一尾 星吏夏(いちお せりか、1999年4月5日 - )は、… 一尾 星吏夏(いちお せりか、1999年4月5日 - )は、三重県四日市市出身の元女子プロ野球選手。神戸弘陵学園高等学校卒。ポジションは投手。 2018年レイアに入団。 2019年に埼玉アストライアへ移籍した。11月1日、今季限りで女子プロ野球リーグを退団することが発表された。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
伊藤 裕季也(いとう ゆきや、1996年8月30日 - )は… 伊藤 裕季也(いとう ゆきや、1996年8月30日 - )は、三重県四日市市出身のプロ野球選手(内野手)。右投右打。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 中学時代に四日市トップエースボーイズでプレーする。1年先輩に東克樹がいる。高校は日大三高に進学し、2年秋から外野手としてベンチメンバー入りしたが、秋の都大会では準決勝で髙橋優貴も登板した東海大菅生高に敗れるなど、全国大会出場はなかった。 大学は立正大学に進学すると、2年春から主に一塁手としてレギュラーを獲得する。4年時には二塁手に転向し、主将を務め小郷裕哉とともにクリーンナップを組み、同校初となる秋季リーグ優勝でMVP、ベストナインを受賞、神宮大会優勝の日本一に貢献した。
東 克樹(あずま かつき、1995年11月29日 - )は、… 東 克樹(あずま かつき、1995年11月29日 - )は、三重県四日市市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。横浜DeNAベイスターズ所属。 四日市市立三重北小学校1年時から、軟式野球チームの「三重クラブ野球少年団」で野球を始める。四日市市立大池中学校時代には「四日市トップエースボーイズ」に所属。野茂英雄が総監督を務める「JUNIOR ALL JAPAN(NOMOジャパン)」の一員としてアメリカ遠征を経験した。 愛知県名古屋市の愛工大名電高校への進学後は、1年夏の選手権愛知大会で2試合に先発した。2年時にはチームが春夏連続で甲子園球場の全国大会に出場したが、1学年先輩で自身と同じ左投手の濱田達郎がエースだったことから、いずれの大会でも登板の機会がなかった。
谷口 雄也(たにぐち ゆうや、1992年6月1日 - )は、… 谷口 雄也(たにぐち ゆうや、1992年6月1日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(外野手)。愛称は「谷口きゅん」。
市川 卓(いちかわ すぐる、1986年6月7日 - )は、三… 市川 卓(いちかわ すぐる、1986年6月7日 - )は、三重県四日市市出身の元プロ野球選手(内野手)。
広田 庄司(ひろた しょうじ、1975年4月3日 - )は、… 広田 庄司(ひろた しょうじ、1975年4月3日 - )は、三重県四日市市出身の元プロ野球選手(投手)。 海星高等学校では3年春、夏とエースとして甲子園に出場。本格派左腕投手として注目されるが、春は真木将樹擁する東筑紫学園に、夏は平井正史がエースの宇和島東に初戦で敗れる。東都大学野球リーグの立正大学へ進学、入学時は西口文也が4年生エースだったが、春からリーグ戦に登板。秋から2部降格も最優秀選手、最優秀投手となる活躍で西口との両輪で翌春の1部復帰を決める。東都大学1部リーグ通算53試合登板、15勝27敗、防御率3.41、262奪三振。2部リーグ通算7試合、6勝0敗、防御率1.45。 プロも注目していたが日本通運へ進み、木村一喜とのバッテリーで1年目のスポニチ大会で優勝に貢献、日本選手権では大会タイ記録の6者連続三振。
