冨士 大和(ふじ やまと、2006年8月26日 - )は、埼… 冨士 大和(ふじ やまと、2006年8月26日 - )は、埼玉県さいたま市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。埼玉西武ライオンズ所属。兄は千葉ロッテマリーンズの冨士隼斗。 小学校1年生のときに『大宮パワーズ』で野球を始め、さいたま市立三橋中学校では軟式野球部に所属。3年時は『埼玉西武ライオンズジュニアユース』に選出された。 大宮東高校へ進学し、入学当初の最速は120km/hであったが、兄・隼斗(当時平成国際大学でプレー)が実家に帰ってきた際に、大和は自身の投球映像を見せて助言を求めると、「胸のしなりを使えていない」と教わった。隼斗は大学で故障を経験し、身体の使い方や練習法について勉強しており、大和は胸郭のトレーニングに励むと、球速が上昇。
長谷川 威展(はせがわ たけひろ、1999年8月9日 - )… 長谷川 威展(はせがわ たけひろ、1999年8月9日 - )は、埼玉県大宮市(現:さいたま市大宮区)出身のプロ野球選手(投手・育成選手)。左投左打。福岡ソフトバンクホークス所属。 さいたま市立植水小学校では加茂川ワイルドダックス、さいたま市立桜木中学校では硬式野球(リトルシニア)の和光リトルシニアでプレーした。 花咲徳栄高等学校では外野手を務めていたが、2年時に投手へ転向。3年夏の県大会では背番号19でベンチ入りしていたが、チームが全国制覇を達成した第99回全国高等学校野球選手権大会ではベンチ外であった。高校の2学年先輩に大瀧(旧姓) 愛斗、1学年先輩に岡崎大輔と高橋昂也、同級生に清水達也と西川愛也、1学年後輩に野村佑希と松井颯、2学年後輩に韮澤雄也がいた。
上林 誠知(うえばやし せいじ、1995年8月1日 - )は… 上林 誠知(うえばやし せいじ、1995年8月1日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市桜区)出身のプロ野球選手(外野手)。右投左打。中日ドラゴンズ所属。 日本人の父親と韓国人の母親の間に生まれた日韓ハーフ。 小学校1年生の時に「西堀A-1」で野球を始め、矢作公一の設立した野球塾にも在籍。さいたま市立土合中学校時代は「浦和シニア」に所属し、3年生の春に全国制覇を経験した。 仙台育英高校では1年生の秋から4番を務めた。同校には、1学年上に松原聖弥、同学年に熊谷敬宥、馬場皐輔、1学年下に梅津晃大、2学年下に平沢大河、佐藤世那、郡司裕也がいた。2年生時の夏の甲子園・全国大会では3試合に「4番・中堅手」として先発出場し、計11打数5安打2打点1盗塁、打率.455だった。
森 大(もり だい、1990年12月28日 - )は、埼玉県… 森 大(もり だい、1990年12月28日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市浦和区)出身の元社会人野球選手、高校野球指導者。浦和学院高校、早稲田大学教育学部卒。 浦和学院高等学校時代には控え投手として、夏の甲子園大会に2007年と2008年の2度出場。同級生に坂本一将がいる。2007年は本大会でベンチ入りしながら登板機会に恵まれなかったものの、2008年は南埼玉大会の全6試合に先発する活躍を見せ、父親でもある監督の森士と「親子鷹」として注目された。 高校卒業後は早稲田大学に進み全日本大学選手権優勝を経験。三菱自動車倉敷オーシャンズでプレーののち、25歳で引退。引退後は後述の高校野球指導をしながら筑波大学大学院で1年、早稲田大学大学院で2年間、スポーツバイオメカニズムや心理学を学ぶ。
土肥 寛昌(どひ ひろあき、1990年11月16日 - )は… 土肥 寛昌(どひ ひろあき、1990年11月16日 - )は、埼玉県さいたま市南区出身の元プロ野球選手(投手)。右投両打。 元プロ野球選手の土肥義弘は、再従兄にあたる。 埼玉栄高2年秋は県大会ベスト4、3年夏は南埼玉大会でベスト8。大学では1学年上に藤岡貴裕がいて、リーグ通算16試合0勝1敗、防御率3.07。社会人では2年目の都市対抗野球で2試合先発した。2014年10月23日、ドラフト会議にて東京ヤクルトスワローズから6位指名受け、11月12日、契約金3000万円、年俸800万円で仮契約を結んだ。背番号は45。 2015年は、一軍での登板はなかった。 2016年は、4試合に登板したが防御率8点台に終わる。
