西多昌規(にしだ まさき、1970年4月8日 - )は、日本… 西多昌規(にしだ まさき、1970年4月8日 - )は、日本の精神科医、早稲田大学スポーツ科学学術院教授。 石川県羽咋市生まれ。金沢大学附属高等学校卒業。東京医科歯科大学卒業。2005年東京医科歯科大学医学博士。1998年国立精神・神経医療研究センター病院、2005年ハーバード大学医学部精神科研究員、2008年東京医科歯科大学精神行動科学分野助教、2011年自治医科大学精神医学教室講師、2015年スタンフォード大学医学部睡眠・生体リズム研究所客員講師、2017年早稲田大学スポーツ科学学術院准教授。2019年早稲田大学睡眠研究所所長、2022年早稲田大学保健センター副所長。2023年早稲田大学スポーツ科学学術院教授。
北村義浩(きたむら よしひろ、1960年12月11日 - )… 北村義浩(きたむら よしひろ、1960年12月11日 - )は、日本の医師、医学者。学位は医学博士(東京大学大学院・1989年)。日本医科大学・特任教授、長野保健医療大学・特任教授。兄は東京大学名誉教授の北村聖。 将棋アマチュア八段の資格を持つ。2020年9月16日放送のTBSテレビ「ひるおび!」では、新型コロナウイルスについてのコメンテーターとして出演する一方、番組が藤井聡太の話題を取り上げた際に、自身が所有する将棋名人戦の封じ手を披露した。
神野 正博(かんの まさひろ、1956年〈昭和31年〉1月1… 神野 正博(かんの まさひろ、1956年〈昭和31年〉1月1日 - )は、日本の医師。専門は消化器外科。 石川県金沢市出身。父は医師の神野正一、祖父は医師の神野正隣。 1974年(昭和49年)金沢大学附属高等学校卒業。1980年(昭和55年)日本医科大学医学部卒業。 金沢大学第二外科入局、富山県立中央病院を経て、珠洲市総合病院に勤務。 1986年(昭和61年)、金沢大学大学院修了(医学博士)。浅ノ川総合病院を経て、金沢大学第二外科助手。 1992年(平成4年)、恵寿総合病院外科部長。翌1993年(平成5年)に院長、1995年(平成7年)に医療法人菫仙会理事長に就任。 【厚生労働省】社会保障審議会医療部会委員、医道審議会医師分科会医師臨床研修部会委員、医道審議会保健師助産師看護師分科会看護師特定行為研修部会委員、医療従事者の需給に関する検討会委員、同医師分科会委員を務める
北村 聖(きたむら きよし、1953年〈昭和28年〉 - )… 北村 聖(きたむら きよし、1953年〈昭和28年〉 - )は、日本の内科医。東京大学医学教育国際協力研究センター教授、東京大学医学部附属病院総合研修センター長。専門は医学教育、臨床研修、血液学、免疫学、臨床検査など。弟は日本医科大学特任教授の北村義浩。
小西 敏郎(こにし としろう、1947年(昭和22年) - … 小西 敏郎(こにし としろう、1947年(昭和22年) - )は、日本の医師である。東京医療保健大学教授・副学長。博士(医学)。専門は、消化器外科。 石川県・金沢に生まれる。1972年東京大学医学部卒業。東京大学医学部第二外科に入局し、同助教授を経て、1998年に関東逓信病院(現NTT東日本関東病院)に赴任。電子カルテやクリニカルパスの普及に努め、2010年には大学教授ではないにもかかわらず日本臨床外科学会総会会長をつとめた。2013年より東京医療保健大学副学長。
中村 信一(なかむら しんいち、1944年1月5日 - ) … 中村 信一(なかむら しんいち、1944年1月5日 - ) は、日本の医師。第10代金沢大学学長。中日文化賞受賞。 1962年石川県立金沢二水高等学校卒業。1968年金沢大学医学部医学科卒業。医師免許取得。1971年バージニア工科大学嫌気性生物研究室留学。1973年金沢大学大学院医学研究科博士課程修了、医学博士、金沢大学医学部微生物学講座助手。1974年金沢大学医学部微生物学講座講師。1976年金沢大学医学部微生物学講座助教授。1986年金沢大学医学部微生物学講座教授。1998年金沢大学医学部長。2001年金沢大学大学院医学系研究科細菌感染症制御学分野教授。2002年金沢大学副学長。2005年金沢大学理事・副学長。
吉川 武彦(きっかわ たけひこ、1935年10月30日 - … 吉川 武彦(きっかわ たけひこ、1935年10月30日 - 2015年3月21日)は、日本の医学者、精神科医。金沢市出身。1961年千葉大学医学部医学科卒。1966年同大学院医学研究科神経精神医学専攻修了(医学博士、論文の題は「ロールシャッハテストによる不安の研究 : 特に不安の顕在化と潜在化をめぐる精神力動について」)。 また、日本泳法委員として日本泳法の普及、発展に尽力。古式泳法の水府流太田派 桐游倶楽部の免許皆伝。 学生時代には安保闘争に参加、1960年6月15日のデモでは国会へ詰めかける。この時、先頭に立っていた樺美智子が倒れ込むところを間近に目撃、混乱のなかから樺美智子を引きずり出して救護所へ運び込んだ。
