中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日 - )は… 中田 英寿(なかた ひでとし、1977年1月22日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロサッカー選手、実業家。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元日本代表。国際サッカー評議会(IFAB)諮問委員・一般財団法人「TAKE ACTION FOUNDATION」代表理事・観光庁「アドバイザリー・ボード」メンバー・株式会社JAPAN CRAFT SAKE COMPANY代表取締役。 日本代表のFIFAワールドカップ(以下W杯)3大会連続出場に貢献。FIFA100選。アジア年間最優秀選手賞2回。イタリア政府よりイタリア共和国功労勲章(カヴァリエーレ)受章。U-17世界選手権(現在のU-17W杯)、ワールドユース(現在のU-20W杯) 、U-23オリンピック 、コンフェデレーションズカップ 、W杯 、以上のナショナルチーム主要世界大会すべてでゴールをあげた唯一の日本人選手。
堀井 岳也(ほりい がくや、1975年7月3日 - )は、山… 堀井 岳也(ほりい がくや、1975年7月3日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロサッカー選手。ポジションはFW。 1984年に貢川サッカースポーツ少年団に入団。昭和町立押原中学校を経て山梨県立韮崎高等学校に入学してサッカー部に入部。在学中、1991年、1993年の2回全国高等学校サッカー選手権大会に出場した。中田英寿は1年後輩。卒業後は青山学院大学に入学し、サッカー部でプレーした。 大学卒業後地元山梨県に戻り、当時旧JFL所属だったヴァンフォーレ甲府に入団。翌年甲府は新設されたJリーグ2部に参入した。堀井は2年間で49試合に出場して合計8得点を挙げた。 2000年にモンテディオ山形に移籍。2001年9月、コンサドーレ札幌にレンタル移籍で加入した。
大柴 健二(おおしば けんじ、1973年11月19日 - )… 大柴 健二(おおしば けんじ、1973年11月19日 - )は、山梨県甲府市出身で浦和レッドダイヤモンズ等に所属した元プロサッカー選手。ポジションはフォワード。 1996年に国士舘大学から浦和レッドダイヤモンズに加入。俊足のフォワードで相手DFの裏へ抜け出してボールを受けると、そのまま一気にドリブルで駆け上がりゴールへ流し込むスタイル。浦和時代には、さらさらのロングヘアだったことから、同僚の岡野雅行との2トップの時には「野人コンビ」と呼ばれ、活躍した。1997年のオフに結婚。1998年には豊富な運動量を武器に、14得点でチームの得点王になった。 2001年セレッソ大阪に移籍したが古巣の浦和に非常に強く、2度の対戦で計3得点を挙げた。
仲田 建二(なかだ けんじ、1973年10月4日 - )は、… 仲田 建二(なかだ けんじ、1973年10月4日 - )は、山梨県北巨摩郡須玉町(現:北杜市) 出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 1996年に地元・甲府に入団以来10年間、DFの要として最終ラインを支え続けた。J2参戦後は主将を務め、「ミスター・ヴァンフォーレ」としてファンから愛された。 1999年から3年連続J2最下位、2000年にはJリーグワーストの19連敗、さらに深刻な経営難という苦しいチーム状況の中でも仲田の奮闘ぶりは光った。2000年シーズン終了後に一旦は戦力外通告を受けるも、結局翌2001年シーズン直前にクラブと再契約を交わしている。背番号が同シーズンのみお馴染みの"6"でないのはそのため。
大柴 克友(おおしば かつとも、1973年5月10日 - )… 大柴 克友(おおしば かつとも、1973年5月10日 - )は、山梨県出身の元プロサッカー選手(ポジションはFW)、サッカー指導者。 現役時代はヴァンフォーレ甲府、ジェフユナイテッド市原、ベガルタ仙台に在籍した。また、甲府時代から所属した各チームで、長身FWバロンとのコンビで数々の活躍を見せてきた。 2007年4月に仙台から現役引退が発表された際、ミズノアルファサービス社とプロコーチ契約を結んで、ミズノサッカースクールで活動していると紹介された。「ミズノサッカースクール MFP所沢校」の指導を経て、ジェフ千葉のU-15アシスタントコーチとなり中学生年代の指導に当たった。2009年よりジェフユナイテッド市原・千葉のU-18コーチ、さらに2010年よりジェフリザーブスのコーチとなった。