佐藤 達也(さとう たつや、1986年7月26日 - )は、… 佐藤 達也(さとう たつや、1986年7月26日 - )は、埼玉県大宮市(現:さいたま市西区)出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。愛称は「サトタツ」、「ピン」。 さいたま市(入学当時は大宮市)立指扇中学校で、外野手として野球を始める。野球を始めた理由は「中学校にバスケ部がなかったから」だという。埼玉県立大宮武蔵野高等学校に進学後に投手に転向した。3年時の夏は埼玉県予選2回戦で敗退。 高校卒業後は、北海道学生野球連盟に加盟する北海道東海大学(現・東海大学北海道キャンパス)に進学。3年時の秋にはエースとなり、10試合で6勝を挙げ、同校5年ぶりの優勝に貢献。最優秀投手賞とベストナインを獲得した。4年時は春に腰痛と股関節痛を発症し、春と秋合わせて4勝に留まった。
星野 真澄(ほしの ますみ、1984年4月4日 - )は、埼… 星野 真澄(ほしの ますみ、1984年4月4日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手(投手)、トレーナー。左投左打。 埼玉県さいたま市出身。桑田真澄のファンであった父親によって「真澄」と名付けられる。 埼玉栄高等学校では3年間ベンチ入りすることが出来なかった(2学年後輩には山崎憲晴がいた)。愛知工業大学に進学し愛知大学リーグでの通算成績は26試合に登板し4勝5敗、防御率2.26。 卒業後はバイタルネットに入社し、同社の硬式野球部に入部。2008年には同僚の谷元圭介と共にドラフト候補に挙がるも、北信越大会決勝の前日に気胸を発症。試合前練習にも参加できないほどだったが痛みをこらえて登板したものの、ベンチ裏で気を失い、チームも敗退し、即手術を受けた。
大島 裕行(おおしま ひろゆき、1981年6月15日 - )… 大島 裕行(おおしま ひろゆき、1981年6月15日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(外野手)、コーチ。 埼玉栄高校時代から注目を集めていた長打力が持ち味。1998年第80回全国高等学校野球選手権大会に出場、1回戦沖縄水産高戦で新垣渚投手から逆転本塁打を放つ(2回戦敗退)。彼は2年生だったがこの活躍で一躍注目される存在となる。直後の第3回AAAアジア野球選手権大会日本代表にも選出された。3年時は鳥谷敬のいる聖望学園に敗れて甲子園出場はならなかった。 高校時代は通算本塁打86本(歴代6位)を記録(2007年に中田翔に破られるまでの歴代最多記録)。早くから注目を集め、埼玉の怪物と呼ばれたほどである。
小川 将俊(おがわ まさとし、1979年1月18日 - )は… 小川 将俊(おがわ まさとし、1979年1月18日 - )は、埼玉県大宮市(現:さいたま市北区)出身の元プロ野球選手(捕手)、野球指導者。 浦和学院高等学校では、高校3年時に春夏の甲子園に出場。三浦貴とバッテリーを組んだ。その後、東洋大学でも1年から三浦とのコンビで出場。4年秋には正捕手として11季ぶりのリーグ優勝に貢献。卒業後は日本通運へ進む。3年目に正捕手に定着して、第74回都市対抗野球大会では初戦で本塁打を放つ。 その後、2003年のドラフトで中日ドラゴンズから8位指名を受けて入団。指名に至った経緯として、就任直後の落合博満監督からの「即戦力捕手獲得」という強い要望で獲得が決まったと言われている。
三浦 貴(みうら たか、1978年5月21日 - 2023年… 三浦 貴(みうら たか、1978年5月21日 - 2023年7月24日)は、埼玉県出身の元プロ野球選手(外野手、内野手、投手)。 浦和学院高では3年生の時に春夏連続で甲子園出場を果たすなどエースとして活躍。バッテリーを組んだ小川将俊(大学でも同様)、石井義人は同期。その後東洋大学へ進学、1年春から投げて東都大学1部リーグ通算46試合登板、13勝19敗、防御率2.47、218奪三振(2年春秋は2部)。4年で主将を務め、2000年秋季のリーグは7勝2敗で最高殊勲選手、最優秀投手、ベストナインを受賞し優勝に貢献。大学時代から打撃も良く、東都大学野球リーグは指名打者制でありながら投手で打順に入ったり、登板しない際も打者での出場があった。
吉野 誠(よしの まこと、1977年11月19日 - )は、… 吉野 誠(よしの まこと、1977年11月19日 - )は、埼玉県大宮市(現:さいたま市見沼区)出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 2014年からは阪神タイガースのスカウトを務めている。 埼玉県さいたま市見沼区出身。大宮東高では投手の2本柱として2年秋の県大会優勝で関東大会では準々決勝で先発したが途中降板してコールド負け。3年夏の埼玉大会では準決勝で延長10回完投勝利で決勝は登板せずに惜敗で準優勝。高校卒業後は日本大学に進学。東都大学リーグでは2年秋にエースとして2部リーグで2試合さらには3試合連続先発などの活躍で優勝すると入替戦では東洋大を相手に先発3連投して勝利、1部リーグ昇格に貢献して2部リーグMVP、最優秀投手。
