スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
服部 沙也加(はっとり さやか、2000年5月1日 - )は… 服部 沙也加(はっとり さやか、2000年5月1日 - )は、三重県出身のハンドボール選手。日本ハンドボールリーグ(リーグH)の熊本ビューストピンディーズ所属。 三重県立四日市商業高等学校時代は2017年にユースアジア選手権の日本代表U-18に選出された。 2018年は2年連続で日本代表U-18に選ばれ、ユース世界選手権に出場。 高校卒業後は中京大学へ進学。 2019年はジュニアアジア選手権の日本代表U-20に選出された。 2023年に日本ハンドボールリーグのオムロンへ加入。
舟久保 朱音(ふなくぼ あかね、1999年5月12日 - )… 舟久保 朱音(ふなくぼ あかね、1999年5月12日 - )は、三重県出身のハンドボール選手。日本ハンドボールリーグ(リーグH)のハニービー石川所属。 三重県立四日市商業高等学校在学中に日本ハンドボールリーグの三重バイオレットアイリスへ加入。背番号は「99」。 高校卒業後は武庫川女子大学に進学。 2022年1月に日本ハンドボールリーグの北國銀行へ加入。背番号は「1」。 この項目は、ハンドボールに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル スポーツ/プロジェクト スポーツ)。
北川 愛理(きたがわ あいり、1998年7月15日 - )は… 北川 愛理(きたがわ あいり、1998年7月15日 - )は、日本の元女子バスケットボール選手である。ポジションはシューティングガード。 四日市商業高校でウィンターカップベスト8を経験。 卒業後、アイシン・エィ・ダブリュ ウィングスに加入。 2022年、プレステージ・インターナショナル アランマーレに移籍。 2025年、現役引退。
園田 奈緒(そのだ なお、1989年12月22日 - )は、… 園田 奈緒(そのだ なお、1989年12月22日 - )は、日本の女子バスケットボール選手。ニックネームは「サン」。ポジションはセンター。三重県出身。デンソーアイリス所属。 四日市市立内部中学校から四日市商業高校を経て愛知学泉大学に進学、インカレでは2年次に敢闘賞、3年次、4年次には優秀選手賞に選ばれている。 卒業後の2012年、デンソーアイリスに加入。
小林 阿古(こばやし あこ、1984年5月18日 - )は、… 小林 阿古(こばやし あこ、1984年5月18日 - )は、三重県出身のバスケットボール選手である。 ミニバスクラブの多度南ミニ・多度ツインズから、多度中を経て、四日市商高に進学。1年よりインターハイ、ウィンターカップに出場。高校卒業後は愛知学泉大学に進学。インカレにも出場した。2007年、トヨタ自動車に入社、アンテロープスに所属。 2010年、トヨタを退社し、日立ハイテクに移籍。2012年引退。
伊藤 四郎(いとう しろう、1932年11月1日 - 201… 伊藤 四郎(いとう しろう、1932年11月1日 - 2011年5月30日)は、三重県四日市市出身で、1950年代に活躍したプロ野球選手(投手)。 四日市商業高校を卒業後、1951年に名古屋ドラゴンズに入団。名古屋(中日)ではわずか2勝と目立った活躍はできなかった。 1955年1月末の春のキャンプ直前に、中西由行とともにトンボユニオンズに移籍。慶應大学の先輩後輩の縁で、トンボ監督・浜崎真二が中日代表・中村三五郎に対して、未完成でもよいのでとにかく身体が大きく球が速い選手を要望し、移籍の運びとなった。移籍通告後すぐさま、伊藤と中西は中日球団から特別二等車の切符を与えられて、列車で岡山キャンプに向かっていたトンボの選手と合流するように指示される。
平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 … 平田 佐貞(ひらた すけさだ、1909年(明治42年)5月 - 1938年(昭和13年)10月)は、日本の俳人・彫刻家・陸軍軍人。 平田紡績の創業家に生まれる。2代目平田佐次郎の第12子・七男であり、長兄に平田佐十郎、次兄に平田佐武、三兄に平田佐矩、四兄に平田佐雄、五兄に宗村佐信(宗村の養子)、六兄に平田佐義。長姉にあさお子、次姉にあさへ子、三姉にますへ子、四姉に富枝子。甥に宗村完治、宗村南男と宗村明夫がいる。三重郡富洲原町出身(現在の三重県四日市市富洲原地区富田一色町)出身。
宗村 佐信(むねむら すけのぶ、1904年(明治37年)6月… 宗村 佐信(むねむら すけのぶ、1904年(明治37年)6月3日 - 1975年(昭和50年)8月29日)は、日本の実業家、教育者である。平田紡績の5代目社長を務め、また暁学園を創設した。三重郡富洲原町(現在の三重県四日市市富洲原地区)富田一色出身。 四日市本社工場(富洲原の天ヶ須賀本町(天ヵ須賀5丁目)の紡績工場・富洲原の住吉町の善太付近の漁網工場)と富洲原周辺の三重郡川越町高松天神の川越漁網工場・志摩市の浜島疎開工場・東紀州の尾鷲市の尾鷲疎開工場以外の工場を建設して東日本地域やアフリカなど海外に進出して生産拠点が拡大した。 また1951年(昭和26年)11月に昭和天皇の(三重県)伊勢行幸の際、同じ富洲原地区の東洋紡績富田工場の視察後に平田紡績を視察した。
