飯田 新右衛門(新右衞門、いいだ しんうえもん、1861年1… 飯田 新右衛門(新右衞門、いいだ しんうえもん、1861年1月20日(万延元年12月10日)- 1915年(大正4年)7月31日)は、明治から大正初期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 常陸国筑波郡真瀬村(若森県筑波郡真瀬村、新治県筑波郡真瀬村、茨城県筑波郡真瀬村、真瀬村真瀬、谷田部町真瀬を経て現つくば市真瀬)の旧家に生まれた。秋場桂園、村田雷蔵らから漢学、法律学を学んだ。農業を営む。 筑波郡福岡村外二カ村連合戸長、筑波郡書記、登記所書記、学務委員などを務めた。1892年(明治25年)茨城県会議員に選出され1896年(明治29年)まで在任し、同常置委員も務めた。 1908年(明治41年)5月、第10回衆議院議員総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)で初当選し、1912年(明治45年)5月の第11回総選挙(茨城県郡部、立憲政友会)でも再選され、衆議院議員に連続2期在任した。
倉島 松男(くらしま まつお、1861年(文久元年10月) … 倉島 松男(くらしま まつお、1861年(文久元年10月) - 1938年(昭和13年)2月10日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 下総国相馬郡高須村(のち茨城県北相馬郡高須村→藤代町、現・取手市)に生まれる。漢学と英語を学ぶ。農業と商業を営み、北相馬郡内三十二ヶ村組合岡堰取締役、竜崎鉄道(株)社長となる。また、茨城県土地区画改正委員、同臨時博覧会事務委員、茨城県物産販売路調査のため渡米、第四回内国勧業博覧会審査官を務めた。 1894年3月の第3回衆議院議員総選挙において茨城6区から自由党公認で立候補したが13票差で落選。同年9月の第4回衆議院議員総選挙では無所属で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1898年の第5回衆議院議員総選挙は不出馬。
飯島 省三郎(いいじま しょうざぶろう、1858年10月11… 飯島 省三郎(いいじま しょうざぶろう、1858年10月11日(安政5年9月5日) - 1910年(明治43年)3月24日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 常陸国筑波郡新戸村(茨城県筑波郡小張村、伊奈村、伊奈町を経て現つくばみらい市)出身。漢学と英語と数学を学ぶ。農業と養蚕、製糸業を営む。茨城県会議員となる。 1904年の第9回衆議院議員総選挙において茨城県郡部から憲政本党公認で立候補して当選した。衆議院議員を1期務め、1908年の第10回衆議院議員総選挙には不出馬。1910年死去。
荒野 由次郎(こうの よしじろう、1858年5月20日(安政… 荒野 由次郎(こうの よしじろう、1858年5月20日(安政5年4月8日)- 1911年(明治44年)5月9日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。 常陸国鹿島郡大船津村(茨城県鹿島郡豊津村、鹿島町を経て現鹿嶋市)の糟谷清兵衛の次男として生まれ、のち同郡中野村大字荒野(大野村、鹿島町を経て現鹿嶋市)の荒野清右衛門の養子となる。農業を営んだ。 1898年(明治31年)茨城県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年7月5日から1899年(明治32年)1月12日まで在任。同年4月18日、補欠選挙で互選され、1904年(明治37年)9月28日まで務めた。
寺田 省帰(てらだ せいき、1857年5月6日(安政4年4月… 寺田 省帰(てらだ せいき、1857年5月6日(安政4年4月13日)- 1942年(昭和17年)12月9日)は、日本の教育者、実業家、政治家。 衆議院議員、小樽貨物火災保険株式会社社長、富国火災海上保険株式会社社長などを歴任した。 下総国相馬郡井野村(現・茨城県取手市)で、農業・寺田伊兵衛の二男として生まれる。 1877年、千葉県師範学校を卒業。千葉県行徳小学校長、山形県鐘秀学校長、京都府属兼京都府高等女学校教諭を歴任。1890年、釧路小学校長に転じた。 1892年、榎本武揚、北垣国道が所有する小樽の十万余坪を宅地として開発する際、その経営を行う北辰社の主幹に就任。その後、小樽商業会議所特別議員、北海道水力電気取締役、旭川市街軌道社長、小樽運輸社長、小樽漁港社長などを務めた。
