三上 真司(みかみ しんじ、1979年9月1日 - )は、京… 三上 真司(みかみ しんじ、1979年9月1日 - )は、京都府城陽市出身の元プロ野球選手(投手)。
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三上 真司(みかみ しんじ、1979年9月1日 - )は、京… 三上 真司(みかみ しんじ、1979年9月1日 - )は、京都府城陽市出身の元プロ野球選手(投手)。
森 慎二(もり しんじ、1974年〈昭和49年〉9月12日 … 森 慎二(もり しんじ、1974年〈昭和49年〉9月12日 - 2017年〈平成29年〉6月28日)は、山口県岩国市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 山口県立岩国工業高等学校卒業後、新日鐵光に入るが新日鐵グループ野球部の再編にともない、新日鐵君津へ転籍した。1996年の第67回都市対抗野球大会では優秀選手賞を受賞した。同年のドラフト会議で西武ライオンズから2位指名を受け、入団した。同期入団には和田一浩がいた。 プロ1年目の1997年シーズンは、プロ初登板が先発だった。先発としては結果を残せなかったものの中継ぎで好投したことからリリーフへ転向した。後半には石井貴と入れ替わる形で抑えに抜擢され、最終的に38試合に登板し、6勝2敗9セーブを記録成績でチームの優勝に貢献した。
藤島 誠剛(ふじしま せいごう、1969年10月3日 - )… 藤島 誠剛(ふじしま せいごう、1969年10月3日 - )は、山口県岩国市出身の元プロ野球選手(外野手、内野手)。右投右打。 岩陽高では3年夏の県大会準決勝で延長10回サヨナラ負け。高校通算68本塁打を放つなど活躍。これは同期の鈴木健に次ぐ当時の2位の記録であった。 1987年のプロ野球ドラフト会議において、日本ハムファイターズから3位指名を受け入団した。 1992年は、一軍にプロ入り初出場を開幕スタメンで果たす。 1994年にイースタン・リーグで打率.318(首位打者)、少ない打席ながらも19本塁打(2位)、60打点(3位)を記録するが、一軍では1安打しか打てず、後半は二軍暮らしだった。 1995年は、4月2日にプロ入り初本塁打を記録するなど、8月末まで一軍に帯同した。
村上 文敏(むらかみ ふみとし、1962年11月27日 - … 村上 文敏(むらかみ ふみとし、1962年11月27日 - )は、山口県岩国市出身の元アマチュア野球選手(内野手)、野球指導者。 元グラビアアイドルの村上友梨は娘。 岩国商では1番・遊撃手として2年秋に県大会優勝で中国大会へ進むと、倉吉北高との初戦は9回日没引分けとなって再試合では延長18回の末に惜敗し選抜出場は逃した。3年夏の甲子園には出場したが初戦で美濃加茂高に敗退。駒澤大学に入学し、広瀬哲朗の後を受けて遊撃手として1学年上の白井一幸と二遊間を組むと4年では主将も務め、春はベストナインで1984年の第13回日米大学野球選手権の日本代表に選ばれた。4年秋の明治神宮大会では同期の河野博文、横田真之らのメンバーで優勝。
渡辺 純志(わたなべ じゅんし、1952年8月17日 - )… 渡辺 純志(わたなべ じゅんし、1952年8月17日 - )は、山口県岩国市出身の元プロ野球選手(内野手)。 岩国高から、社会人野球の東洋紡岩国に進むがチームが解散。1976年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受け入団。 1978年には、シーズン中盤に藤田平が一塁手に回り、遊撃手として榊原良行と併用され20試合に先発出場を果たす。翌1979年には真弓明信が遊撃手に定着したこともあり、二塁手、三塁手としても起用され、プロ初本塁打を含む2本塁打を放った。しかしその後は活躍の場に恵まれず、1981年オフに退団、引退した。引退後は喫茶「トーク・トーク」を経営した。 プロ通算34安打であるが、通算21得点を記録している。
芦岡 俊明(よしおか としあき、1952年4月11日 - )… 芦岡 俊明(よしおか としあき、1952年4月11日 - )は、山口県岩国市出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。右投右打。 岩国工高在学時は強打の内野手として知られたが、甲子園には出場できなかった。1970年のドラフトで大洋から7位指名されるも拒否し、亜細亜大に進学。東都大学野球リーグでは1971年の春季リーグで優勝を経験するが、自身の活躍の場はなく、その後は優勝に届かなかった。リーグ通算50試合出場、135打数18安打、打率.133、1本塁打、7打点。大学同期に林龍郎がいる。 1974年のドラフトでロッテより3位指名を受け入団。入団当初は主に遊撃手として起用されたが、飯塚佳寛の壁を破れず、あまり出場機会はなかった。
中本 富士雄(なかもと ふじお、1938年6月13日 - )… 中本 富士雄(なかもと ふじお、1938年6月13日 - )は、山口県出身の元プロ野球選手(投手)。 岩国商業高では柳井高・遠井吾郎とともに、山口を代表する選手として知られていた。1957年夏にはエースとして、初の西中国大会進出に導いている。 高校卒業後、社会人野球の東洋紡岩国を経て、1957年暮れに広島カープへ入団。元々は南海ホークスのテストに合格していたが、地元の岩国市へ帰る汽車の中で付き添いの高校時代の監督から広島という球団の存在を知り、広島駅で途中下車して広島市民球場でテストを受け合格し、実家に近いという理由で広島入りした。 入団1年目の1958年から長谷川良平、備前喜夫に次ぐ先発3番手として期待され、ルーキーイヤーは1度の完封勝利(5月22日の阪神タイガース戦〈甲子園球場〉)を含む7勝を挙げている。
江田 孝(えだ たかし、1923年3月18日 - 1978年… 江田 孝(えだ たかし、1923年3月18日 - 1978年2月11日)は、山口県玖珂郡本郷村出身のプロ野球選手(投手)・コーチ・監督。 1948年から1955年までの登録名は江田 貢一 (えだ こういち)。 旧制伊丹中学校卒業後、1941年に阪急軍へ入団。同年8月2日の名古屋軍戦(西宮)で先発し7回2/3を投げて降板し、江田の2番手で1回1/3を投げた森弘太郎との継投でのノーヒットノーランを記録。 1943年に応召され、1946年にゴールドスターでプロ球界に復帰し、1947年に初の2桁勝利となる11勝を挙げる。篠崎倉庫を経て1948年に大陽ロビンスへ移籍し、1950年にはオーバースローからシュートやシンカー、カーブ、ナックルを武器に23勝を挙げ、2リーグ分立後初のリーグ優勝に大きく貢献。