木塚 敦志(きづか あつし、本名:木塚 敦士(読み同じ)、1… 木塚 敦志(きづか あつし、本名:木塚 敦士(読み同じ)、1977年7月19日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市南区)出身の元プロ野球選手(投手)、野球指導者。 1977年に埼玉県で生まれる。小学2年生の時に野球を始め、さいたま市立内谷中学校を経て地元の浦和学院高に進学して野球部に入部。森士の勧めで投げ方をサイドスローに改造すると頭角を現し、1年秋は県大会決勝で夏の甲子園準優勝の春日部共栄高を相手に救援したが土肥義弘の前に敗れて準優勝、関東大会へ進むが初戦で救援登板も敗退。1994年の夏県大会は決勝で先発して再度、春日部共栄高・土肥と投げ合って勝つと第76回全国高等学校野球選手権大会に出場。
久保田 智(くぼた さとし、1977年5月16日 - )は、… 久保田 智(くぼた さとし、1977年5月16日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(外野手)。 高校時代は2年時(1994年)に夏の甲子園出場するも2回戦敗退。高校通算42本塁打。同期に木塚敦志、1年下に石井義人や大学でも後輩の三浦貴、小川将俊がいる。 東洋大に進学。2年春からレギュラーで4番を打つが秋の入替戦では吉野誠(日大)の前に最後の打者となって2部降格。3年春は左膝の手術で欠場。4年春からチームが1部に復帰すると吉野から本塁打で雪辱。東都大学1部リーグ通算58試合出場、204打数52安打、打率.255、6本塁打、31打点。1999年春季リーグで首位打者になりベストナイン受賞。 川崎製鉄千葉時代は2000年から2002年まで3年連続都市対抗に出場した。
品田 寛介(しなだ かんすけ、1976年3月15日 - )は… 品田 寛介(しなだ かんすけ、1976年3月15日 - )は、埼玉県浦和市(現さいたま市)出身の元プロ野球選手(投手)。 兄は、元プロ野球選手の品田操士。 花咲徳栄高時代は2年まで野手、3年時から投手に転向も夏の甲子園埼玉県予選では3回戦敗退。 1993年のプロ野球ドラフト会議で広島東洋カープから6位で指名され、入団。契約金は2000万円、入団時の年俸は400万円。同校からは2学年上の兄・操士、前年度に同じく広島入りした池田郁夫に続き3年連続投手のプロ入り。 しかし、プロでは一軍だけでなく二軍でも登板できないまま、1996年に自由契約となり引退した。
平尾 博嗣(ひらお ひろし、本名:平尾 博司(読み同じ)、1… 平尾 博嗣(ひらお ひろし、本名:平尾 博司(読み同じ)、1975年12月31日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市緑区)出身の元プロ野球選手(内野手)、元コーチ。右投右打。プロ入団時から2001年までと、コーチ時代は本名を登録名にしていた。 埼玉県立大宮東高等学校時代は通算68本塁打を放った。2年夏の県大会では1試合3本塁打の県内タイ記録、2年秋は県大会優勝で関東大会は準々決勝で市立船橋高の小笠原孝に完投負け。1993年春の第65回選抜高等学校野球大会ではトップバッターに起用され、初戦で先頭打者本塁打を放ちチームに勢いをつけ、またセンス溢れる走塁でチームの準優勝に貢献した。さらに春の県大会も制すると、関東大会では準決勝で矢野英司(横浜高)が9回まで無失点を続けるなかでサヨナラ本塁打を放ち、決勝戦でも本塁打を記録して優勝。
品田 操士(しなだ あやひと、1973年10月3日 - )は… 品田 操士(しなだ あやひと、1973年10月3日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手(投手)。 弟は元プロ野球選手の品田寛介。 小学4年の時に浦和リトルに入り、中学時代は一塁手だった。 花咲徳栄高では2年春に関東大会出場。3年春は県大会準々決勝で聖望学園の門倉健と最後まで投げあうも惜敗。夏の県大会は全試合を投げ切って防御率0.00ながら5回戦敗退。1年後輩に池田郁夫、2年下に弟の寛介(ともに広島)の両投手がいた。 1991年のプロ野球ドラフト会議で近鉄バファローズから3位指名を受け入団。 1年目の1992年から一軍に昇格し、同年9月1日の西武戦で7-0と大量リードを奪われた5回裏1死で3番手として初登板。