坂本 武久(さかもと たけひさ、1971年8月26日 - )… 坂本 武久(さかもと たけひさ、1971年8月26日 - )は、山梨県出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。現役時代のポジションはGK(ゴールキーパー)。 高校時代は低迷していた韮崎高校の正GKとして1989年、7年ぶりとなる全国高校サッカー選手権への出場に貢献。 明治大学を経て 1994年に地元クラブチームの甲府サッカークラブに入団。同年の第74回天皇杯全日本サッカー選手権大会2回戦においてJリーグでサントリーシリーズを制覇したサンフレッチェ広島相手に90分間ノーゴールという鉄壁を見せた(延長戦で2失点し、敗退)。ヴァンフォーレ甲府と改称した1995年の試合中に選手生命を脅かす程の大怪我を負うものの復活し、Jリーグに参入した1999年まで甲府の正GKとしてゴールを守っていた。
篠田 善之(しのだ よしゆき、1971年6月18日 - )は… 篠田 善之(しのだ よしゆき、1971年6月18日 - )は、山梨県甲府市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはミッドフィールダー(主にボランチ)。 山梨県立機山工業高等学校を卒業後、1年間のみ地元の甲府サッカークラブ(現 ヴァンフォーレ甲府)でプレーし、中京大学に進学。大学卒業後の1995年、当時ジャパンフットボールリーグに所属していた福岡ブルックス(現 アビスパ福岡)に練習生として入団。以後、プロとしてのキャリア全てを福岡で過ごす。 Jリーグ初得点は1999年の浦和戦、記憶に残るロングシュートであった(J1長距離ゴール史上4位)。ブルックス時代からの生え抜きボランチで福岡に最も長く在籍し、1999年と2003年には主将を務めた。
斉木 和人(さいき かずと、1970年4月30日 - )は、… 斉木 和人(さいき かずと、1970年4月30日 - )は、山梨県出身の元サッカー選手。 サッカーの強豪山梨県立韮崎高等学校、青山学院大学を経て1993年にJリーグ・横浜マリノスへ入団する。しかし出場機会を得られないまま1994年に退団。 1995年にJリーグ入りを目指す地元チーム・ヴァンフォーレ甲府に入団。ここでキャプテンに指名され、レギュラーとして活躍。チームのJリーグ参入に貢献した。1998年にはJFLオールスターサッカーにも出場している。 1999年にJリーグチーム・ヴァンフォーレ甲府の初代キャプテンに就任し、リーグ31試合に出場するもこの年で退団。その後オーストラリアに渡るも2000年に引退した。
山本 健二(やまもと けんじ、1965年8月28日 - )は… 山本 健二(やまもと けんじ、1965年8月28日 - )は、山梨県出身の元サッカー選手、指導者。現役時代のポジションはディフェンダー(左サイドバック)。 山梨県立韮崎高等学校では1学年上に保坂孝、羽中田昌がいる。全国高等学校サッカー選手権大会では2年時に準優勝(第61回)、3年時にベスト4進出(第62回)に貢献。両大会で優秀選手に選ばれ、日本高校選抜のヨーロッパ遠征に参加した。 駒澤大学を卒業後、1988年に日本サッカーリーグの古河電工に加入。加入初年度の1988-89シーズンのJSL1部では第1節から出場機会をつかみ19試合に出場。4シーズンの間にJSL1部通算53試合に出場した。 1992年、プロ化によりジェフユナイテッド市原へと移行後もチームに在籍し、同年のJリーグカップでは1試合に出場 したが同年限りで退団。
羽中田 昌(はちゅうだ まさし、1964年7月19日 - )… 羽中田 昌(はちゅうだ まさし、1964年7月19日 - )は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者およびスポーツエッセイスト。JFA 公認S級コーチ(2006年取得)。 甲府市丸の内で家具商を営む羽中田家の次男として生まれる。6歳上の兄の影響で小さいころからサッカーに親しみ、甲府市立春日小学校(現:甲府市立舞鶴小学校)3年時にサッカー少年団が設立されるとこれに入部してサッカーに熱中するようになった。少年時代から切れ味鋭いドリブル突破が持ち味のフォワードとしてプレーし、小学校5年生の時に湯田少年団の一員として全国サッカー少年団大会(全日本少年サッカー大会の前身)に出場。翌年には春日少年団の一員として同大会に出場し、2年連続で優秀選手に選ばれ全国的に名前が知れ渡るようになった。
保坂 孝(ほさか たかし、1964年5月5日 - )は、日本… 保坂 孝(ほさか たかし、1964年5月5日 - )は、日本のサッカー選手およびサッカー指導者である。 サッカーの街として知られる山梨県韮崎市生まれ。韮崎市立韮崎東中学校時代に羽中田昌を擁する甲府市立西中学校と出場権をかけて対戦し、全国中学校サッカー大会出場を果たした後、サッカーの古豪である地元の山梨県立韮崎高等学校に進学。ライバルである羽中田や1学年上の大柴剛とともに「H2Oトリオ」として脚光を浴び、全国高校サッカー選手権において1年次はベスト4、2年次は準優勝に輝く。大柴が卒業し、羽中田が腎臓病で出場機会が限られていた3年次の大会でも決勝まで勝ち上がり、清水東三羽烏擁する静岡県立清水東高等学校と優勝を争った(結果は準優勝)。