平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年(明治26年)… 平田 佐十郎(ひらた さじゅうろう、1893年(明治26年) - 1918年(大正7年)11月11日)は、三重県四日市市出身の実業家。平田家の3代目当主である。2代目平田佐次郎の長男で、佐次郎から一旦平田家の家督を継承し、平田紡績の3代目社長も務めた。スペイン風邪の病死者である。 2代目平田佐次郎とたきの長男として、三重県三重郡富洲原村の富田一色本町(現在の四日市市富田一色地区七軒本町)で出生した。祖父は、平田紡績創業者の初代平田佐次郎である。初代と2代目の親子2代で「平田佐次郎」を襲名していたが、3代目当主は「佐十郎」を名乗った。8男4女の12人兄弟であり、母親の平田たきは吉川家出身で、最後に平田佐貞などの双子の男子を出産をした際に体調が悪化して病死した。
岡田 惣一郎(おかだ そういちろう、1885年〈明治18年〉… 岡田 惣一郎(おかだ そういちろう、1885年〈明治18年〉 - 1927年〈昭和2年〉)は、四日市岡田家・岡田屋の6代目当主である。5代目当主の岡田惣右衛門の甥で養子。 5代目四日市岡田家当主の岡田惣右衛門夫妻は不妊症で、子どもが生まれなかった。「このままでは岡田屋が滅亡する。夫婦養子をとろう」となり、惣右衛門の妹の岡田ひさが婿養子をもらうこととなった。婿養子となったのは、前田末吉。イオンの社史など史料で詳しい経歴が公開されていないため家柄などの出自が判明していない人物である。前田末吉は、貿易関係者であった。貿易商人として朝鮮半島と関係があり、四日市西町の紙商店である鍵忠の奉公人として修業し、勤勉に働いていた男性だった。
五島 慶太(ごとう けいた、旧姓・小林、1882年〈明治15… 五島 慶太(ごとう けいた、旧姓・小林、1882年〈明治15年〉4月18日 - 1959年〈昭和34年〉8月14日)は、日本の実業家、政治家、官僚。東急及びその子会社の東急電鉄といった東急グループの事実上の創業者である。正三位勲一等。長野県青木村名誉村民。 長野県の農家に生まれ、東京帝国大学卒業後、官僚を9年務めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任。実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道(現・東急池上線)や玉川電気鉄道(後の東急玉川線)をはじめとする数々の競合企業をM&Aを用いて次々と買収し、「強盗慶太」の異名を取った。一方、実業家としては優れた経営を行い、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と称された。
藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年7月4日 - … 藤本 幸太郎(ふじもと こうたろう、1880年7月4日 - 1967年6月1日)は、日本の商学者・経済学者。専門は、海上保険論・統計学。当時の日本の保険学の最高権威とされた。一橋大学名誉教授。日本統計学会会長、東京海上火災保険監査役等を歴任。また、日本初の商学博士としても知られる。勲二等旭日重光章受章。村瀬春雄門下。 福井県丹生郡生まれ。三重県四日市市川原町出身。小学校時代は常に優等で鳴らし、三重県初の商業学校である四日市商業学校(現三重県立四日市商業高等学校)を第1期生として卒業後、同校で教鞭を執った。その後も母校四日市商業にたびたび貢献し、創立90周年記念に作成された胸像「藤本幸太郎翁」が正面玄関に置かれている。
井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8… 井島 茂作(いじま もさく、1855年9月18日(安政2年8月8日)- 1925年(大正14年)8月31日)は、三重県四日市市(伊勢国)出身の政治家、教育者、実業家。第2代四日市市長(官選市長)。 井島家は戦国時代には北畠氏の家臣であったが、1570年(元亀元年)に多気郡浅香(現在の松阪市嬉野町付近)から四日市に移住して、北勢四十八家の1つの浜田氏の重臣となった。江戸時代には、市場町四日市を開拓した旧家として名高く、代々庄屋を務めた。1804年(文化元年)以降は苗字帯刀永久御免となった。 竪町(現在の四日市市北町)に誕生した茂作は、1867年(慶応3年)に庄屋役見習い、1872年(明治5年)には度会郡の山田国札引替役に任命された。