松原 良香(まつばら よしか、1974年8月19日 - )は… 松原 良香(まつばら よしか、1974年8月19日 - )は、静岡県浜松市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者、実業家。Jリーグ選手OB会副会長。元サッカー選手の松原真也は兄、サッカー選手の松原后は甥(真也の息子)。 プロサッカー選手となる3歳年上の兄・真也にあこがれ小学校3年生よりサッカーを始める。真也は高校2年生の時にアルゼンチンに渡り、プロ契約を果たした。その影響を受け、自らもアルゼンチン行きを周囲に相談するが反対され断念。 東海大一高校の同学年には伊東輝悦、白井博幸、1学年上には服部年宏、岩下潤がいる。高校卒業後、特待生として阪南大学に進んだが、3日間で辞めて静岡に戻る。世代別日本代表コーチとして面識があったヤマハ発動機(のちのジュビロ磐田)の山本昌邦から連絡を受け、海外に挑戦することを勧められる。
名波 浩(ななみ ひろし、1972年11月28日 - )は、… 名波 浩(ななみ ひろし、1972年11月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、解説者。元日本代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー。 Jリーグのジュビロ磐田、セレッソ大阪、東京ヴェルディ1969、イタリア・セリエAのACヴェネツィアでプレーした。Jリーグベストイレブンを4度受賞。日本代表では背番号10番を着用し、1998年のフランスワールドカップに出場した経歴を持つ。マネジメントは株式会社ラボーナ。 静岡県藤枝市にて名波家4人兄弟の末子として出生。サッカーが盛んな藤枝市という環境と兄らの影響もあり、物心つくうちからサッカーに熱中する。この頃の浩は、時間があれば電話で友人を呼び出してサッカーに明け暮れていた。
澤登 正朗(さわのぼり まさあき、1970年1月12日 - … 澤登 正朗(さわのぼり まさあき、1970年1月12日 - )は、静岡県富士宮市出身の元サッカー選手(MF)、元日本代表、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)・解説者。 Jリーグの初代新人王で、1999年にはベストイレブン、日本年間最優秀選手賞を受賞。1990年代の日本を代表する司令塔の一人で、フリーキックの名手。1992年のJリーグ加盟10チームの中で唯一実業団を母体としない市民球団として結成された清水FCエスパルス(現・清水エスパルス)の契約第3号選手(第1号大卒新人選手)で、プロデビューから引退までクラブ一筋のバンディエラ。 1990年代後半、クラブ消滅危機に瀕したエスパルスにあって、主将としてクラブ史上初のタイトル(Jリーグカップ)獲得をはじめ、J1ステージ優勝(年間勝ち点1位)や国際タイトル(ACWC99-00)獲得に貢献。
三浦 泰年(みうら やすとし、1965年7月15日 - )は… 三浦 泰年(みうら やすとし、1965年7月15日 - )は、静岡県静岡市出身のサッカー指導者、元プロサッカー選手、サッカー解説者であり、元日本代表。現役時代のポジションはDF、(MF)。 静岡学園高校時代からテクニシャンとして名を馳せたが、全国の舞台とは無縁であった。同期には向島建がいる。1984年に卒業し、ブラジルのサントスFCでのサッカー留学を経験した。 1986年に読売サッカークラブに入団。1990年に弟知良も読売に入団した。1991年3月10日、ヤマハ発動機戦では、高校時代以来となる知良からのアシストでのゴールを決めた。 Jリーグ発足に伴い、1992年に前身となるチームを持たず新規に立ち上げられた清水エスパルスに移籍し初代主将を務める。
長嶋 清幸(ながしま きよゆき、1961年11月12日 - … 長嶋 清幸(ながしま きよゆき、1961年11月12日 - )は、静岡県小笠郡浜岡町(現:御前崎市)出身の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。 日本プロ野球史上、初めて背番号0をつけた人物である。 小学生時代に投手として静岡県大会で準優勝し、浜岡町立浜岡中学校時代は一塁手となるも、自動車工業高では外野手兼投手となり4番を打った。 2年次の1978年、練習試合を見に来ていた広島の木庭教スカウトが、予告本塁打を打った長嶋の打撃力に目を留めた。当時長嶋は阪神ファンであり、阪神の田丸仁スカウトも目を付け、3年次の1979年夏に田丸が自宅を訪問。下位指名の予定を伝えたが、阪神からのドラフト指名は無く、翌日も連絡がない間に、広島、南海から獲得意向の連絡があり、連絡翌日に自宅を訪れた木庭が両親を説き伏せ、仮契約を済ませた。
大石 大二郎(おおいし だいじろう、 1958年10月20日… 大石 大二郎(おおいし だいじろう、 1958年10月20日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロ野球選手(内野手)、監督、野球指導者、解説者、評論家。1987年から1990年までの登録名は、大石 第二朗(読みは同じ)。
