和地 仁美(わち ひとみ、1970年(昭和45年)9月27日… 和地 仁美(わち ひとみ、1970年(昭和45年)9月27日 - )は日本の政治家。東京都東大和市長(1期)。元東大和市議会議員(3期)。 東京都北区に生まれる。のち、群馬県藤岡市に移る。埼玉県立本庄高等学校を経て、武蔵野音楽大学音楽学部声楽学科卒業。卒業後は帰郷し、群馬県の小学校の音楽の臨時教諭を務める。その後退職し、民間企業に転職する。入社後は社長付秘書だったが、「現場を知らなければ幹部にはなれない」と幹部を目指すため現場へ異動、同社の女性初の店長となった。その後は社内で管理職や人材教育マネージャーとなった後、同社を退職。人材関係のコンサルティング会社勤務を経て、カナダへ留学する。帰国後はベンチャー企業に入社する。
新井 雅博(あらい まさひろ、1960年〈昭和35年〉11月… 新井 雅博(あらい まさひろ、1960年〈昭和35年〉11月6日 - )は、日本の政治家。群馬県藤岡市長(3期)。 群馬県藤岡市出身。群馬県立藤岡高等学校卒業。1983年(昭和58年)3月、日本大学法学部政治経済学科卒業。同年、小渕恵三の秘書となる。1997年(平成9年)、秘書を退職。藤岡市議会議員を2期務める。 2003年(平成15年)、群馬県議会議員選挙に無所属で立候補し初当選。2007年(平成19年)の県議選から自民党公認で立候補し、2015年(平成27年)までに計4回当選した。 2018年(平成30年)1月11日、任期満了に伴う藤岡市長選挙に立候補する意向を表明。同年4月22日に行われた藤岡市長選挙に自民党・公明党の推薦を受けて立候補し、元衆議院議員秘書の金沢充隆を破り初当選を果たした。
石井 直彦(いしい なおひこ、1943年〈昭和18年〉9月1… 石井 直彦(いしい なおひこ、1943年〈昭和18年〉9月16日 - 2026年〈令和8年〉3月1日)は、日本の政治家。勲等は旭日双光章。埼玉県行田市長(1期)、行田市議会議員(3期)を務めた。 群馬県藤岡市出身。野村證券に在籍中に明治大学商学部商学科に入学し卒業。島忠に転職し店舗開発を担当したが、経営方針で対立して30歳で退職。そろばん塾を開いた。 2003年(平成15年)、行田市議会議員選挙に立候補して初当選。市議1期目のときに明治大学大学院で学ぶ。2007年(平成19年)、行田市長選挙に立候補するも候補者4人中最下位で落選。この選挙で初当選したのは元市職員の工藤正司であった。 2011年(平成23年)、市議に返り咲く。
吉野 益(よしの ます、1918年〈大正7年〉1月15日 -… 吉野 益(よしの ます、1918年〈大正7年〉1月15日 - 2015年〈平成27年〉2月1日)は、日本の政治家。群馬県藤岡市長(4期)。旧姓・塚越。 群馬県藤岡市出身。群馬県立藤岡中学校(現在の群馬県立藤岡高等学校)卒業。東京中央郵便局に2年間勤務した後、1939年(昭和14年)宇都宮野砲兵第20連隊に入営し、中国大陸に派遣され帰国。1943年(昭和18年)吉野家に婿入りする。群馬県経済連に入り、多野支所長、経済連資材、肥料、畜産の各課長、畜産部長、参事を歴任する。その後、全国食肉学校理事、同副校長となる。 1978年(昭和53年)藤岡市長選挙に当選。市長就任後は、畜産の振興など産業育成策を進め、また、小中学校の新校舎の建設や都市計画事業、環境衛生施設の整備など長期的な発展力のある街づくりを目指した。
新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月2… 新井 京太(あらい きょうた、1887年〈明治20年〉5月26日 - 1969年〈昭和44年〉5月19日)は、大正・昭和期の実業家・政治家。衆議院議員(3期)。位階は正五位。 群馬県多野郡保美濃山村(現・藤岡市保美濃山)出身。17歳のとき医学を志して上京、建築業に従事しながら苦学する。1920年(大正9年)協調会社会政策学院を卒業。土木建築請負業を営む。田島応用加工(株)顧問を務めた。 千住町会議員、足立区会議員、東京市会議員、同参事会員、東京府会議員、同参事会員、同社会委員長、東京都議会議員、同参事会員を務めた。 第24回衆議院議員総選挙(1949年(昭和24年)1月執行)東京都第6区から選出された聴濤克巳の公職追放、中島守利の死去に伴い1952年(昭和27年)3月に実施された補欠選挙で初当選。
高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安… 高津 仲次郎(たかつ なかじろう、1857年11月24日(安政4年10月8日) - 1928年(昭和3年)12月19日)は、明治から昭和時代初期の政治家、実業家。衆議院議員(4期)、群馬県会議員(7期)、従六位。 上野国緑野郡中島村(群馬県緑野郡小野村、多野郡小野村を経て現藤岡市)の高津類蔵(のち安蔵に改名)の次男として生まれる。母くめ、兄佐市は仲次郎の幼少時に死去した。生家は養蚕業を生業とした。幼くして渋川の藍園義塾に入り、漢学を修めたのち、1882年(明治15年)上京し専修学校に入り、法学および経済学を学んだ。さらに1883年(明治16年)埼玉県の発陽学舎に入り英学を修めた。1885年(明治18年)再び上京し旧制東京専門学校に入り英学および政治学を学んだ。
左右田 金作(そうだ きんさく、1849年11月23日(嘉永… 左右田 金作(そうだ きんさく、1849年11月23日(嘉永2年10月9日) - 1915年(大正4年)3月26日)は、幕末から大正時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。開港した横浜で両替商を始めて成功し、銀行を興した。 越後の豪農を祖とする左右田金兵衛の二男として、上野国緑野郡鬼石村(群馬県緑野郡鬼石町、多野郡鬼石町を経て現藤岡市鬼石)に生まれる。左右田信二郎の義兄。1872年(明治5年)1月、分家する。 高崎の染絹問屋、鬼石の酒造業者などで奉公したのち、1863年(文久3年)13歳の時、横浜に移り、蚕糸商中里商店で働いたが製糸家を目指して帰郷するも種紙の製造に失敗し、再び横浜に出て、空びん回収や露天商で糊口をしのぐうち、衣類の質入れで作った金で1867年に両替商(ドル屋)「松野屋」を開く。