大津 淳一郎(おおつ じゅんいちろう、1857年1月18日(… 大津 淳一郎(おおつ じゅんいちろう、1857年1月18日(安政3年12月23日) - 1932年(昭和7年)1月29日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→進歩党→憲政党→憲政本党→立憲同志会→憲政会→立憲民政党)、貴族院勅選議員。大東文化学院総長(第6代)などを歴任した。族籍は茨城県平民。 常陸国多賀郡折笠村(のちの茨城県多賀郡豊浦町、現在の日立市)出身。茨城県士族・大津正則の二男。1874年(明治7年)、分かれて一家を創立する。 水戸で漢学を修めた後、江戸に遊学した。1877年(明治10年)、小学校の教員となるが、まもなく退職した。その後、板垣退助の民権論にふれ、1879年(明治12年)から水戸で政談演説会を開いて、自由民権運動を推し進めた。
渡辺 治(渡邊、わたなべ おさむ、1856年(安政3年2月)… 渡辺 治(渡邊、わたなべ おさむ、1856年(安政3年2月)- 1893年(明治26年)10月15日)は、明治時代の政治家、新聞経営者。衆議院議員(1期)。 のちの茨城県出身。郷里の私塾で漢学を学んだのち茨城中学校を経て慶應義塾を修了する。時事新報創立と同時に同社に入社し編集や庶務会計に携わった。1888年(明治21年)大阪毎日新聞に主筆として招かれ、同社を株式会社に改組後初代社長に就任した。ほか都新聞社を経営した。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では茨城県第1区から出馬し当選。衆議院議員を1期務めた。
森 隆介(もり たかすけ、1856年(安政3年10月)- 1… 森 隆介(もり たかすけ、1856年(安政3年10月)- 1933年(昭和8年)2月27日)は、明治から昭和時代初期の政治家。自由民権運動家。衆議院議員(1期)。 下総国豊田郡、のちの茨城県結城郡宗道村(千代川村を経て現下妻市)に生まれる。自由民権運動に身を投じ、一政社、絹水社、同舟社、常総共立社などを組織する。自由党の結成にも加わり、雑誌『常総の青年』を発刊した。のち茨城県会議員を務めた。 1890年(明治23年)7月の第1回衆議院議員総選挙では茨城県第4区から出馬し当選するが当選無効となる。つづく第2回総選挙でも当選し衆議院議員を1期務めた。
浜名 信平(はまな しんぺい、安政2年10月10日(1855… 浜名 信平(はまな しんぺい、安政2年10月10日(1855年11月19日) - 大正5年(1916年)1月29日)は、日本の衆議院議員(同志倶楽部→憲政党→立憲政友会)。 常陸国真壁郡関本上町(現在の茨城県筑西市)出身。漢学を学んだ後、結城藩の乗彜学館に通った。やがて自由民権運動に加わり、共議社という政社を組織した。また1882年(明治15年)、茨城勧業世話役に選ばれ、また茨城県蚕糸茶共進会を開催した。 同年、茨城県会議員に選出され、1889年(明治22年)に議長に就任した。1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、9回連続当選を果たした。
斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5… 斉藤 斐(さいとう あきら、1855年6月28日(安政2年5月15日) - 1938年(昭和13年)12月9日)は、日本の政治家・実業家。衆議院議員。 1855年(安政2年)に下総国相馬郡守谷町(現:茨城県守谷市)の齋藤家の長男として生まれる。斉藤家は江戸時代の下総国関宿藩領のうち10ヶ村の惣名主を務めた家で、先祖に小林一茶に学んだ俳人斉藤徳左衛門(俳号「若雨」)[要出典]、弟に文学博士である斉藤隆三がいる[要出典]。 1859年(安政6年)頃より守谷町愛宕の私塾で木村正之に学び、1866年(慶応2年)より親戚の中山家に移り、後に東京帝国大学教授になる漢詩人の信夫恕軒や木戸栄伯、盛岡栄三郎に学んだ[要出典]。
