武石 貞松(たけいし さだまつ、1868年 - 1931年)… 武石 貞松(たけいし さだまつ、1868年 - 1931年)は、明治時代から昭和時代の漢学者、詩人、教育者。諱は潜、字は伯龍。 越後国南蒲原郡中之島村大字長呂(後に新潟県中通村)の名主武石弘六の長男として生まれる。長岡の誠意塾に学び、頭脳明晰で師匠の高橋竹之助の信任厚く、塾頭に選ばれる。ここで堀口九萬一と知り合い親友となり、義兄弟の契を結ぶ。長呂の若宮社には、弟の武石弘三郎が制作した2人の胸像が建つ。 後に故郷に戻り自邸にて漢詩塾および修斉館を開き地域の教育に尽力した。東北日報(新潟日報の前身)の漢詩撰者を務め、同紙の同時期の俳句撰者は会津八一であった。また、水田区画整理事業の「島田他三ケ字耕地整理」に従事、ツツガムシ対策により名古屋大学医学部の林直助を村に招待、信濃川流域の荒地に柳を植樹し行李の生産を勧めるなど地域振興に努め、農業整備や架橋、信用組合創立に取り組んだ。
吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日〈1864年5… 吉田 東伍(よしだ とうご、元治元年4月14日〈1864年5月19日〉 - 大正7年〈1918年〉1月22日)は、日本の歴史学者、地理学者(歴史地理学)。新潟県出身。「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。 元治元年(1864年)4月14日(4月10日とする資料もある)、越後国蒲原郡保田村(現:阿賀野市安田)の豪農旗野家の子(三男)としてに生まれる。吉田姓は養子先であり、1884年(明治17年)12月から名乗った。1874年(明治7年)に小学校を出たのち、近所の英国人について英語を4年間学び、村で英学者ともてはやされる。1875年(明治8年)、11歳の時から新潟学校(後の新潟英語学校)中学部を3年ほどで中退後、学校教育を受けずに独学で小学校教員となる。
小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政… 小金井 良精(こがねい よしきよ、1859年1月17日(安政5年12月14日) - 1944年(昭和19年)10月16日)は、明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者。森鷗外の妹婿であり、星新一の祖父にあたる。陸軍軍医総監椰野巌は甥である。 越後長岡藩士で家老河井継之助に信任を得て郡奉行などの長岡藩要職を歴任した小金井儀兵衛の次男として、越後国古志郡長岡(現新潟県長岡市)の今朝白町に生まれた。母は新潟奉行小林又兵衛の長女幸子。長兄は自由民権運動家で衆議院議員を務めた小金井権三郎。母幸子の兄小林虎三郎は、吉田松陰と並び佐久間象山門下の二虎と称された。 1870年(明治3年)10月大学南校を経て、1872年(明治5年)10月第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)に入学、1880年(明治13年)7月に東京医学校(同年5月第一大学区医学校から改称)を卒業した。
井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、18… 井上 円了(旧字体: 井上 圓了、いのうえ えんりょう、1858年3月18日(安政5年2月4日) - 1919年(大正8年)6月6日)は、日本の哲学者、教育者。 明治日本に哲学を広めた人物の一人。哲学館(現、東洋大学)や哲学堂公園を設立した。仏教哲学や妖怪学にも業績がある。 1858年(安政5年)、越後長岡藩領の三島郡浦村(現・新潟県長岡市浦)にある慈光寺に生まれる。幼名、岸丸。父は円悟、母はイク。 16歳で長岡洋学校に入学し、洋学を学んだ。1877年(明治10年)、東本願寺の教師学校に入学する。1878年(明治11年)東本願寺の国内留学生に選ばれ上京し、東京大学予備門に入学する。その後東京大学に入学し、文学部哲学科に進んだ。
松山 高吉(まつやま たかよし、弘化3年12月10日(184… 松山 高吉(まつやま たかよし、弘化3年12月10日(1847年1月26日) - 昭和10年(1935年)1月4日)は、日本の国学者、牧師。文語訳聖書の翻訳に関わった。日本における賛美歌事業の草分けである。 1846年(弘化3年)に越後国糸魚川で生まれ、国学者平田鐵胤に学ぶ。京都の白川家学館で国史律令を、江戸の黒川真頼の下で国文学を修めた。1872年(明治5年)、キリスト教排斥を志し、その実態を探るために神戸のアメリカンボード宣教師D.C.グリーンの日本語教師となったが、回心して1874年(明治7年)に洗礼を受けた。このとき受洗した松山ら11名は摂津第一基督教会(のちの神戸教会)を設立した。 組合教会系の信徒としては最も早くから新島譲と親交があり、新島がアメリカから帰国した際に「譲」は「ゆずる」と誤読される恐れがあるとして「襄」と改めるように忠告したといわれている。