小林 慎二(こばやし しんじ、1963年10月17日 - )… 小林 慎二(こばやし しんじ、1963年10月17日 - )は、山梨県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションは、ミッドフィールダー。 明治大学を卒業後、1986年に山梨県教育委員会へ就職すると同時に、甲府サッカークラブへ入団。1990-91シーズンにはJSL2部で14アシストを記録し、アシスト王のタイトルを獲得。1991年、全日空サッカークラブへ移籍し、1993年までプレーした。その後は富士通サッカー部、福島FCでプレーし、1997年に現役を引退。 引退後は古巣横浜フリューゲルスで指導者としてのキャリアをスタートさせ、2001年からは横浜F・マリノスのアシスタントコーチを務める。
横川 泉(よこかわ いずみ、1963年2月25日 - )とは… 横川 泉(よこかわ いずみ、1963年2月25日 - )とは、日本の元サッカー選手。選手時代のポジションはGK。高校選抜、ユース代表、全日本B代表、日本代表候補の経歴がある。 身体能力に恵まれたゴールキーパー で、フジタ工業での日本サッカーリーグ(112試合1部通算84試合/2部28試合)の経験を買われてJリーグ開幕を控えた1992年に横浜マリノスへ移籍した。 サッカーの盛んな山梨県韮崎市で生まれる。実家は畳屋を営み、三人兄弟の末っ子として育つ。小学校4年時に韮崎サッカースポーツ少年団が開団し、そこに入団。GKとしての基礎を学ぶ。 中学は韮崎西中学に進学、3年時に山梨中学総体で優勝。高校は名門の山梨県立韮崎高等学校へ進学し、1年次よりレギュラーとして活躍。
塚田 雄二(つかだ ゆうじ、1957年12月28日 - )は… 塚田 雄二(つかだ ゆうじ、1957年12月28日 - )は、山梨県甲府市出身 の元サッカー選手、サッカー指導者。Uスポーツクラブ代表。 中学1年の途中からサッカーを始める。山梨県立韮崎高等学校時代にはインターハイに優勝し、体育教師を目指して日本体育大学に進学。卒業後は山梨に戻り高校の教員としてサッカー部を指導していたが、その後、高校を辞めて幼稚園で体育の指導および園児たちを対象としたサッカー教室を始める。またそれらと並行して日本サッカーリーグ2部(JSL2部)に在籍していた甲府サッカークラブ(現 ヴァンフォーレ甲府)で選手として1980年より9年間活動した。 ドイツのケルンで見た地域に根ざしたスポーツクラブのあり方に感化され、1989年に「Uスポーツクラブ」を設立する。
保坂 不二夫(ほさか ふじお、1957年5月1日 - )は、… 保坂 不二夫(ほさか ふじお、1957年5月1日 - )は、山梨県韮崎市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。日本サッカー協会公認S級ライセンスを有する。 山梨県立韮崎高等学校や法政大学時代には数多くのタイトル獲得に貢献。1980年からは日本サッカーリーグ2部の東芝サッカー部でプレーを続けた。現役引退後は同サッカー部のコーチを務め、Jリーグ所属のコンサドーレ札幌のトップチームやユースのコーチを務めた。2009年より地元であるJリーグ所属のヴァンフォーレ甲府のユース監督に就任。2011年より同トップチームのコーチに就任した。 2014年2月、山梨県ユースダイレクターおよびJFAインストラクターに就任した(甲府のアカデミーダイレクターを兼任)。
勝俣 進(かつまた すすむ、1956年2月17日 - )は、… 勝俣 進(かつまた すすむ、1956年2月17日 - )は、山梨県富士吉田市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、元地方公務員、政治家。元山梨県富士吉田市議会議員(4期)。現役時代のポジションはFW。 小学校よりサッカーを始め、山梨県立甲府工業高校を経て、法政大学に入学。在学中はサッカー部に所属した。1978年に大学を卒業して富士吉田市役所に勤務。また、甲府サッカークラブ(現在のヴァンフォーレ甲府)に加入した。1984年に現役を引退した。 1993年に富士吉田市役所を退職し、ドイツのサッカークラブ、ヴェルダー・ブレーメンにアシスタントコーチとして就任後、1994年に甲府クラブの監督に就任したが、同年で退任した。
鈴木 政一(すずき まさかず、1955年1月1日 - )は、… 鈴木 政一(すずき まさかず、1955年1月1日 - )は、山梨県出身の元サッカー選手・サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。 サッカーを始めたのは中学3年の時と遅かったが、山梨県立石和高等学校、日本体育大学ではそれぞれ主将を務めた。大学時代は全日本大学サッカー選手権大会で法政大学を破り優勝も経験している。その後1977年にヤマハ発動機サッカー部(Jリーグ所属のジュビロ磐田の前身)に入団。以来、2010年まで選手・指導者時代を通して30年以上ヤマハ・磐田に在籍した(ちなみにプロ契約はしていない「サラリーマン」であった)。選手としては1982年の天皇杯に優勝している。 1984年にヤマハのコーチに就任後、1995年までヤマハでコーチ・総監督、磐田でサテライト監督を務め、その後はフロント入りしていたが、2000年6月にトップチームのコーチとして現場に復帰。