松村 脩平(まつむら しゅうへい、1854年12月7日(安政… 松村 脩平(まつむら しゅうへい、1854年12月7日(安政元年10月18日) - 1927年(昭和2年)10月7日)は、明治から昭和時代戦前の政治家。実業家。貴族院多額納税者議員。茨城県結城郡宗道村長。 下総国、のちの茨城県結城郡宗道村(千代川村を経て現下妻市)出身。小川八郎の弟として生まれ、1874年(明治7年)松村新造の養子となり家督を相続したのち、更に養子直四郎に譲り、1912年(大正元年)11月分家する。 1889年(明治22年)以降、宗道村会議員、同村長、茨城県会議員、結城郡会議員などのほか、石下銀行取締役を歴任した。 1897年(明治30年)9月には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1898年(明治31年)7月5日まで務めた。
大久保 端造(おおくぼ たんぞう、1854年(安政元年5月1… 大久保 端造(おおくぼ たんぞう、1854年(安政元年5月10日) - 1916年(大正5年)6月25日)は、日本の弁護士・政治家。衆議院議員(1期)。 常陸国新治郡(のち茨城県新治郡安飾村→出島村→霞ヶ浦町、現・かすみがうら市)生まれ。法律学を学ぶ。戸長を経て、代言人となり、弁護士の業務に従事する。東京弁護士会副会長、東京市京橋区会議員を務めた。 1890年の第1回衆議院議員総選挙において茨城5区から自由党所属で立候補するが5票差で落選した。1892年の第2回衆議院議員総選挙では自由党から立候補したが次点で落選した。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では自由党から立候補して当選した。同年9月の第4回衆議院議員総選挙で落選。
江橋 厚(えばし あつし、嘉永7年2月(1854年) - 昭… 江橋 厚(えばし あつし、嘉永7年2月(1854年) - 昭和6年(1931年))は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員。 常陸国茨城郡水戸下市(現茨城県水戸市)で生まれる。明治5年(1872年)水戸城放火事件の嫌疑を受けて投獄され、1876年(明治9年)1月に嫌疑が晴れて釈放された。 1878年(明治11年)頃、水戸から松本に来住し、弁護士を開業。奨匡社の自由民権運動に参加し、1882年(明治15年)同志と信陽立憲改進党を結成、1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に長野県4区から初当選し民党に属すが、第1回帝国議会での予算議決が紛糾すると、板垣退助に同道して議員辞職した。1891年(明治24年)には中山道鉄道期成同盟会で小里頼永とともに運動を展開し、自由党南信支部設置の際に座長に推挙される。
山崎 慎三(やまざき しんぞう、1854年(安政元年3月) … 山崎 慎三(やまざき しんぞう、1854年(安政元年3月) - 1912年(明治45年)2月8日)は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名は守正、字は子順。茨城県河内郡馴柴村長。 常陸国河内郡馴馬村(茨城県河内郡馴柴村、稲敷郡馴柴村を経て現龍ケ崎市)出身。幼い頃より椎名克堂、朽木久綱などについて学び、土浦藩儒の五十嵐儀一に師事し和漢学を修めた。その後、江戸に遊学し文武を研鑽した。 馴馬村副戸長、同戸長、門倉村ほか五箇村連合戸長を経て、1889年(明治22年)馴柴村長に就任。翌年、1890年(明治23年)には茨城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1897年(明治30年)9月28日まで務めた。
飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日… 飯村 丈三郎(いいむら じょうざぶろう、1853年6月30日(嘉永6年5月24日) - 1927年(昭和2年)8月13日)は、日本の政治家、実業家、教育者。幼名は縫三郎 1853年(嘉永6年)5月24日[要出典]、東海道常陸国の真壁郡上妻村黒駒(旧下妻藩内、現在の茨城県下妻市黒駒)の豪農の子供として誕生した。飯村家はこの地方の豪農として知られ、名主を努めていた。 幼い頃は病弱だったが、1864年(元治元年)に[要出典]天台宗東叡山千妙寺の亮天僧正に預けられる。亮天から「衆生の恩」という教えを受け、一時は僧侶を志すが、両親に連れ戻される。 1865年(慶応元年)大病を患い回復。幼名「縫三郎」を「丈三郎」に改名する。
