竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈18… 竹内 清次郎(たけうち せいじろう、文久2年11月2日〈1862年12月22日〉 - 1944年〈昭和19年〉)は、日本の商人(生糸商)、政治家(前橋市会議員)、実業家。前橋商工会議所会頭。族籍は群馬県平民。 上野国(現・群馬県高崎市)生まれ。宮崎源吉の弟。1900年、竹内家の養子となった。生糸商、製糸業を営んだ。弟の勝蔵と竹内合名会社を経営し、共に前橋市における実業界の重鎮であった。1929年(昭和4年)第4代前橋商工会議所会頭に就任。 竹内撚織取締役、上州絹糸紡績、広瀬川電力各監査役、竹内商店代表社員(撚糸工場兼務)などをつとめた。 趣味は謡曲、囲碁、玉突き、俳句。宗教は天台宗。住所は群馬県前橋市本町。
小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月2… 小室 良七(こむろ りょうしち、幼名・彦次郎、文久2年3月27日〈1862年4月25日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月2日)は、日本の政治家(群馬県邑楽郡会議員、館林町会議員)、商人(砂糖商)、実業家。館林貯蓄銀行、四十銀行、八十一銀行、東海銀行各取締役。上毛モスリン監査役。族籍は群馬県平民。 群馬県邑楽郡館林町(現・館林市)に生まれた。小室良之助の長男。幼名は彦次郎。家は代々砂糖販売を営み、彦次郎は第3代に当たる。「砂糖小室」の名は遠近に聞こえていた。 善導寺住職・満成和尚に漢学や書を学んだ。1883年12月、家督を相続し家業の砂糖商を継いだ。1886年10月、襲名して良七と改めた。 1889年、新町村制が実施され、4月に町会議員の選挙が行われた。
四代 正田 文右衛門(よんだい しょうだ ぶんえもん、183… 四代 正田 文右衛門(よんだい しょうだ ぶんえもん、1837年〈天保8年〉 - 1878年〈明治11年〉)は、群馬県館林の商人(米穀商)、醸造家。族籍は群馬県平民。初名・兼太郎。醤油醸造家・5代文右衛門の父。 天保8年(1837年)に上野国館林の米穀商・3代正田文右衛門の長男として生まれた。1873年(明治6年)に父・文右衛門は米穀商をやめて現在の正田醤油の源流となる醤油醸造業を創業した。 兼太郎は4代文右衛門を襲名したものの、父に先立つ1878年(明治11年)に死去した。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
初代 澁澤 金蔵(しょだい しぶさわ きんぞう、1829年1… 初代 澁澤 金蔵(しょだい しぶさわ きんぞう、1829年11月〈文政12年11月〉 - 没年不明)は、日本の商人、慈善家、政治家。群馬県多額納税者。族籍は群馬県平民。 上野国新田郡太田町(現・群馬県太田市)に生まれた。周蔵の長男。幼い頃から豪放不羈で、他人に頼り衣食することを欲しなかった。母を亡くし、13歳の頃父を助けて質屋古着商を営むが失敗。ことごとく資本を失う。ほとんど「赤貧洗うがごとし」の状態となった。18歳の頃その目的を父に告げて家を出た。他郷に周遊し多くの苦労をしたが、ついに意を果たさず、嘉永4年、家に帰り一小太物店を開いた。 前の負債は元利益々嵩み債主の督促はいよいよ厳しくなったため、いったん家を売却して償還することを父に告げたが父は許さなかった。
三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、181… 三代 正田 文右衛門(さんだい しょうだ ぶんえもん、1818年8月3日〈文政元年7月2日〉 - 1895年〈明治28年〉3月26日)は、群馬県館林の商人(米穀商、質屋)、醤油醸造家。正田醤油の基礎を作った。幼名藤十郎、家督を継ぐと、先代文右衛門を襲名し、隠居後更に文七と改めた。実業家の正田貞一郎は孫。上皇后美智子は玄孫にあたる。 館林で生まれた。祖父の業を継ぎ米穀商を営み、その傍らで質屋も家業とした。17歳のころより盛んに販路を江戸へ拡張し、常に高瀬舟数十隻を利根川・渡良瀬川の両川に浮かべ、大量取引に役だてた。とくに東国での大麦の評判は高く、「本館麦」として世間にその名が広まった。 また、海路遠く大阪までその影響力が及んで、当時、道頓堀において「上州米文」の名でよく相場の変動が左右された。