厚澤 和幸(あつざわ かずゆき、1972年8月11日 - )… 厚澤 和幸(あつざわ かずゆき、1972年8月11日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市桜区)出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、コーチ。 2001年までの登録名表記は厚沢 和幸。 浦和市立上大久保中学校(現:さいたま市立上大久保中学校)で野球を始め、大宮工業高校では2年秋からエースとなる。3年夏の県大会は4回戦で敗退した。東都大学野球の国士舘大学に進み、1年春からベンチ入り。4年春に2部でMVPとなり、入替戦では初戦で西口文也と投げ合って勝利し、東都大学野球リーグ1部昇格の原動力となる。東都1部通算9試合に登板、3勝3敗、防御率1.88。また2部通算37試合に登板、10勝8敗、防御率2.85。
矢作 公一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )… 矢作 公一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手、スポーツライター。 医者の息子として生まれ、跡継ぎとして期待されたが野球の道に進む。立教高校(現・立教新座高校)から、立教大学へ進学。立教大では、高校時代から1年先輩の長嶋一茂とクリーンナップを組んだこともあった。東京六大学リーグ通算83試合に出場し、245打数71安打、打率.290、17本塁打(当時歴代6位、現歴代10位タイ、立教大学の選手としては当時歴代1位)、38打点。ベストナイン2回。第16回日米大学野球選手権大会オールジャパンのメンバー。 1988年のドラフト会議で、大学の先輩である大沢啓二が常務であった日本ハムファイターズから6位指名され入団。
矢作 光一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )… 矢作 光一(やはぎ こういち、1966年12月29日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元プロ野球選手、スポーツライター。現役時代の登録名は矢作 公一(読み同じ)。
角田 満(つのだ みつる、1966年10月11日 - )は、… 角田 満(つのだ みつる、1966年10月11日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 浦和実業学園高から国士舘大学へ進学するが、野球部の公式戦出場停止などもあり中退し、日本ハムファイターズの球団職員となる。 1986年オフ、ドラフト外で日本ハムファイターズの選手となり、1991年に引退した。 引退後の2016年5月、2014年から2015年にかけて足利ホールディングスの株を巡る架空の投資話で兵庫や岡山などに住む高齢者6人から現金計6898万円を詐取したとして、他3人とともに大阪府警と兵庫県警に詐欺などの疑いで逮捕され、2017年4月27日に詐欺と詐欺未遂の罪で、大阪地裁より懲役4年6月の実刑判決を受ける。
森 士(もり おさむ、1964年6月23日 - )は、埼玉県… 森 士(もり おさむ、1964年6月23日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市南区)日本のアマチュア野球指導者、教育者。浦和学院高等学校副校長。NPO法人ファイアーレッズメディカルスポーツクラブ理事長。現役時代は投手(高校の恩師の野本喜一郎や高校・大学の先輩の仁村徹と同じアンダースロー)。 埼玉県浦和市(現さいたま市)に生まれ、浦和市立(現さいたま市立)谷田小学校2年生の頃、軟式野球チームに入団して本格的に野球を始める。週末には父・克が練習の手伝いに来るなど親子二人三脚で汗を流した。父は野球経験者ではないが、剣道経験者であいさつなど礼儀に厳しかった。 浦和市立(現さいたま市立)大谷場中学校時代に中体連主催の大会ではないが、横浜スタジアムで開催された大会で全国3位に入り、その時に1試合10奪三振を取って新聞に掲載された。
