東出 直也(ひがしで なおや、2003年5月24日 - )は… 東出 直也(ひがしで なおや、2003年5月24日 - )は、石川県加賀市出身の元プロ野球選手(捕手)。右投右打。NPBでは育成選手であった。 加賀市立片山津中学校時代は加賀ボーイズでプレーし、主将を務めた。小松大谷高等学校では、1年夏からベンチ入りを果たし、石川県大会で負傷した正捕手に代わりマスクを被るが、決勝戦で奥川恭伸をエースに有する星稜高校に9回同点の場面から満塁本塁打を打たれて敗れる。この頃から、「名捕手への道のりノート」と題するノートを作り、野球に関することを書き記すようになる。 3年夏の第103回全国高等学校野球選手権大会では、同校36年ぶりの甲子園出場に貢献した。1回戦で高川学園にサヨナラ負けをしたが、3番捕手として3安打2打点の活躍を見せた。
山﨑 颯一郎(やまざき そういちろう、1998年6月15日 … 山﨑 颯一郎(やまざき そういちろう、1998年6月15日 - )は、石川県加賀市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。オリックス・バファローズ所属。 読売ジャイアンツファンであった祖父の勧めで保育園児の頃からキャッチボールなどに親しみ、加賀市立山代小学校3年時から山代少年クラブで野球を始めた。加賀ボーイズ所属の加賀市立山代中学校3年時には身長が180cmを超え、2013年世界少年野球大会の日本代表に選出され優勝を経験した。 高校は敦賀気比高等学校に進学し、同校が平沼翔太を擁して福井県勢初の甲子園制覇を達成した第87回選抜高等学校野球大会では、2年生で背番号18を着けてベンチ入りしたものの登板機会は無かった。
山下 亜文(やました あもん、1996年4月5日 - )は、… 山下 亜文(やました あもん、1996年4月5日 - )は、石川県加賀市出身の元プロ野球選手(投手、外野手)。左投左打。NPBでは育成選手であった。 小学校1年生から「片山津少年野球クラブ」4年生から「金沢リトルリーグ」に所属、中学生時代は「小松加賀リトルシニア」に所属していた。 小松大谷高校3年生時の6月に行われた北信越大会の1回戦に登板、7回2失点の成績で打席では適時三塁打を放った。夏の甲子園・石川大会では決勝戦で先発登板、8回まで岩下大輝を擁する星稜高校を2安打無得点に抑え、チームは9回の表終了時に8点をリードしていたが、裏の守備で足がつり2失点したところで降板、交代した投手も星稜打線に失点を重ね、チームはこの回9失点でサヨナラ負けを喫し敗退した。
豊島 明好(とよしま あきよし、1990年1月16日 - )… 豊島 明好(とよしま あきよし、1990年1月16日 - )は、石川県加賀市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。現在は横浜DeNAベイスターズのファームマネージャー兼打撃投手を務めている。 中学1年生で父を急性心筋梗塞で、2年生で母を乳がんで相次いで亡くし、13歳年上の姉に面倒を見てもらっていた。北陸大谷高等学校時代は野球部監督の自宅で下宿し、毎朝5時に起床し午後9時頃まで野球に没頭する生活を送っていた。北海道日本ハムファイターズの入団テストを受け合格し、2007年の高校生ドラフト会議で日本ハムに6巡目で指名され、契約金1500万円、年俸450万円で入団。 2008年、オープン戦で好投し、セ・パ両リーグの高卒新人で唯一、日本ハムの高卒新人投手では工藤幹夫以来29年ぶりとなる開幕一軍に選ばれると、同年3月26日の開幕5戦目・対埼玉西武ライオンズ戦(札幌ドーム)で0-8とリードされた8回に初登板を果たし、1回を三者凡退に抑えた。
河野 安通志(こうの あつし、1884年〈明治17年〉3月3… 河野 安通志(こうの あつし、1884年〈明治17年〉3月31日 - 1946年〈昭和21年〉1月12日)は、石川県大聖寺町(現:加賀市)出身のアマチュア野球選手(投手)。日本初のプロ野球チーム創設者。 父は河野通理で、加賀藩士。妻の河野いゑは飛田穂洲(忠順)の妹。 1897年(明治30年)一家は横浜に転居し、野球に親しむようになる。旧制横浜商業学校在学中は野球に熱中しすぎたためか中退した。転校した明治学院には4年に編入し、わずか半年ほど在籍しただけだが、この時期に安部磯雄と出会い、彼のキリスト教精神に共鳴した。東京高等商業学校を目指していたが、1903年(明治36年)に早稲田大学商科入学。早大入学後、創設して3年目の野球部に入部し、ここでまたも野球部部長の安部に偶々出会う。