関 信之助(關、せき しんのすけ、1853年3月26日(嘉永… 関 信之助(關、せき しんのすけ、1853年3月26日(嘉永6年2月17日)- 1917年(大正6年)1月21日)は、明治から大正前期の日本の弁護士・政治家。衆議院議員。 常陸国久慈郡薬谷村(茨城県久慈郡久米村、金砂郷村、金砂郷町を経て現常陸太田市)で、医師・関文友(文雄)の二男として生まれた。 1875年(明治8年)法律学を学ぶため水戸に遊学し、北辰社を設立。1878年(明治11年)法典研究と自由民権運動推進のため水戸法学館を設け幹事に就任。有志と自由党茨城地方部を結成し、その後、茨城自由党に改称し主事に就任した。 1882年(明治15年)代言人試験に合格し代言人(弁護士)を開業。代言人組合会長、水戸弁護士組合会長なども務めた。
大久保 不二(おおくぼ ふじ、1852年11月14日(嘉永5… 大久保 不二(おおくぼ ふじ、1852年11月14日(嘉永5年10月3日)- 1924年(大正13年)10月9日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。号・瑟菅村。 常陸国筑波郡高道祖村(新治県筑波郡高道祖村、茨城県筑波郡高道祖村を経て現下妻市高道祖)で生まれた。鈴木竹湾に師事し漢学を修めた。のち上京して益盛舎を設立して、史学、地理検田、測地、製図の学科を設け教育に当たった。 戸長、区長、郡書記を歴任。1878年(明治11年)下妻に政治結社・絹水社(のち同舟社に改称)を設けて自由民権運動を推進した。1882年(明治15年)茨城県会議員に選出され1890年(明治23年)まで在任。1898年(明治31年)県会議員に再選され1903年(明治36年)まで務めた。
立川 興(たちかわ さかん、1852年(嘉永5年10月)- … 立川 興(たちかわ さかん、1852年(嘉永5年10月)- 1906年(明治39年)11月25日)は、明治時代の政治家、銀行家、醸造家。衆議院議員(2期)。 水戸藩の郷士・立川直行の子として常陸国久慈郡太田村(茨城県久慈郡太田町を経て現常陸太田市)に生まれる。父直行は辰介と称していたが次郎左衛門と改名し、金嶺と号した。天保3年正月3日、久慈郡和久村の和田長四郎の長男として生まれ、叔父で常陸太田の豪商の立川邦章の養子となった。藩主徳川斉昭が江戸駒込邸に幽閉されると、同志と共に江戸に向かい斉昭の名誉回復に務め、その後も幕末の志士として奮闘し資金援助を行った。文久3年に里正となり、維新後は戸長を務め、太田銀行を創立し頭取となり、第百四国立銀行の取締役などを務めた。
根本 正(ねもと しょう、1851年10月25日(嘉永4年1… 根本 正(ねもと しょう、1851年10月25日(嘉永4年10月1日) - 1933年(昭和8年)1月5日)は、幕末の水戸藩士、明治・大正時代の衆議院議員。帝国教育会東京府会員、殖民協会幹事などを歴任し、1898年(明治31年)第5回総選挙以降、連続当選10回。未成年者喫煙禁止法・未成年者飲酒禁止法を提唱し、国民教育授業料全廃の建議、水郡線鉄道建設に関する建議等と共に成立させた。 常陸国那珂郡東木倉村(現・茨城県那珂市)の村役人の家に生まれ、祖父・半次衛門に読み書きを習い、1860年(万延元年)には神職・佐川伊予之介の塾に入って漢籍を学ぶ。1863年(文久3年)、親族の彰考館総裁・豊田天功の門人となって水戸学を学び、翌1864年(元治元年)の天功死後にはその息子・小太郎に仕えた。
木村 格之輔(きむら かくのすけ、嘉永4年9月23日(185… 木村 格之輔(きむら かくのすけ、嘉永4年9月23日(1851年10月17日) - 大正5年(1916年)7月18日)は、日本の衆議院議員(立憲改進党→憲政党→憲政本党→立憲国民党)、弁護士。 常陸国河内郡手代木村(現在の茨城県つくば市)に中島幸右衛門の二男として生まれ、木村久治の養子となった。漢学・法律学を学び、1881年(明治14年)、代言人試験に合格し、新治郡土浦町(現在の土浦市)に事務所を開いた。また破産管財人も務めた。 1892年(明治25年)からは県議を務め、1894年(明治27年)、新治郡から第4回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第10回衆議院議員総選挙まで7期連続当選を果たした。
