小林 一大(こばやし かずひろ、1973年6月12日 - )… 小林 一大(こばやし かずひろ、1973年6月12日 - )は、日本の政治家、僧侶(真言宗智山派)。自由民主党所属の参議院議員(1期)。 防衛大臣政務官兼内閣府大臣政務官(第2次石破内閣)、新潟県議会議員(4期)などを歴任した。 新潟県新潟市出身。新潟県立新潟高等学校、東京大学経済学部経済学科卒業後、東京海上火災保険株式会社に入社した。2004年に父で元新津市長の小林一三が県知事選で2度目の落選をしたことを転機に帰郷を考えるようになり、2005年に退職し、家業の普談寺の副住職を継いだ。 2007年4月に新潟県議会議員に初当選し、その後4期務めた。2022年7月10日執行の第26回参議院議員通常選挙で新潟県選挙区から立候補し、立憲民主党の現職・森裕子らを破り初当選した。
安冨信哉(やすとみ しんや、1944年2月19日-2017年… 安冨信哉(やすとみ しんや、1944年2月19日-2017年3月31日)は、真宗大谷派の僧侶、真宗学を専攻する仏教学者。文学博士。大谷大学名誉教授。真宗大谷派三条教区第22組虎丸山光濟寺前住職 。真宗大谷派教学研究所所長。真宗大谷派董理院董理。真宗大谷派講師。東方仏教徒協会(EBS)事務局長。 新潟県村上市生まれ。1967年早稲田大学第一文学部英文科卒。 1978年大谷大学大学院博士課程真宗学専攻単位取得。大谷大学文学部助手、講師、助教授、教授、2000年文学研究科長、2014年定年退任、名誉教授。 1998年「宗教的「個」の思想」で大谷大学文学博士。20世紀中は安富の表記を用いた。
乙川 弘文(おとがわ こうぶん、英語: Kōbun Chin… 乙川 弘文(おとがわ こうぶん、英語: Kōbun Chino Otogawa、1938年2月1日 - 2002年7月26日)は、アメリカで活躍した日本の曹洞宗の禅僧。別姓:知野(ちの)。道号は鳳雲。新潟県加茂市出身。 アメリカ合衆国カリフォルニア州で活動し、Apple社のスティーブ・ジョブズとの交流でも知られた。 新潟県加茂市の曹洞宗「定光寺」の三男として生まれる。1951年に13歳で乙川瑾映(のちの大本山總持寺独住20世貫首)に就いて得度。1960年、駒澤大学仏教学部卒業。1964年に京都大学大学院文学研究科で長尾雅人に師事して修士号(大乗仏教)を取得した。大学院在学中に地域の同宗派寺院耕泰寺の養子になり、知野に改姓。
中山 沃(なかやま そそぐ、旧姓:蒲原、法名:沃観、1925… 中山 沃(なかやま そそぐ、旧姓:蒲原、法名:沃観、1925年〈大正14年〉5月16日 - 2012年〈平成24年〉5月24日)は、日本の生理学者、医史学者、医師、浄土真宗本願寺派僧侶。医学博士。岡山大学名誉教授。名塩御坊教行寺第15世住職。 新潟県新潟市西堀通10番町(現 新潟市中央区西堀通10番町)の浄土真宗本願寺派・蒲原浄光寺の第25世住職・蒲原霊英の次男として出生。 1943年(昭和18年)3月に新潟中学校を卒業、1945年(昭和20年)3月に新潟高等学校を1年繰り上げ卒業、1949年(昭和24年)3月に新潟医科大学を卒業。 1949年(昭和24年)3月に米子医科大学生理学教室(担任:福原武教授)助手に就任、1951年(昭和26年)4月に鳥取大学医学部生理学教室(担任:福原武教授)助手に就任、1953年(昭和28年)6月に鳥取大学医学部生理学教室生理学第一講座(担任:福原武教授)講師に就任、1954年(昭和29年)7月に医学博士号を取得、11月に鳥取大学医学部生理学教室生理学第二講座(担任:西田勇教授)助教授に就任、1957年(昭和32年)1月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座(担任:福原武教授)助教授に就任、1962年(昭和37年)11月から1964年(昭和39年)5月まで文部省在外研究員として西ドイツのゲッティンゲン大学生理学教室に留学、1970年(昭和45年)4月に岡山大学医学部生理学教室生理学第二講座第2代教授に就任、1986年(昭和61年)4月に中国吉林省延辺医学院名誉教授(第1号)の称号を受称、1991年(平成3年)3月に岡山大学を定年退官、4月に岡山大学名誉教授の称号を受称。