高橋 三千丈(たかはし みちたけ、1956年11月10日 -… 高橋 三千丈(たかはし みちたけ、1956年11月10日 - )は、静岡県熱海市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ、解説者・評論家。2016年からは名古屋産業大学硬式野球部の監督を務める。
山下 大輔(やました だいすけ、1952年3月5日 - )は… 山下 大輔(やました だいすけ、1952年3月5日 - )は、静岡県清水市(現:静岡市清水区)出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督・コーチ、解説者・評論家。愛称は「大ちゃん」。 清水東高校から1970年に一般入試で慶應義塾大学商学部へ進学。東京六大学野球リーグでは、1年次の同年秋季リーグから正遊撃手となり、高校の2年先輩である松下勝実とクリーンアップを組み活躍する。2年上の工藤真投手、清水東高でも2年上の松下勝実、1年上の萩野友康・長谷部優両左腕投手らを擁し、2年次の1971年秋季リーグからの3連覇に3番打者として貢献。1、2年時には「鬼の榊原」と呼ばれた榊原敏一監督に「試合と同じ集中力で練習しろ」と鍛え上げられた。
稲葉 光雄(いなば みつお、1948年10月2日 - 201… 稲葉 光雄(いなば みつお、1948年10月2日 - 2012年8月11日)は、静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者。 5歳の時に兄からソフトボールでボール投げをやらされたことがきっかけで野球を始める。清水工業高校の2年生の時に投手となる。日本軽金属へ入社し、1968年のドラフト会議にて広島東洋カープから6位で指名されるが、まだ20歳と若かったことや会社から残留を要請されたこともあり、入団を拒否した。1970年の都市対抗には大昭和製紙の補強選手として出場し、チームの優勝に貢献。 1970年のドラフト2位で中日ドラゴンズに入団。 1971年8月25日の巨人戦(後楽園)に延長11回裏から登板して4イニングを無失点に抑え、プロ初勝利を挙げる。
加藤 秀司(かとう ひでじ、1948年5月24日 - )は、… 加藤 秀司(かとう ひでじ、1948年5月24日 - )は、静岡県榛原郡川崎町(現:牧之原市)出身の元プロ野球選手(一塁手、外野手)・コーチ・監督、解説者。日本プロ野球名球会会員。加藤 英司(読み同じ)の登録名での活動していた時期あり。 通算犠牲フライで歴代2位の記録数を持つ(野村克也に次ぐ105個)。 父は漁師であったが幼少の頃に死別し、単身PL学園高校に進学する。2年次の1965年に控え一塁手として春の選抜へ出場するが、準々決勝で高松商の小坂敏彦に抑えられ敗退。1学年先輩に福嶋久晃・得津高宏・長井繁夫が、2学年先輩に中村順司がいた。3年次の1966年の選抜にも4番・一塁手として連続出場するが、1回戦で、この大会に優勝した中京商に敗れた。
竹内 宏介(たけうち こうすけ、1947年1月6日 - 20… 竹内 宏介(たけうち こうすけ、1947年1月6日 - 2012年5月3日)は、日本のスポーツジャーナリスト、プロレス評論家、解説者。 元日本スポーツ出版社代表取締役社長、のち顧問。ニックネームは「魂の解説者」「ミスター・ゴング」「昭和プロレスの伝道師」「魂のプロレス請負人」。 静岡県熱海市にて出生し、後に東京都台東区にて育つ。幼少時代、力道山による空前のプロレスブームが起こり、竹内も例外ではなく、街頭テレビに映る力道山に熱中した。 1965年にベースボール・マガジン社に入社し、格闘技専門誌である『プロレス&ボクシング』のカメラマンとしてプロレスに携わる。記事も執筆しており、19歳で『プロレス&ボクシング』、『月刊ボディビルマガジン』の編集長に就任するが、日本スポーツ出版社から新雑誌創刊のためにヘッドハンティングされたことを受け、1968年に日本スポーツ出版社へ転職し、『週刊ゴング』の前身である『月刊ゴング』を創刊する。
大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - 2023… 大石 清(おおいし きよし、1940年4月3日 - 2023年11月28日)は、静岡県清水市出身のプロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家。 「剃刀」と喩えられたストレートとスライダーを武器に、「カープ史上最速のピッチャー」と評された。 清水商業高校では3年次の1958年に春季中部大会1回戦で岐阜商に逆転負けし、夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかった。卒業後は清水商野球部後援会と立教大学校友会静岡支部の推薦で立大進学が決まっていたが、家庭の事情でプロ入りが決まる。 1959年に広島カープへ入団し、同期には後に阪急でもコーチとして同僚となる上田利治らがいた。選手の給料もままならない弱小・広島において、1年目から39試合に登板して9勝を挙げ、若くして主戦投手となる。