長堀 肇(ながほり はじめ、1962年3月7日 - )は、埼… 長堀 肇(ながほり はじめ、1962年3月7日 - )は、埼玉県さいたま市出身の元社会人野球選手(外野手)、野球指導者。 上尾高校時代には1979年夏開催の第61回全国高等学校野球選手権大会に一塁手として出場。1回戦で牛島和彦、香川伸行、山本昭良、山脇光治らを擁する浪商高校と対戦。後1死まで迫るも敗退した。高校時代の監督に野本喜一郎、同級生に仁村徹、福田治男らがいる。 高校卒業後には仁村徹、福田とともに東都大学野球連盟所属の東洋大学経営学部に進学。大学時代は外野手として活躍し、リーグのベストナインも3度受賞している。1982年には第11回日米大学野球選手権大会に日本代表として出場。 1984年に東洋大学を卒業後は日本電信電話公社に入社し、同社の電電東京野球部に入部。
笹川 博(ささがわ ひろし、1953年5月5日 - )は、埼… 笹川 博(ささがわ ひろし、1953年5月5日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手(捕手)。現在は横浜DeNAベイスターズの取締役。 中学までは投手だった。野球部監督の長谷川和雄から誘われ、埼玉県立大宮高校に進学。大柄の体格を買われ、捕手に転向した。高校2年生の秋、1970年秋季県大会決勝に進出するが、深谷商の竹内広明に完封を喫する。高校3年生夏の1971年夏の県大会でも準決勝に進むが、熊谷商に敗退し甲子園には出場できなかった。 1971年のドラフト7位で大洋ホエールズへ入団。愛称は「ペロ」。長身の大型捕手として期待されるが、伊藤勲、福嶋久晃、辻恭彦と層の厚い捕手陣もあって一軍に上がれず、主に一軍、二軍でブルペン捕手を務めることが多かった。
島村 雄二(しまむら ゆうじ、1951年10月6日 - )は… 島村 雄二(しまむら ゆうじ、1951年10月6日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。 埼玉県立大宮高等学校では、1967年、1年生ながら控えの内野手として夏の甲子園に出場。チームメートに2年上のエース金子勝美、吉田誠、1年上の新井良雄、同期の鈴木治彦がいた。1回戦で報徳学園と対戦。9回裏2死までリードするがここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した。秋の埼玉国体では、決勝でエース河原明を擁する大分商を降し優勝。翌1968年夏には新井が主戦投手となり、三塁手、七番打者として県予選決勝に進出するが、春の選抜で優勝した大宮工の吉沢敏雄に抑えられ0-1で敗退。
鈴木 葉留彦(すずき はるひこ、1951年7月25日 - )… 鈴木 葉留彦(すずき はるひこ、1951年7月25日 - )は、埼玉県浦和市(現:さいたま市)出身の元プロ野球選手・コーチ・監督、解説者。旧名は鈴木 治彦(読みは上記と同じ)。現役時代の愛称は「はっぱ」。 大宮高校では、1967年に1年生ながら一塁手として夏の甲子園に出場し、1回戦で報徳学園と対戦。9回裏2死までリードするがここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した。しかし、秋の埼玉国体では、決勝で大分商の河原明を打ち崩し初優勝を飾る。チームメイトに2年上のエース金子勝美、左翼手の吉田誠、1年上に右翼手の新井良雄らがいた。2年次の1968年夏は新井を主戦投手として県予選決勝に進出するが、春の選抜で優勝した大宮工の吉沢敏雄に抑えられ0-1で敗退。
佐藤 敬次(さとう けいじ、1950年9月22日 - )は、… 佐藤 敬次(さとう けいじ、1950年9月22日 - )は、埼玉県出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手。 大宮工業高校では1968年に春夏の甲子園に出場。春の選抜では、エース吉沢敏雄や左翼手、四番打者の布施章(松下電器-日本通運-全大宮)の活躍もあって勝ち進む。準決勝では箕島高の東尾修を打ち崩し、決勝では吉沢と尾道商の井上幸信との投手戦を制し、「初出場初優勝」の快挙を成し遂げた。しかし吉沢の控え投手であった佐藤はこの大会で登板機会がなかった。夏の選手権は2回戦で津久見高の石井吉左衛門(鐘淵化学)に抑えられ敗退するが、この試合で吉沢をリリーフし甲子園初登板を果たす。他の高校同期では、外野手の石井清一郎(阪急)、控え投手の奈良正雄(ロッテ)がプロ入りしている。
