下木 雄介(しもき ゆうすけ、1984年 - )は、日本の日… 下木 雄介(しもき ゆうすけ、1984年 - )は、日本の日本酒文化実践者、日本酒専門飲食店経営者、酒匠・利酒師・焼酎利酒師。石川県加賀市山中温泉にある日本酒バー「和酒BAR 縁がわ」のオーナー。日本酒と酒器の相性や文化をテーマに、講演・執筆活動を行い、国内外で日本酒の魅力発信にも取り組んでいる。 1984年、石川県加賀市山代温泉で生まれる。高校卒業後、工場勤務や清掃業などを経て、21歳で金沢市に移り、小売酒屋のアルバイトをきっかけに日本酒の奥深さに惹かれるようになった。その後、小売酒屋や酒問屋で勤務し、東京・品川のオーセンティックバーで1年半修業した。 2013年に利酒師および焼酎利酒師の上級資格である酒匠(さかしょう)資格を29歳で取得した。
笹原 忠義(ささはら ただよし、1954年6月6日 - 20… 笹原 忠義(ささはら ただよし、1954年6月6日 - 2014年5月17日)は、日本の実業家、元アナウンサー。石川県加賀市出身。 加賀市立山代中学校 → 石川県立小松高等学校を経て、慶應義塾大学法学部卒業後の1977年に北陸放送へアナウンサーとして入社。笹原自身はアナウンサー志望ではなかったため、入社試験時は一般職を受験した。当時の入社試験では全員が長いニュース原稿を読まされる中で笹原だけが息継ぎせずに一息で読み、その面白さからアナウンサーとして採用された。これは自慢ではあったが、肺活量が5,600ccもあったという。 1998年には細川久米夫市長の収賄容疑での逮捕、辞職に伴い、旧松任市の市長選挙への立候補を打診されたが断っている。
大野 芳雄(おおの よしお、1942年2月28日 - )は… 大野 芳雄(おおの よしお、1942年2月28日 - )は、日本の経営者。鹿児島銀行頭取を務めた。 石川県加賀市出身。1964年に京都大学経済学部を卒業し、同年4月に日本銀行に入行した。1988年3月に鹿児島銀行顧問に就任し、同年6月に専務を経て、1990年10月には副頭取に就任し、1992年6月には頭取に昇格。2006年6月に会長に就任し、2010年6月には特別顧問に就任。
蔦井 與三吉(つたい よそきち、1889年2月10日 - 1… 蔦井 與三吉(つたい よそきち、1889年2月10日 - 1974年12月8日)は、日本の実業家。石川県動橋村(現・加賀市)出身。東日本フェリーをはじめとした蔦井グループの創始者として、海運・陸運・倉庫・不動産業等多方面で活躍した。家族は息子に蔦井政信(東日本フェリー2代目社長)、孫に蔦井孝典(ハートランドフェリー、アイビー・システム社長)。 1889年(明治22年)、石川県動橋で宿屋を営む蔦井庄五郎の、12人兄弟の5男として生まれる。6歳で北海道へ移り、函館で生花店を営むおじ・勝次郎の家へ養子に出され、行商や新聞配達で家計を支えるも、函館の養父母の死去に伴い1900年(明治33年)に歌志内村赤平の弟夫婦の養子となり、先に団体移住していた親や兄弟とともに開拓作業を手伝う。
淺山 金五郎(あさやま きんごろう、1880年1月16日 -… 淺山 金五郎(あさやま きんごろう、1880年1月16日 - 1937年1月13日)は、日本の実業家、運搬業者、請負業者。昭和期の地下鉄御堂筋線建設などに従事した。 1880年1月16日、石川県江沼郡我谷村(のち西谷村、現加賀市)の淺山金四郎の三男として生まれる。三男であったため、本家の家督は継がず(長男千太郎が家督を継ぐ)他の兄弟とともに大阪へ出て運送業を始める。『人事興信録』には1923年(大正12年)に三男金五郎が分家したと記載されている。これ以後の淺山家兄弟の動向に関しては、二男仁太郎は西野田今開町を拠点に土佐堀で回漕業(運搬船業)を起業し、五男定吉とともに海上運送業務に携わっていたが、東区北久宝寺の合資会社山口運送店設立の際に四百圓出資している。
2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十… 2代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、旧姓・久保、幼名・彦十郎、1876年(明治9年)3月15日 - 1931年(昭和6年)10月13日)は、日本の政治家(衆議院議員)、漁業家、資産家、実業家。東京屑物市場社長。従六位勲四等。族籍は石川県平民。 石川県江沼郡橋立村(現加賀市)で生まれる。石川士族・久保彦助の四男。久保彦助の弟。父の友人・先代平出喜三郎の養子となる。1898年、慶應義塾高等科を卒業し、函館に戻った。1908年、先代の死去により家督を相続し2代喜三郎を襲名。海運業、物産商、代弁業、問屋業、鉱山業を営んだ。北洋漁業の母船式沖取り漁業を推進した。 また、函館区会議員、同市会議員、函館図書館長、函館新聞社主、函館競馬倶楽部会長、函館塩販売所社長、函館銀行取締役、函館商業会議所会頭、東京屑物市場社長、函館林産取締役などを歴任した。
中谷 巳次郎(なかや みじろう、1869年(明治2年) - … 中谷 巳次郎(なかや みじろう、1869年(明治2年) - 1936年(昭和11年))は、大分県由布市の由布院温泉で油屋熊八とともに旅館亀の井別荘を開いた実業家。 加賀国片山津(現在の石川県加賀市)出身。実家は裕福な十村庄屋加賀・中谷家の分家筋であったが、巳次郎は資産を蕩尽した挙げ句、別府市に流れ着く。実家の骨董品を並べて不老町で骨董屋を開き、そこで、亀の井旅館(のちの亀の井ホテル)の経営者で別府温泉の観光開発に尽力した油屋熊八に出会い、意気投合し、その片腕となる。1921年(大正10年)、熊八が大阪の資産家に話を持ち掛けて買わせた由布院温泉の金鱗湖畔の土地に、賓客をもてなすための草庵が建てられ、巳次郎はそれを託される。