大橋 隆憲(おおはし りゅうけん、1912年1月22日 - … 大橋 隆憲(おおはし りゅうけん、1912年1月22日 - 1983年3月11日)は、日本の統計学者・僧侶。京都大学名誉教授。 新潟県加茂市生まれ。旧名・栄俊。1935年東京帝国大学文学部宗教学科卒、1940年京都帝国大学経済学部卒、同助手、1942年日本鋼管入社、1949年京都大学経済学部助教授、1965年教授。1963年 経済学博士の学位を取得。1966-1967年経済学部長、1975年定年退官、名誉教授となり、日本福祉大学教授、1982年花園大学教授を務めた。
新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年… 新井 石龍(あらい せきりゅう、俗名:小島 藤七、1889年〈明治22年〉9月29日 - 1984年〈昭和59年〉2月16日)は、日本の曹洞宗の僧侶、書家。雲洞庵四十五世住職。号は無著。 新潟県中蒲原郡村松町(現 五泉市村松)出身。1911年(明治44年)3月に新潟中学校を卒業、1914年(大正3年)7月に第四高等学校を卒業、1917年(大正6年)7月に京都帝国大学文科大学哲学科を卒業。 1918年(大正7年)に雲洞庵四十五世住職に就任、1921年(大正10年)6月に養父で曹洞宗管長の新井石禅に随行してアメリカに渡り、6カ月間、各地を視察、ウォレン・ハーディング大統領に謁見。 1939年(昭和14年)に新潟県仏教各宗代表中支派遣皇軍慰問団団長として中支戦線を巡錫、1942年(昭和17年)に南満州鉄道に招聘されて満州に渡り、各地を行脚、南満州鉄道職員に講演。
島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8… 島地 大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8日 - 1927年〈昭和2年〉7月4日)は、浄土真宗の僧侶。旧姓は姫宮、幼名は等。新潟県頸城郡三郷村(現・上越市)出身。4年間の上京を経て、1893年に西本願寺の文学寮(現龍谷大学)に入学した。1897年に大学林へ進学、1899年は大学林高等科へ進学。1902年に島地黙雷の養嗣子(法嗣)となり、黙雷亡き後は盛岡の願教寺住職となる。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1923年から東京帝国大学でインド哲学を教えた。数え53歳で死去。子の島地黙猊が跡を継ぎ、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行された。 この項目は、仏教に関連した書きかけの項目です。
滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年1… 滋野 七郎(しげの しちろう、1836年2月5日(天保6年12月19日)- 1886年(明治19年)3月16日)は、江戸時代の幕末から明治時代の尊攘運動家、僧侶、神職。 越後国糸魚川寺町に生まれる。18歳のとき、糸魚川藩の祈願所である持明院の院主となった。院は近郷近在の修験院の頭で、天津神社の祭りにはこの院主が先導しなければ巡行ができないほどの格があった。同郷の田村弥平や小川長秋、銀林綱男などと親交を結び、国学を修め、勤皇の大義を論じた。1868年、戊辰戦争が起こると院を捨て、親兵隊の方義隊を組織して官軍のために斥侯を務めた。また京都で暗殺された大村益次郎の襲撃犯を隠匿したとして投獄された。維新後は神職となり、筑波山神社を最初に、天津神社祭祠、弥彦神社の宮司、皇典講究所などを歴任した。
七里 恒順(しちり こうじゅん、1835年8月5日(天保6年… 七里 恒順(しちり こうじゅん、1835年8月5日(天保6年7月11日) - 1900年(明治33年)1月29日)は幕末・明治時代の浄土真宗の僧侶である。号は松花子。 1835年(天保6年)、現在の越後国三島郡(現新潟県長岡市)飯塚にある浄土真宗本願寺派明鏡寺第13代住職井上宗鏡の次男として生まれる。このころは「天保の大飢饉」によって全国で多くの餓死者が出て、百姓一揆、打ちこわし、大塩平八郎の乱とその影響による生田万の乱、能勢騒動が起こり、世の中は騒然としていた。 1845年(弘化2年)11歳で得度、14歳で僧朗勧学の門に入り、15歳から宣界司教の德水社に入り修学。20歳から九州に移り、豊前の月珠勧学について宗学を研鑽。