吉田 誠(よしだ まこと、1949年7月24日 - )は、埼… 吉田 誠(よしだ まこと、1949年7月24日 - )は、埼玉県与野市(現在のさいたま市中央区)出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。 大宮高校では1967年、3年生の時に四番打者、左翼手として夏の甲子園に出場。1回戦で報徳学園と対戦、9回裏2死までリードするがここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した。この一戦では、バックスクリーン左へ大本塁打を打ち込んで、各球団のスカウトに注目される。秋の埼玉国体では、決勝まで勝ち進み、エース・河原明を擁する大分商を降し優勝した。後にプロ入りするチームメイトに、同期のエース・金子勝美、右翼手の新井良雄(2年生)、一塁手の鈴木治彦、控え内野手の島村雄二(いずれも1年生)がいた。
金子 勝美(かねこ かつみ、1949年5月31日 - )は、… 金子 勝美(かねこ かつみ、1949年5月31日 - )は、埼玉県大宮市(現在のさいたま市大宮区)出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。娘は女子プロゴルファーの金子絢香。 埼玉県立大宮高等学校では1966年、2年生の時に三塁手として春の選抜に出場。1回戦で宮崎商を降すが、続く2回戦で平安高の門野利治に抑えられ惜敗。同年の秋季関東大会県予選からエースとなり、1回戦で深谷商をノーヒットノーランに抑える。秋季関東大会では決勝に進むが、桐生高に大敗した。翌1967年には夏の甲子園に出場。1回戦で報徳学園と対戦、9回裏2死までリードするが、ここから反撃を許し、大会史上初の本盗による逆転サヨナラ負けを喫した。
江田 幸一(えだ こういち、1947年10月31日 - )は… 江田 幸一(えだ こういち、1947年10月31日 - )は、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)出身の元プロ野球選手(投手)。 上尾高校では3年次の1965年に夏の甲子園県予選で準々決勝に進出するが、大宮高に敗退して甲子園出場はならなかった。高校同期に会田照夫がいる。卒業後の1966年に東京ガスへ入社し、1969年の都市対抗では鷺宮製作所に補強されて出場。初戦となった2回戦の電電四国戦で好リリーフして勝利投手となるが、この勝利が鷺宮の都市対抗初勝利でもあった。同年のドラフト4位で東映フライヤーズに入団し、「日拓ホームフライヤーズ」となった1年目の1973年から中継ぎとして起用される。7月11日のロッテ戦(神宮)で初勝利を挙げ、「日本ハムファイターズ」となった2年目の1974年には4月19日の南海戦(大阪)で初セーブをマーク。
榊 親一(さかき しんいち、1945年9月18日 - )は、… 榊 親一(さかき しんいち、1945年9月18日 - )は、埼玉県大宮市(現・さいたま市大宮区)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ。 大宮高校では3年次の1963年、夏の甲子園に中堅手として出場。1回戦は長崎海星に勝利したが、2回戦で中京商に敗れた。卒業後の1964年に地元の日本通運浦和へ入社し、初岡栄治コーチの指導を受け、外野手から捕手に転向。入部1年目に都市対抗で優勝を経験し、1967年の産別対抗では優秀選手に選ばれる。田中章、金田留広ら実業団屈指の投手陣をリードした。同期には竹之内雅史(西鉄・太平洋・クラウン、阪神)がいる。 同年のドラフト4位で東京オリオンズへ入団。主に醍醐猛夫・村上公康の控え捕手としての役割を担ったが、1972年のシーズン中盤からは醍醐に代わり43試合に先発マスクを被る。
亀田 信夫(かめだ のぶお、1939年9月22日 - )は、… 亀田 信夫(かめだ のぶお、1939年9月22日 - )は、埼玉県大宮市(現在のさいたま市大宮区)出身の元プロ野球選手。 大宮高校では1957年に夏の甲子園へ4番打者として出場し、ベスト4まで進出。 1958年に国鉄スワローズへ入団。1965年に引退。
高屋 俊夫(こうや としお、1938年12月28日 - )は… 高屋 俊夫(こうや としお、1938年12月28日 - )は、埼玉県大宮市(現在のさいたま市大宮区)出身の元プロ野球選手(投手)。 大宮高校から1957年に国鉄スワローズへ入団。同期に村田元一、茂木忠之がいる。1年目から一軍で登板し、3年目の1959年には自己最多の25試合(うち先発2試合)に登板した。1960年までで通算32試合に登板したが、主にビハインドの場面で投げることが多く、勝利することはできなかった。 監督が宇野光雄から砂押邦信に交代した1961年にはイースタン・リーグで最多勝を獲得したが、一軍で登板することはなくこの年限りで引退した。