4代 大家 七平(おおや / おおいえしちへい、1865年1… 4代 大家 七平(おおや / おおいえしちへい、1865年12月15日(慶応元年10月28日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治・大正期の海事実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・広海。 船持商人・4代広海二三郎の息子として加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)で生まれた。同じ瀬越の有力船持商人・3代大家七平が1886年(明治19年)に死去し、その死跡を継いで4代大家七平を襲名した。 拠点を大阪に移し、持船の汽船への転換を進めた。1896年(明治29年)逓信省より新潟とウラジオストク間、函館とコルサコフ間の航路(命令航路)を開設。1902年(明治35年)には汽船2隻、西洋型帆船5隻を所有していた。
上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(… 上出 長次郎(かみで ちょうじろう、1863年10月12日(文久3年 8月30日)- 1917年(大正6年)3月13日)は、明治から大正期の実業家、政治家。衆議院議員、石川県江沼郡動橋村長。 加賀国江沼郡動橋村(石川県江沼郡動橋村字動橋、動橋町を経て現加賀市動橋町)で生まれた。製油業を営む。石川県農工銀行取締役に在任。 動橋村長、江沼郡会議員を務めた。1897年(明治30年)6月、石川県会議員に当選したが、同年12月に失職した。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(石川県郡部、立憲政友会)で当選し、衆議院議員に1期在任。1909年(明治42年)6月1日、衆議院議員選挙法違反事件の判決により当選が無効となった。
広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月2… 広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう、1854年12月22日(安政元年11月3日)- 1929年(昭和4年)1月29日)は、明治時代の政治家、実業家、銀行家。貴族院多額納税者議員。5代二三郎。北前船主。 広海常信(4代二三郎)の長男として、加賀国江沼郡瀬越村(石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)に生まれる。生家は加賀大聖寺藩の海運界の旧家。家訓により16歳から5年間手船に乗って船乗りと商売の基礎を学んだ。1887年(明治20年)1月、常信の死亡により家督を相続する。 1884年(明治17年)大阪に進出し、広海商店と屋号を掲げ、船舶業および海産物業を経営し、1889年(明治22年)には北海道小樽に「広海倉庫」を設立した。
初代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、1841年(天保12年… 初代平出 喜三郎(ひらで きさぶろう、1841年(天保12年9月) - 1908年(明治41年)3月7日)は、日本の実業家、漁業家、政治家。衆議院議員。 加賀国江沼郡橋立村(現加賀市)出身。20歳で堺商人・河内屋仁兵衛に千石船の船頭として奉公し、日本海沿岸から蝦夷地を航海。1868年(明治元年)に河内屋総支配人に就任。箱館戦争では新政府の兵器・糧食を自己所有汽船「寅一」「寅二」の二艘で運搬した。 その後、箱館に居住し、独立して商業、漁業を営み、特に千島漁業で巨万の富を築いた。また、函館商業学校商議委員、水産調査地方通信委員、函館区会議員、函館水道商議委員、函館町会所取締、シカゴ・コロンブス博覧会事務委員、大日本水産品評会出品委員、函館区共有財産理事員、函館港湾築堤委員、函館大隊区徴兵参事員、函館商業会議所会頭、函館銀行取締役、函館港調査委員、函館港工事改良委員、北海道拓殖銀行設立委員、フィラデルフィア博物館顧問、函館区会議長代理者、立憲政友会創立委員、第五回内国勧業博覧会評議員、北海道会議員、道会議長などを歴任した。
梅田 五月(うめだ さつき、1835年5月9日(天保6年4月… 梅田 五月(うめだ さつき、1835年5月9日(天保6年4月12日)- 1912年(明治45年)5月23日)は、幕末の武士(大聖寺藩士)、明治期の実業家・政治家。衆議院議員、石川県会議長、石川県江沼郡大聖寺町長。幼名・又吉、八百吉。諱・巍。号・抜山、烟渚、煙渚。1869年(明治2年)以降、五月を名乗る。 加賀国江沼郡大聖寺鷹匠町(石川県江沼郡大聖寺町を経て現加賀市大聖寺鷹匠町)で、大聖寺藩士・梅田専次の息子として生まれた。藩学者・東方芝山から儒学を学ぶ。選抜され越前大野藩に遊学し 藩校洋学館に入り、剣術を内山介輔に、西洋砲術を小形元輔に、洋学を伊藤慎蔵から学び、蘭学七級となった。1860年(万延元年)に帰藩。