数野 篤人(かずの あつひと、1954年 - )は、山梨県甲… 数野 篤人(かずの あつひと、1954年 - )は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手。山梨県立機山高等学校、日本体育大学卒業。 山梨県立機山工業高等学校を経て、1973年に日本体育大学に進学。日体大時代は2年次からレギュラーとなり、1974年度の春季対抗戦(関東大学サッカーリーグ戦一部)優勝、1975年度の全日本大学選手権大会優勝に貢献した。卒業後は郷里の山梨県で教師を務める傍ら日本サッカーリーグ(JSL)2部の甲府サッカークラブ(日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟のヴァンフォーレ甲府の前身)に在籍。1978年シーズンにJSL2部で12得点を挙げ得点王に輝き、リーグ戦3位の原動力となった。 教職としては山梨県北杜市立小淵沢中学校校長、甲府市立甲運小学校校長、甲府市立上条中学校校長などを歴任後2014年3月に退職[要出典]。
清雲 栄純(きよくも えいじゅん、1950年9月11日 - … 清雲 栄純(きよくも えいじゅん、1950年9月11日 - )は、山梨県塩山市(現:甲州市)出身の元サッカー選手、サッカー指導者、ラグビー選手、法政大学スポーツ健康学部教授。サッカー選手時代のポジションはDF。 中学時代までは野球をしていた。山梨県立日川高校入学後、クラス対抗ラグビー大会の活躍によりまずラグビー部からスカウトされ、その後サッカー部にも入り、両部を掛け持ちするようになる。サッカーでは県大会3位止まりだったが、主にフルバックやウイングとしてプレーしたラグビーでは3年生の時に全国高校ラグビー大会で準々決勝まで進出し、大会ベストフィフティーンにも選ばれた。高校時代の同級生には有賀健、風間深志、ジャンボ鶴田がいる。
塩澤 敏彦(しおざわ としひこ、1947年3月8日)は、山梨… 塩澤 敏彦(しおざわ としひこ、1947年3月8日)は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手(DF)・サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)、サッカー解説者。 強豪校・城北高校でサッカーを始める。テクニックに難のある塩澤にはポジション獲得は至難の業であったが、俊足と身体能力を買われて左FBのポジションを獲得し、以来現役生活を通じてDFとしてプレー。 明治大学卒業後の1970年にJSLの名古屋相互銀行へ入部するが、名相銀のメンバーは昼は窓口業務や営業をこなす普通の銀行マンで、練習時間は少なく毎年のように入替戦を戦っていた。2年目の1971年にはリーグ最下位となり、12月30日の入替戦で藤和不動産に敗れた結果、会社が休部を発表した。
横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、… 横森 巧(よこもり たくみ、1942年7月27日 - )は、山梨県東山梨郡勝沼町(現・山梨県甲州市)出身の元サッカー選手および現サッカー指導者・解説者。 山梨県立日川高等学校在学中よりサッカーを始め、日本体育大学入学後もサッカー部に入部した。大学卒業後は高校教諭となり、1968年に(昭和43年)山梨県立谷村工業高等学校に赴任してサッカー部の監督に就任し、関東大会に出場した。その傍ら甲府サッカークラブで1973年 (昭和48年)6月までプレーして主将も務めた。 現役を引退した1973年(昭和48年)より山梨県立韮崎高等学校に赴任となり、サッカー部の監督に就任。1975年(昭和50年)に全国高等学校総合体育大会サッカー競技大会で優勝した。
保坂 司(ほさか つかさ、1937年3月3日 - 2018年… 保坂 司(ほさか つかさ、1937年3月3日 - 2018年1月21日)は、山梨県甲府市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、政治家。 積翠寺温泉(甲府市)の旅館「古湯坊 坐忘庵」の保坂家の22代目であり、サッカーは山梨県立甲府第一高校の3年次より始めた。当初はウィングであったが、その後にGKにポジションを変更し、同年の第9回国民体育大会では準優勝を経験した。進学した明治大学でもサッカー部に所属、1年次よりスタメンに定着した。 大学卒業後は古河電工サッカー部に入部。古河では実業団初となる天皇杯獲得に貢献した。 1960年11月6日の韓国代表戦で日本代表として初出場。1964年の東京五輪でもレギュラーと目されていたが、大会直前の遠征で手を骨折してしまい、横山謙三にポジションを譲る事になった。