谷村 剛(たにむら つよし、2006年9月15日 - )は、… 谷村 剛(たにむら つよし、2006年9月15日 - )は、和歌山県有田郡有田川町出身のプロ野球選手(内野手・育成選手)。右投左打。千葉ロッテマリーンズ所属。 有田川町立田殿小学校で2年時に野球を始める。有田川町立吉備中学校在学時は2年時まで有田リトルシニアでプレーし、それ以降は軟式野球部に所属した。 和歌山東高等学校に進学し、1年時に背番号15で第104回全国高等学校野球選手権大会に出場。三塁手として全4戦中3試合の先発出場し、打率.429、5打点の活躍でベスト4進出を貢献。1回戦の紀北農芸高等学校戦で適時三塁打2本、2回戦の耐久高等学校戦で適時三塁打1本を記録。続く、1年時秋の新チームから背番号5を背負い、先頭打者として秋季近畿地区高等学校野球大会においてベスト8進出に貢献した。
吉井 理人(よしい まさと、1965年4月20日 - )は、… 吉井 理人(よしい まさと、1965年4月20日 - )は、和歌山県有田郡吉備町(現:有田川町)出身の元プロ野球選手(投手)。現在は北海道日本ハムファイターズの一軍投手コーチ。
東尾 修(ひがしお おさむ、1950年5月18日 - )は、… 東尾 修(ひがしお おさむ、1950年5月18日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手(投手)、監督、野球解説者。日本プロ野球名球会理事。タレント。
谷口 維紹(たにぐち ただつぐ、1948年1月1日 - )は… 谷口 維紹(たにぐち ただつぐ、1948年1月1日 - )は日本の分子免疫学者。東京大学教授。和歌山県出身。
小槙 孝二郎(こまき こうじろう、1903年1月30日 - … 小槙 孝二郎(こまき こうじろう、1903年1月30日 - 1969年5月3日)は、日本のアマチュア天文家。日本の流星観測のネットワークを組織。 現在の岡山県津山市上之町の山本家に生まれる。1921年、天文同好会(後の東亜天文学会)に入り京都大学の山本一清に師事し、同会の流星課長として月刊誌『天界』に流星観測報告や論文を発表。1925年、和歌山県有田郡(現・有田川町)に転居(小槙姓となる)。以後、教職に就きながら流星観測を続け1943年に「紀伊天文同好会」を設立。後にこれが「日本流星研究会」に発展し、全国三百数十カ所にわたる流星観測のネットワークを組織。日本全国のアマチュア天文家と交流し青少年の宇宙への夢を育んだ。
田淵 光一(田渕 光一、たぶち こういち、1900年(明治3… 田淵 光一(田渕 光一、たぶち こういち、1900年(明治33年)2月3日 – 1972年(昭和47年)5月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。「田渕」と表記される場合がある。 和歌山県有田郡、のちの金屋町(現有田川町)で生まれた。法政大学専門部法律科で学んだが、関東大震災で負傷し中退した。 1937年(昭和12年)日本林産鉱業取締役社長、1938年(昭和13年)明治採炭鉱業社長にそれぞれ就任し、1942年(昭和17年)から三重県、奈良県で亜炭鉱山上野炭鉱などを経営した。その他、奈良県亜炭鉱業会長、近畿亜炭鉱業会理事、全国亜炭鉱業連合会常任理事、奈良県亜炭協同組合理事長、石炭増産協力会推進専門委員、全国亜炭産業会総務理事、全国亜炭協会長、国際化成社長、伊賀窯業取締役などを務めた。
川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月… 川口 軌外(かわぐち きがい、1892年〈明治25年〉11月10日 - 1966年〈昭和41年〉6月5日)は、日本の洋画家。和歌山県生まれ。1920年代、パリでアンドレ・ロート、フェルナン・レジェ、マルク・シャガールらに学ぶ。帰国後の1930年代、独立美術協会の結成に参加。幻想的で色彩豊かな作風で評価を得た。戦後は国画会に所属し、抽象的な作風へと展開した。東京都で没した。
瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 19… 瀬藤 象二(せとう しょうじ、1891年3月18日 - 1977年10月20日)は、電気工学者。和歌山県出身。
小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月1… 小槙 和輔(こまき わすけ、1884年(明治17年)12月10日 - 1932年(昭和7年)8月20日)は、日本の海軍軍人。 旧名は庄之助。最終階級は海軍少将。1932年ジュネーブ会議の全権随員。和歌山県鳥屋城村(現有田川町)出身。
建畠 大夢(たてはた たいむ、1880年2月29日 - 19… 建畠 大夢(たてはた たいむ、1880年2月29日 - 1942年3月22日)は、彫刻家、帝国芸術院会員。本名は彌一郎。 1880年2月29日、和歌山県有田郡城山村大字境川(現:有田川町境川)の豪農・建畠喜助の四男として生まれる。野上尋常高等小学校を卒業後、叔父・小林山卿が大阪府で医院を開業していたため、父の希望により大阪医学校へ入学した。 しかし、医師になることを嫌い、叔父の友人・木島櫻谷の紹介で京都市立美術工芸学校に転校、1907年には東京美術学校彫刻科へ編入学して白井雨山に師事し、1911年に同校を卒業した。在学中から文部省美術展覧会に出品し、「閑静」(1908年)や「ながれ」(1911年)で三等賞受賞。
有本 楠太郎(ありもと くすたろう、1862年5月19日〈文… 有本 楠太郎(ありもと くすたろう、1862年5月19日〈文久2年4月21日〉 - 没年不明)は、日本の商人(皮革貿易商)・政治家・慈善家。有本商店店主。大阪市南区会議員。 和歌山県有田郡御霊村字庄(のち吉備町、現・有田川町)の農家に生まれる。15歳の時に大阪に出て、奉公先に住み込み、25歳の春までよく主家に勤める。独立して皮革貿易店を開業する。 家業に精励し成功する。博愛慈善に傾倒する。1892年に赤十字社終身社員に加入し、1905年に金200円を寄付し特別社員に推薦される。赤十字社特別社員としてよく奉公の義務を尽くす。日露戦役に際して殊に恤兵の事に意を用いて各種の公共的団体に金品を投じる。 中国及び朝鮮と特約貿易を行い、仁川、木浦、群山、京城、馬山等より原料を輸入し、これを精製して南北清の各要地、即ち天津、大連、上海、営口、香港等に取引を開始する。