日原 傳(ひはら つたえ、1959年(昭和34年)4月30日… 日原 傳(ひはら つたえ、1959年(昭和34年)4月30日 - )は、日本の俳人・中国哲学文学研究家。法政大学人間環境学部教授。 山梨県に生まれる。同じ日原姓の日原利国と同じ集落の出身。(縁戚関係はない。)山梨県立日川高校卒。高校時代甲府一高で末木文美士を教えた弦間教諭の教えを受ける。1979年(昭和54年)、東大学生俳句会に入会し、小佐田哲男、有馬朗人、山口青邨の指導を仰ぐ。文科Ⅲ類から始め文学部国文学専修に進むが一年後中国哲学専修に転ずる。1984年(昭和59年)に東京大学文学部を卒業。1990年(平成2年)に有馬朗人主宰の「天為」の創刊に参加。1992年(平成4年)に同大学大学院人文科学研究科中国哲学専門課程博士課程を単位修得後退学する。
中澤 正(中沢 正、なかざわ ただし、1927年1月6日-)… 中澤 正(中沢 正、なかざわ ただし、1927年1月6日-)は、料理史研究家、料理人。 山梨県甲府生まれ。1939年4月上京、東駒形の伯父の家に寄食。その後外地で暮らし、1946年復員、47年関西へ移り、あなごや調理師会幹事高橋辰男に師事し大阪などで働く。1955年上京、日本橋室町一丁目和食信洲などで働く。1963年2月、鉄道弘済会中部支部に入会、とくがわ荘に勤務。この間、進士慶幹に師事して歴史を学んだ。日本料理講師。名古屋在住。
野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日… 野口 二郎(のぐち じろう、1900年(明治33年)3月3日) - 1976年(昭和51年)1月18日)は、日本の実業家、政治家、郷土史研究家。甲府市長(官選第18代)、山梨日日新聞社社長、山梨放送社長。 甲府市百石町に、父・英夫、母・いしの二男として生まれる。1906年(明治39年)4月に山梨県尋常師範学校付属小学校に入学、1917年(大正6年)3月に山梨県立甲府中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)、1920年(大正9年)3月に第八高等学校を卒業後、同年4月に東京帝国大学法学部に入学。1922年(大正11年)2月20日に山梨日日新聞社社長であった父親の野口英夫が逝去し、同月21日に学生のまま同新聞社の社長に就任。
浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15… 浅川 巧(あさかわ たくみ、1891年(明治24年)1月15日 - 1931年(昭和6年)4月2日)は、朝鮮民芸・陶芸の研究家・評論家。朝鮮半島で植林事業を行う傍ら、朝鮮半島の陶磁器と木工を研究紹介した。 父・浅川如作、母・けいの次男として山梨県北巨摩郡甲村五丁田(同郡高根町五町田を経て、現在は北杜市高根町五町田)に生まれる。兄は浅川伯教。1891年(明治24年)には村山西尋常小学校に、1901年(明治34年)には秋田尋常高等学校に入学する。 1906年(明治39年)4月、山梨県立農林学校に入学、この頃に浅川政蔵と知り合う。1907年(明治40年)6月にはメソジスト甲府教会で受洗。1909年(明治42年)4月、秋田県大館営林署に就職。
功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16… 功刀 亀内(くぬぎ きない、1889年(明治22年)9月16日 - 1957年(昭和32年)12月30日)は、山梨県出身の実業家、郷土史料蒐集家、研究家。蒐集した山梨県に関する郷土資料群は「甲州文庫」と命名されている。 山梨県中巨摩郡豊村(現在の南アルプス市上今井)出身。生家は蚕糸業者で父は六蔵、亀内は三男。豊村高等小学校卒業後、家業を手伝う。 1919年(大正8年)1月には結婚し、甲府市穴切町に転居する。戦後に行われた対談の証言に拠れば、30歳頃には当時の最先端の流行であったオートバイを愛好し、本業の蚕糸業に活用し、趣味のツーリングを行ったという。「甲州文庫」の史料の一つである「山梨県下写真貼込帳」には、1916年(大正5年)の長野県諏訪(諏訪市)へのツーリングの写真が残され、群衆の中に亀内も写っているとされる。
白野 夏雲(しらの かうん、文政10年閏6月26日〈1827… 白野 夏雲(しらの かうん、文政10年閏6月26日〈1827年8月18日〉 - 明治33年〈1900年〉9月8日)は、明治時代の物産研究家、アイヌ語研究家。本名は今泉 耕作(いまいずみ こうさく)。 甲斐国都留郡白野村(現在の山梨県大月市笹子町)の出身。代官の手代の家に生まれたがあまり教育を受けることができず、岩瀬忠震が徽典館の学頭をしていたときにその学僕となって少し書物を読んだ程度という。幕末には江戸に出て、幕府・歩兵の輜重隊の頭と軍事顧問を命ぜられ小川町に駐屯していた。1864年に天狗党の乱が起き、日光の警備を命じられ任地に赴く。1868年に彰義隊が上野に立てこもった時は浅草の蔵を守っていたが、官軍が江戸に入り徳川の残党を追求するに至って、隊を率いて新宿口から甲州へと逃げることができた。