諸橋 仁智(もろはし よしとも、1976年〈昭和51年〉8月… 諸橋 仁智(もろはし よしとも、1976年〈昭和51年〉8月19日 - )は、日本の弁護士、宅地建物取引士、文筆家、ボクサー。元暴力団構成員。ニックネームはパンチ弁護士。 1976年 (昭和51年) 8月19日、福島県いわき市生まれ。中学生のとき父がガンで亡くなる。福島県立磐城高等学校(47期)卒業。進学校出身であったがそこで落ちこぼれる。大学受験予備校時代に覚醒剤に手を出したことがきっかけでぐれだす。 2年間大学受験浪人した後、成蹊大学経済学部に入学する。その後、アルバイト先の麻雀店で暴力団員と知り合う。その「アニキ」とともにヤミ金業を歩む。その後、同大学を2年のときに中退する。そして21歳で暴力団構成員になる。
山崎 章郎(やまざき ふみお、1947年 - )は、日本の医… 山崎 章郎(やまざき ふみお、1947年 - )は、日本の医師、文筆家。 福島県生まれ。1975年、千葉大学医学部卒業、同大学病院第一外科勤務。1984年、千葉県八日市場市(現匝瑳市)市民病院消化器科医長。1991年、聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長。2005年、在宅診療専門診療所ケアタウン小平クリニック院長。1991年、『病院で死ぬということ』で日本エッセイストクラブ賞受賞。同作は1993年に市川準監督で映画化された。
小泉 武夫(こいずみ たけお、1943年8月27日 - )は… 小泉 武夫(こいずみ たけお、1943年8月27日 - )は、日本の農学者、発酵学者、文筆家。東京農業大学名誉教授(農学博士)。専門は、発酵学、食品文化論、醸造学。 福島県小野町の造り酒屋で、6人きょうだいの末っ子として生まれた。幼少時は走り回って囲炉裏の灰に突っ込んだこともあるほどヤンチャで、火傷を防ぐため祖母が柱に帯でつないだこともあったが、右手に身欠き鰊、左手に味噌を持たせると泣き止み、それらをしゃぶっている間は大人しかったという。実家には家族や従業員ら毎食20人分を用意する大きな台所があり、小学生の頃には鰹節を削ったり、ぬか床の手入れをしたりしていた。小学校4年の時、母が亡くなり落ち込んでいたのを見た父から、寂しさを紛らわさせるため専用の台所と調理用具一式を与えられ、料理にのめり込んだ。
鈴木 邦男(すずき くにお、1943年〈昭和18年〉8月2日… 鈴木 邦男(すずき くにお、1943年〈昭和18年〉8月2日 - 2023年〈令和5年〉1月11日)は、日本の政治活動家、「一水会」名誉顧問、思想家、文筆家、プロレス評論家、河合塾講師。 ほか、「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(のりこえねっと)共同代表。コリア国際学園後援会発起人。 1943年、福島県郡山市に生まれる。税務署勤務だった父親の都合で、秋田県、宮城県と、高校生の頃まで東北地方を転々とする。横手に住んでいたときは、ジャーナリストのむのたけじがよく家に来ていた。 生長の家との関わりは、母親が病気になったとき、伊藤邦典(のちに全国学協と楯の会)の父親である生長の家の地方講師の祈祷によって、治癒したことがきっかけで、以降、鈴木家では母親が熱心な信者となった。
吉野 せい(よしの せい、1899年〈明治32年〉4月15日… 吉野 せい(よしの せい、1899年〈明治32年〉4月15日 - 1977年〈昭和52年〉11月4日)は、日本の文筆家。 福島県石城郡小名浜町(現・福島県いわき市)に生まれる。旧姓は若松。少女時代から文学に親しみ、雑誌や新聞に短歌や短編を投稿する。尋常高等小学校高等科を卒業後、独学で小学校准教員検定に合格し、1916年から2年ほど小学校に勤務する。このころ平で牧師をしていた山村暮鳥に出会い、文学の指導などを受ける。また鹿島村(現・いわき市鹿島町)の八代義定の書斎「静観室」に通い多くの書を読む。 1921年(大正10年)3月、詩人の三野混沌(本名:吉野義也)と結婚、原稿や日記をすべて焼いて、好間村(現・いわき市好間町)北好間の菊竹山で開墾生活に入る。
小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月… 小松 緑(こまつ みどり、慶応元年9月7日(1865年10月26日)- 昭和17年(1942年)1月16日)は明治・大正期の外交官で退官後は著述家として活躍した。号は霞南。 陸奥国会津地方(福島県)出身。鹿目政恒の長男で、会津藩士・小松光明の養子として絶家を再興する。慶應義塾を卒業後、米国に留学し、政治学をまなんだ。留学期間は8年に及びエール大学で法学士、プリンストン大学でマスターオブアーツを取得。帰国後は明治学院教授を短期間務めたのち外務省にはいり、駐米日本公使館の書記官や朝鮮総督府の外務部長などを歴任した。日露戦争では遼東守備軍司令部付であった。1916年(大正5年)総督府中枢院書記官長を最後に退官、その後は著述家として活動した。