平良 海馬(たいら かいま、1999年11月15日 - )は… 平良 海馬(たいら かいま、1999年11月15日 - )は、沖縄県石垣市出身のプロ野球選手(投手)、YouTuber。右投左打。埼玉西武ライオンズ所属。 パシフィック・リーグにおける連続登板無失点記録(39試合)保持者。 たいらげーむのチャンネル名でゲーム実況YouTuberとしても活動していたが、2025年より野球動画をメインの活動に変更している。 小学校から捕手として野球を始め、真喜良サンウエーブに所属。中学校では石垣島唯一の硬式チームである八重山ポニーズに所属。2年から投手に転向。3年にはポニーリーグで全国大会に出場した。なお八重山ポニーズは平良の代が卒団すると、人数不足で活動休止となった(2021年に活動再開)。
大嶺 翔太(おおみね しょうた、1991年9月17日 - )… 大嶺 翔太(おおみね しょうた、1991年9月17日 - )は、沖縄県石垣市出身の元プロ野球選手(内野手)。元プロ野球選手の大嶺祐太は実兄。プロ1年目の2010年から2013年までの登録名は「翔太」。 石垣島生まれ。小学校2年生時から野球を始める。ポジションはショートなど内野が多かったが、小学校6年生からピッチャーを兼任した。中学時代は軟式野球部に所属し主にショート、ピッチャーとしても中学校3年生時には140km/hに到達。 兄の祐太に憧れて沖縄県立八重山商工高等学校に入学。強肩を買われ1年夏には捕手でレギュラー。その後投手、遊撃手などを兼任する。3年夏は1番に入り三塁手兼投手として活躍したが、準決勝で同大会を優勝する興南高等学校に敗戦。
嘉弥真 新也(かやま しんや、1989年11月23日 - )… 嘉弥真 新也(かやま しんや、1989年11月23日 - )は、沖縄県石垣市出身の元プロ野球選手(投手)。左投左打。 沖縄県石垣市白保出身。白保小学校4年時から野球を始め、中学までは軟式野球でプレーをした。石垣島には高校が3校しか無い中、のちに大嶺祐太を擁して離島旋風を巻き起こした八重山商工高校があったものの、入試に落ちたくなかったこと、八重山商工に好選手が集まっていたこと、幼馴染みの好選手・長間翔悟が八重山農林への進学を決めたことを理由に、八重山農林高校へ進学した。 同校では硬式野球部に入部し、2年夏からベンチ入り。長間がいたこともあって外野手兼2番手投手としてプレーし、3年夏の県大会では初戦で5打数4安打を記録。
大嶺 祐太(おおみね ゆうた、1988年6月16日 - )は… 大嶺 祐太(おおみね ゆうた、1988年6月16日 - )は、沖縄県石垣市出身の元プロ野球選手(投手)。右投左打。 愛称は「ゆうた」。2018年まで千葉ロッテマリーンズに所属していた大嶺翔太は実弟。 石垣島(沖縄県石垣市)生まれ。小学2年時に「八島マリンズ」で三塁手として野球を始める。中学生時代は硬式ポニーリーグの「八重山ポニーズ」で投手として活躍、3年時の2003年には世界大会3位になった。同じ沖縄出身の新垣渚を見て、プロを志したという。 小学生時代より指導を受けた伊志嶺吉盛の強い勧めで沖縄県立八重山商工高等学校に進学。2006年には春(第78回選抜高等学校野球大会)・夏(第88回全国高等学校野球選手権大会)の甲子園連続出場を果たし、八重山商工の快進撃の原動力となった。
伊礼 忠彦(いれい ただひこ、1970年8月20日 - )は… 伊礼 忠彦(いれい ただひこ、1970年8月20日 - )は、沖縄県出身の元プロ野球選手(外野手)。
平良 吉照(たいら よしてる、1969年4月5日 - )は、… 平良 吉照(たいら よしてる、1969年4月5日 - )は、沖縄県石垣市出身の元プロ野球選手(外野手)。 八重山高から、1987年のプロ野球ドラフト会議で日本ハムファイターズから5位指名を受け入団。 捕手として入団したが、3年目の1990年に外野手に転向するが、同年限りで現役を引退した。 のちに故郷である石垣島でスポーツトレーニングスタジオを開設し、現在は那覇市で加圧ダイエットエステ店を展開している。 この項目は、野球選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ野球選手/P野球)。
伊志嶺 吉盛(いしみね よしもり、1953年11月23日 -… 伊志嶺 吉盛(いしみね よしもり、1953年11月23日 - )は、沖縄県石垣市出身の高校野球指導者である。 石垣島の沖縄県立八重山農林高等学校から本島の沖縄大学に進み、準硬式野球部に所属し全国制覇。 帰島して1978年に沖縄県立八重山商工高等学校の監督に就任した。一度引退したが、石垣市の野球部監督派遣事業に伴い、2003年春に同校監督に復帰。 2006年春のセンバツに初出場し、同年夏の甲子園にも初出場。春夏連続出場を果たし全国最南端高校の偉業と注目された。主力であった大嶺祐太らを小学生時代から指導していた。そのため入学時から期待されていた世代だったが、選手のほとんどが同じ石垣島育ちの幼馴染で競争意識が無く、朝練を休んだりサボったりとのんびりした性格が災いし当初は勝ちきれずにいた。