五木 玲子(いつき れいこ、1934年 - )は、日本の医師… 五木 玲子(いつき れいこ、1934年 - )は、日本の医師・版画家。旧姓は岡(おか)。石川県金沢市出身。 父は石川県選出の衆議院議員(のち金沢市長)岡良一。夫は小説家の五木寛之。 金沢大学附属高等学校、早稲田大学文学部、東邦大学医学部卒業。1965年結婚。
二木 武(ふたき たけし、1925年1月12日 - 1998… 二木 武(ふたき たけし、1925年1月12日 - 1998年3月21日)は、日本の小児科医。 石川県金沢市生まれ。東京帝国大学医学部卒業。同小児科教室入局。1954年「乳幼児栄養失調症の蛋白代謝に関する研究」で東京大学医学博士。長野赤十字病院、東京都立小児保健院(現東京都立八王子小児病院)院長を経て、東京都立母子保健院院長、実践女子大学教授を務めた。95年定年退職。
二木 秀雄(ふたき ひでお、1908年 - 1992年9月1… 二木 秀雄(ふたき ひでお、1908年 - 1992年9月18日)は、日本の細菌学者、医師、実業家、宗教家。 石川県立金沢第一中学校(現石川県立金沢泉丘高等学校)卒業(34期)。 1936年3月から1937年12月まで、金沢医科大学 (旧制)(現金沢大学医学部)細菌学教室講師を務めた。1938年11月18日、金沢医科大学 (旧制)より医学博士号を取得。 のち大日本帝国陸軍技師となり、731部隊(関東軍防疫給水部本部)に所属、第一部第十一課結核班(二木班)班長。 1945年頃、金沢市で与論社を創設し、雑誌『パブリックオピニオン』を発行。1946年上京し、雑誌『日本与論』を発行した。同年、ジープ社社長として、右翼系政界誌『政界ジープ』を創刊。
清水 茂松(しみず しげまつ、1883年(明治16年)5月6… 清水 茂松(しみず しげまつ、1883年(明治16年)5月6日 - 1971年(昭和46年)8月31日)は、日本の小児科医師。1910年(明治43年)東京帝国大学医科大学を卒業し、1920年(大正9年)、医学博士となった。1952年(昭和27年)には東京医科大学学長となる。1966年(昭和41年)に勲三等旭日中綬章を受章した。 石川県金沢市出身。旧加賀前田藩家老村井家典医家に生まれる。明治44年、母校の小児科学教室に入る。小児の栄養に関する研究が学会で注目された。大正4年、日本医学専門学校(現日本医科大学)教授となる。後の東京医科大学ならびに東京医学専門学校の前身である東京医学講習所開設以来、小児科学を講義、東京医学専門学校の創立に貢献した。
桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3… 桂田 富士郎(かつらだ ふじろう、1867年6月7日(慶応3年5月5日) - 1946年(昭和21年)4月5日)は日本の医師、病理学者である。日本住血吸虫の発見で知られる。 1867年(慶応3年)、大聖寺藩士であった庄田豊哉の長男として加賀国江沼郡大聖寺町耳聞山町(現石川県加賀市)に生まれる。幼名は幸吉。幼少から勉学に優れ、1882年(明治15年)に錦城小学校の高等小学全科を首席で卒業している。 翌1883年(明治16年)5月に石川県立金沢医学校(現金沢大学医学部)に進学。 1887年(明治20年)に石川県立金沢医学校を首席で卒業後、帝国大学医科大学(現東京大学医学部)病理学教室に入り初代教授の三浦守治に師事した。
高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1… 高橋 順太郎(たかはし じゅんたろう、安政3年3月28日(1856年5月2日) - 大正9年(1920年)6月4日)は明治・大正期の、医師、医学博士、薬理学者。東京帝国大学医科大学、初代薬物学教授。医術開業試験医員、日本薬局方調査委員、理学文書目録委員会委員、東京帝国大学評議委員などをつとめた。正三位勲一等瑞宝章。通称:順太郎、諱:信之(もりゆき)。石川県金沢市出身。著作に「河豚之毒」「肝油ノ効果ヲ論ス」「『ファゴール』二就テ」など 安政3年3月28日(1856年5月2日)、加賀藩知行御算用者小頭高橋荘兵衛(110石・通称:荘兵衛、諱:作善)・石橋鈴(御算用者:石橋良蔵・長女)の嫡男として、金澤勘解由町(金沢市瓢箪町)に生まれる。
松江 安見(まつえ やすみ、弘化元年1月13日〈1844年2… 松江 安見(まつえ やすみ、弘化元年1月13日〈1844年2月1日〉 - 明治22年〈1889年〉3月4日)は、日本の医師。石川県白山市(旧松任市)出身。石川県で初めて篤志解剖を行った。 石川郡徳丸村(現白山市徳丸町)で父安右ェ門、母ヒナの長男として生まれる。松江家は徳丸村宮井甚平家の分家にあたる。宮井家は地方きっての豪農で、藩政中期より1870年(明治3年)まで村肝煎を勤めた家柄であった。甚平の二男が分家し松江安右エ門と名乗ったのが松江家の初代である。安右エ門には安見、安茂、陳好、甚作、兵二、安仁、嘉平、昇、意之の9人の子があった。 松江安見は若くして医学の道を志し、金沢医学所で、漢方医学を大益良吉に、西洋医学を石川孝恭に学んだ。