有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年… 有田 義資(ありた よしすけ、1854年1月24日(嘉永6年12月26日) - 1940年(昭和15年)8月12日)は、幕末の佐賀藩士、明治・大正期の内務官僚、政治家。県知事、津市長、錦鶏間祗候。 佐賀藩士・有田伝蔵の長男として佐賀城下水の江に生まれる。藩校・弘道館で学ぶ。戊辰戦争に従軍し、会津戦争に小隊副指令(嚮導)として参加。 1875年(明治8年)1月、内務省に入り地理寮雇となる。以後、栃木県師範学校副幹事、栃木県八等警部、島根県警部、福島県警部、青森県属・庶務課長、同県警部、青森県警部長、埼玉県警部長、福岡県警部長、山口県警部長、島根県・大分県・岡山県の各書記官などを歴任。 1900年(明治33年)4月、徳島県知事に登用された。
高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4… 高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4年12月28日) - 1904年(明治37年)6月2日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の海軍軍人。佐賀市水ヶ江出身。最終階級は海軍少将(死後昇進)。栄典は従四位勲三等功四級。 1852年、佐賀藩士高木彌左衛門の第2子として生まれる。藩校弘道館に学んだのち、1865年(慶応元年)佐賀藩の海軍兵学校「船手稽古所」(三重津海軍所の当時における呼称)に入校。戊辰戦争には佐賀藩艦甲子丸の乗員として出征した。1871年(明治4年)燈台寮技術見習を拝命。1874年(明治7年)海軍少尉に任官した。さらに1876年(明治9年)には鳳翔乗員として西南戦争に出征。
江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年… 江副 靖臣(えぞえ やすおみ、1851年5月20日(嘉永4年4月20日) - 1915年(大正4年)4月24日)は佐賀藩出身の明治、大正時代の士族、弁護士、政治家、実業家。佐賀新聞の創刊者・初代社長、衆議院議員。本姓は野口。幼名は又四郎。 1851年(嘉永4年)、肥前国佐賀郡大堂村(東川副村、諸富町を経て現佐賀市諸富町)に佐賀藩士、野口惣三の三男として生まれ、のち江副家の養子となった。藩校弘道館に学び17歳で江戸藩邸詰に任ぜられた。 明治維新後に慶應義塾に入り、横浜のヘボン塾に遊学した。慶應義塾在学中の1872年(明治5年)に新聞社を設立するがこれは失敗し、ほどなく廃刊となった。その後1874年(明治7年)、24歳の時に迎えた佐賀の乱では江藤新平率いる征韓党に属している。
江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3… 江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期の武士(佐賀藩士・権大参事)、明治時代の政治家、官吏、教育者。幼名は恒太郎、又蔵。諱は胤雄、胤風とも、号は南白または白南。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。位階は贈正四位。 東征大総督府軍監、徴士、制度取調専務、左院副議長(初代)、文部大輔(初代)、司法卿(初代)、参議を歴任したが、明治六年政変で下野。佐賀の乱の首謀者として処刑された。 立法・行政・司法がそれぞれ独立する「三権分立」を推進し、日本近代司法体制の生みの親として「近代日本司法制度の父」と称される。
副島 義高(そえじま よしたか、文政10年(1827年) -… 副島 義高(そえじま よしたか、文政10年(1827年) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士。佐賀の乱の首謀者の一人。佐賀の七賢人の一人島義勇の弟。副島謙助とも。副島種臣は母方の従兄弟に当たる。 文政10年(1827年)、佐賀城下の精小路に島義勇、重松基吉の弟として生まれる。兄たちとともに藩校弘道館で学び、長じて副島家の養子となる。 川副三郷(現在の佐賀市川副町)、与賀二郷(同佐賀市東与賀町など)を治める代官を務めたが、明治維新後進められた政策により士族の権利が縮小されるにつれ、不平を募らせた佐賀士族のリーダー的な存在となる。明治6年(1873年)4月には山岡鉄舟に対し建白書を提出するなどしたが効果はなく、明治7年(1874年)2月佐賀の宝林院にて不平士族を結集し、天皇と鍋島家の安全を守ることを掲げた「憂国党」を結成する。
朝倉 尚武(あさくら なおたけ、天保13年(1842年) -… 朝倉 尚武(あさくら なおたけ、天保13年(1842年) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士、明治初期の軍人。通称は弾蔵。 天保13年(1842年)、佐賀城下に佐賀藩士の家に生まれる。幼少より藩校弘道館に学び特に兵学に優れた。戊辰戦争では佐賀藩隊の軍監付属や、小隊長として奥羽戦線で活躍している。また戦後は東京遊学を命じられ、昌平黌に入った。 明治4年(1871年)に帰郷すると同年編成された佐賀藩兵一番大隊長に任命され、さらに上京して陸軍少佐を拝命し兵部省に勤めたがほどなく辞職した。その後上京していたが征韓論に伴う明治六年政変により江藤新平、副島種臣などが野に下ると、再度郷里の佐賀に戻った。