司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839… 司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839年4月11日) - 明治12年(1879年)3月11日)は、医学者・言語学者。愛知医学校校長。佐渡島新町(現:新潟県佐渡市真野新町)生まれ。日本初の独和辞典を刊行した。 諱は盈之(みつゆき)、凌海は通称。他に、号に「揖軒」「無影樹下」「船楼」があった。本名は「司馬津」。 幼名、島倉伊之助(なお「島倉亥之助」の表記もある。弟に島倉家を譲り、司馬と改姓した。 語学の天才と言われ、独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じていた。松本良順、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに師事していたことから、特に医学用語の日本語訳を多く作っている。
丸岡 南陔(まるおか なんがい、文政8年6月6日(1825年… 丸岡 南陔(まるおか なんがい、文政8年6月6日(1825年7月21日) - 明治19年(1886年)1月8日)は江戸時代から明治にかけての学者、漢詩人。佐渡国雑太郡折戸村名主、佐渡奉行所修教館教授を務め、明治維新後も相川県漢学局、雑太郡学区、公立佐渡中学校で教育に携わった。 文政8年(1825年)6月6日に生まれた。家は代々佐渡国雑太郡折戸町名主、佐渡奉行所官庫出納掾を兼ね、醤油醸造を行っていた。幼少より書を好み、特定の師は持たなかったものの、甲賀達斎等に兄事し、詩を藤木竹窓に学び、間もなく天野恥堂兄弟、万歳東所、西村滄州、大平菰塘、岡崎棟庵、謙亭、棟斎等と交流を持ち、廉社を結び毎月詩筵を開いた。
曽我 朋義(そが ともよし)は、 慶應義塾大学環境情報学部教… 曽我 朋義(そが ともよし)は、 慶應義塾大学環境情報学部教授、慶應義塾大学先端生命科学研究所教授、慶應義塾大学医学部教授(兼担)、ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ(株)創業者、理化学研究所植物科学研究センター客員主管研究員。工学博士。専門分野は、メタボローム解析、分析化学、がん代謝。
西澤 昭夫(にしざわ あきお)は日本の経営学者。東北大学名誉… 西澤 昭夫(にしざわ あきお)は日本の経営学者。東北大学名誉教授。元日本ベンチャー学会会長。産学技術移転などに貢献し、アメリカ人以外としては初めてBayh-Dole Awardを受賞した。 新潟県上越市出身。神奈川県立湘南高等学校を経て、1973年新潟大学人文学部経済学科卒業。1975年東京教育大学大学院文学研究科社会学専攻修士課程修了。1980年筑波大学大学院社会科学研究科経済学専攻博士課程満期退学、マネジメントインテリジェンス非常勤研究員。 1982年日本合同ファイナンス入社。1989年日本合同ファイナンス企画部長。1991年Nomura/JAFCO Investment (Asia) Ltd.,取締役。
笠原 軔(かさはら じん) は新潟県の洋画家、漢詩人、郷土史… 笠原 軔(かさはら じん) は新潟県の洋画家、漢詩人、郷土史家。号は屠竜山人、揚峡酔樵。故郷新潟や津川の風景画を多く残した。 1885年(明治18年)4月24日新潟県官吏渡辺漁村の次男として新潟に生まれた。1887年(明治20年)母を失い、後妻キエと伯父碇浦の未亡人キクに養育された。当初白山浦に住み、学校町二番町に移り、白山浦に戻った。 1898年(明治31年)新潟高等小学校4年を卒業し、4月新潟県立中学校に進学した。同期には小柳篤二・佐藤荘一郎・小山九一・薄田白天郎・古川北華・諸橋宏・山岸(草野)宏次郎・三浦卓爾・五十嵐昌平・村山真雄、1級下には平田笛人等がいた。3年次に父が中学校に赴任し、軔の「つぁま」(中越方言で「父」の意)として「ジンツァマ」と呼ばれた。
久代 恵介(くしろ けいすけ)は、日本のスポーツ心理学者。京… 久代 恵介(くしろ けいすけ)は、日本のスポーツ心理学者。京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻認知・行動科学講座教授。 新潟県新潟市出身。新潟市立新通小学校、新潟市立坂井輪中学校、新潟県立新潟高等学校を経て、筑波大学体育専門学群健康体力学専攻卒業。上越教育大学大学院学校教育研究科修士課程教科・領域教育専攻修了、修士(教育学)。東京医科大学大学院医学研究科生理学専攻博士課程修了、博士(医学)。マウントサイナイ医科大学客員研究員、ニューヨーク大学博士研究員、東京大学産学官連携研究員、京都大学大学院人間・環境学研究科助手、同助教、京都大学高等教育研究開発推進センター准教授、京都大学大学院人間・環境学研究科准教授を経て、2018年京都大学大学院人間・環境学研究科教授。
大矢 政徳(おおや まさのり)は、日本の言語学者、明治大学国… 大矢 政徳(おおや まさのり)は、日本の言語学者、明治大学国際日本学部専任教授。専門はコーパス言語学と依存文法。