校(現・秋田県立大館鳳鳴高等学校)、東京高等学校を経て、東京大学文学部国史学科で学んだ。1953年に卒業。東京大学大学院人文科学研究科に進み、1960年に博士課程を修了。終了時に東京大学に提出した学位論文は『幕藩制下基礎構造の研究』であり、文学博士号を取得。 1960年より法政大学第二高等学校教諭として勤務。
狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年(天保3年) - … 狩野 旭峰(かのう きょくほう、1832年(天保3年) - 1925年(大正14年))は、日本の漢学者・漢詩人・ジャーナリスト。 出羽国秋田郡大館町に狩野与十郎長安の子として生まれた。本名は良貴、通称は徳蔵。狩野氏は、山形を本拠地とする最上氏が江戸幕府によって改易されたのち、久保田藩(本城は久保田城)の支城のあった大館の佐竹西家に仕えた。1849年(嘉永2年)、18歳で江戸に出て、塩谷宕陰に学び、以降5年のあいだ、古賀謹一郎、藤森弘庵、田口江村らに学んだ。のち、久保田藩江戸邸の学問所「日知館」の教授を務めた。 内務省に入った兄狩野良知の推挙で、明治7年(1874年)、遐邇新聞(現在の秋田魁新報)の創刊にかかわり、その編集長(のち主幹)となって明治初年の秋田言論界をリードした。
狩野 良知(かのう りょうち、1829年〈文政12年1月〉 … 狩野 良知(かのう りょうち、1829年〈文政12年1月〉 - 1906年〈明治39年〉12月14日)は、江戸時代から明治時代にかけての武士、漢学者。久保田藩大館城代家老、のち内務属権小書記官。秋田市の都市公園である「千秋公園」の命名者として知られる。秋田魁新報の前身である「聚珍社」「遐邇新聞」も良知の命名である。幼名は国松、のちに深蔵を名乗った。字は君達、号は羽北。京都帝国大学文科大学初代学長を務めた狩野亨吉の父。 狩野家はもともと山形を本拠地とする最上氏に仕えた武家である。最上氏が江戸幕府によって改易されたのち、久保田藩(本城は久保田城)の支城があった大館の佐竹西家に仕えた。 良知は出羽国秋田郡大館町に狩野与十郎長安の子として生まれた。