関口 八兵衛(せきぐち はちべえ、1850年8月12日(嘉永… 関口 八兵衛(せきぐち はちべえ、1850年8月12日(嘉永3年7月5日) - 1912年(明治45年)1月21日)は、明治時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 木村寿山の子として水戸城下に生まれ、1870年(明治3年)常陸国信太郡鳩崎村(茨城県信太郡鳩崎村、稲敷郡鳩崎村、江戸崎町を経て現稲敷市)の先代・関口八兵衛の養子となり家督を相続する。漢学を修めた。1882年(明治15年)鳩崎村外2箇村戸長となり、1884年(明治17年)同職を辞し、翌年の1885年(明治18年)茨城県会議員に当選するが辞退した。醤油醸造業に従事する傍ら、1888年(明治21年)為替回漕会社を江戸崎町に興し、1889年(明治22年)には煉瓦製造場を設立した。
野口 勝一(のぐち かついち、1848年11月11日(嘉永元… 野口 勝一(のぐち かついち、1848年11月11日(嘉永元年10月16日)- 1905年(明治38年)11月23日)は、明治期のジャーナリスト、官吏、政治家。衆議院議員、茨城県会議長。号・北巌、珂北。 常陸国多賀郡、のちの茨城県多賀郡北中郷村(磯原町を経て現北茨城市磯原町)で水戸藩郷士・野口勝章、なかの長男として生まれる。茨城拡充師範学校(茨城師範学校)を卒業し、多賀郡大久保村(のち国分村、現日立市)などで小学校教員として勤務。 1875年(明治8年)福島県に移住し1878年(明治11年)水戸に戻り茨城新報主筆に就任し、自由民権運動に加わる。茨城県会書記、茨城県属を経て、1881年(明治14年)1月、茨城県会議員に選出され、同年2月、同議長に就任し、同常置委員も務めた。
松延 玹(まつのべ げん、1845年〈弘化2年1月〉 - 1… 松延 玹(まつのべ げん、1845年〈弘化2年1月〉 - 1921年〈大正10年〉9月20日)は、明治から大正時代の政治家、実業家。衆議院議員(1期)。 水戸出身。弘道館に学ぶ。1871年(明治4年)藩命を受け諸国を遊歴したのち帰郷し、1874年(明治7年)の台湾出兵に際しては北京に渡った。1876年(明治9年)在北京公使館附学生となり、1878年(明治11年)書記生となった。翌年、上海領事館に転任。1882年(明治15年)朝鮮で壬午軍乱が勃発すると花房義質の随伴員として同地に赴いた。1884年(明治17年)帰朝し外務省一等属となるが、間もなく朝鮮で甲申政変が勃発すると井上馨に従い再び同地に赴いた。
関戸 覚蔵(せきと かくぞう、1844年12月17日(弘化元… 関戸 覚蔵(せきと かくぞう、1844年12月17日(弘化元年11月8日)- 1916年(大正5年)5月9日)は、明治時代の政治家。立憲革新党所属の衆議院議員(当選3回)。『茨城新聞』創刊者。 常陸国行方郡潮来村(現在の潮来市)に生まれる。潮来は水運によって栄えており、関戸家も豊かであった。東京師範学校に入学するが病気のため中退。戸長、郡書記、茨城県勧業課長を務め、1881年第3回茨城県会議員選挙に当選し、茨城県会議員を1886年まで務めた。また、自由民権運動に加わり、1880年に民権結社の公益民会を磯山清兵衛らと設立したり、国会開設請願の署名1万人分を野手一郎らと集めてその代表になった。1891年には『いはらき』(現・『茨城新聞』)を創刊し、経営者となるが経営がうまくいかず、飯村丈三郎に茨城新聞社の経営を委ねた。
広瀬 誠一郎(ひろせ せいいちろう、1838年2月9日(天保… 広瀬 誠一郎(ひろせ せいいちろう、1838年2月9日(天保9年1月15日) - 1890年(明治23年)3月18日)は、幕末から明治時代前期の政治家、治水家。 下総国相馬郡下高井村(現在の茨城県取手市)の名主の家に生まれる。18歳で名主見習いとなり、父が在職中に病没したため跡を継ぐ。明治に入ると、下高井村組合取締役、戸長、勧農方頭取を経て、戸長頭取に就任し、地券調査に従事した。1879年(明治12年)茨城県会議員となったが、当時の県会では土木費について治水問題を優先すべきとする「河川党」と道路整備を優先すべきとする「山岳党」に分かれ意見が鋭く対立していた。こうした中で1881年(明治14年)県令の人見寧に利根運河開削を建議し、翌年北相馬郡長を発令された。
萩原 勇 は、日本の政治家。茨城県龍ケ崎市長(2期)。元茨城… 萩原 勇 は、日本の政治家。茨城県龍ケ崎市長(2期)。元茨城県議会議員(4期)、元龍ケ崎市議会議員(1期)。