井手元 健一朗(いでもと けんいちろう、1973年10月2日… 井手元 健一朗(いでもと けんいちろう、1973年10月2日 - )は、三重県四日市市出身の元プロ野球選手・社会人野球選手(投手)、指導者。 小学3年から野球を始める。四日市工業高では2年からエースとなり、2年夏は県大会準優勝すると秋は東海大会へ進むも初戦で岩下修一(浜松工)と投げ合って惜敗。1991年、3年春も東海大会へ出場して、決勝では愛工大名電高の鈴木一朗と投げ合って準優勝に終わるが夏の甲子園に出場。初戦となった2回戦は、エース黒木知宏を擁する延岡学園高と対戦、8-4のスコアで競り勝って甲子園初勝利を成し遂げる。3回戦では松商学園高と対戦し、エース上田佳範と延長16回に及ぶ壮絶な投げ合いを展開したが、最後は打席の上田にサヨナラ押し出し死球を与えてしまい3 - 4のスコアで惜しくも敗れている。
水谷 茂雄(みずたに しげお、1960年7月21日 - )は… 水谷 茂雄(みずたに しげお、1960年7月21日 - )は、三重県四日市市出身の元プロ野球選手(投手)。 中学時代から投手としてプレーし、憧れの甲子園に出場できる近道として1976年に三重・海星高へ進学したが、規則の厳しさに嫌気がさして1年の1学期で退学した。1年遅れで入学した四日市工業高ではエース兼4番に抜擢され、速球を主体にカーブ、シュートを決め球とする本格派として活躍し、1年次の1977年夏にノーヒットノーランを記録。打つ方でも打率.420をマークしたほか、2年間で20本塁打以上を打つなど野手顔負けの長打力を見せた。1年遅れで入学したため、3年次の1979年は試合に出場できなかった。練習の手伝いやベンチからのサイン伝達などコーチ見習いの役割をしていたが、同年途中からは監督として部員をまとめた。
島田 光二(しまだ こうじ、1936年4月12日 - )は、… 島田 光二(しまだ こうじ、1936年4月12日 - )は、三重県四日市市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。 四日市高校では3年次の1954年に夏の甲子園県予選を勝ち抜くが、三岐大会で森昌彦捕手を擁する岐阜高校に敗退、甲子園出場を逸する。高校同期にエースの巽一がいるほか、1年下の高橋正勝(巨人に入団)は、翌年夏の甲子園で主戦投手として初優勝している。 卒業後の1955年に近鉄パールスに入団し、1年目の同年から一軍出場。内野の準レギュラーが長かったが、1962年に一塁手の定位置を獲得し、規定打席(打率.278、18位)に到達。その後も内野全般をこなすユーティリティプレイヤーとして活躍し、通算1029試合に出場した。
服部 武夫(はっとり たけお、1932年11月28日 - )… 服部 武夫(はっとり たけお、1932年11月28日 - )は、三重県四日市市出身の元プロ野球選手(投手)。 四日市高卒業に当たって、南海球団社長・松浦竹松の友人の紹介でテストを受けて合格し、1950年に南海ホークスへ入団。 2年目の1951年に31試合登板し、10勝7敗、防御率2.03を記録して南海の優勝に貢献した。防御率2.03はリーグ1位の成績だったが、この年だけ導入された資格投球回数算定法によって南海ホークスの標準回数が164回と決まっており、投球回数が155回だった服部は規定未満として最優秀防御率のタイトルを逃し、2.08で2位だった同僚の柚木進がタイトル獲得となった。読売ジャイアンツとの日本シリーズにも出場し、第1戦と第2戦はリリーフで登板。
伊藤 四郎(いとう しろう、1932年11月1日 - 201… 伊藤 四郎(いとう しろう、1932年11月1日 - 2011年5月30日)は、三重県四日市市出身で、1950年代に活躍したプロ野球選手(投手)。 四日市商業高校を卒業後、1951年に名古屋ドラゴンズに入団。名古屋(中日)ではわずか2勝と目立った活躍はできなかった。 1955年1月末の春のキャンプ直前に、中西由行とともにトンボユニオンズに移籍。慶應大学の先輩後輩の縁で、トンボ監督・浜崎真二が中日代表・中村三五郎に対して、未完成でもよいのでとにかく身体が大きく球が速い選手を要望し、移籍の運びとなった。移籍通告後すぐさま、伊藤と中西は中日球団から特別二等車の切符を与えられて、列車で岡山キャンプに向かっていたトンボの選手と合流するように指示される。