塚本 康浩(つかもと やすひろ 1968年 - )は、日本の… 塚本 康浩(つかもと やすひろ 1968年 - )は、日本の獣医師・獣医学博士。京都府立大学学長・生命環境科学研究科教授。ダチョウ研究で知られる。 1968年、京都府生まれ。1994年、大阪府立大学農学部獣医学科卒業。1996-1997年、カナダ・ゲルフ大学獣医学部 客員研究員。1998年、大阪府立大学大学院農学部生命科学研究学科博士課程獣医学専攻修了、獣医学博士。大阪府立大学同研究科助手就任。1999年、ダチョウ牧場「オーストリッチ神戸」のダチョウ主治医に就任し、本格的なダチョウ及びダチョウ抗体の研究を始める。 2005年大阪府立大学講師、准教授。2008年京都府立大学大学院生命環境科学研究科教授に就任。
西澤 茂(にしざわ しげる、1952年 - )は、日本の医師… 西澤 茂(にしざわ しげる、1952年 - )は、日本の医師。専門は脳神経外科。医学博士。産業医科大学教授。前産業医科大学病院副院長。
坂口 志文(さかぐち しもん、1951年1月19日 - )は… 坂口 志文(さかぐち しもん、1951年1月19日 - )は、日本の免疫学者、医師。大阪大学栄誉教授・免疫学フロンティア研究センター特任教授、京都大学名誉教授。ベンチャー企業レグセルの創業者。 過剰な免疫反応を抑える制御性T細胞の発見と免疫疾患における意義を解明したことで知られ、2025年に「末梢性免疫寛容に関する発見」により、メアリー・E・ブランコウ、フレッド・ラムズデルとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。滋賀県出身者、また大阪大学在籍中の者では初のノーベル賞受賞となる。 滋賀県長浜市曽根町(旧・東浅井郡びわ町曽根)出身。 志文の名は、京都帝国大学文学部哲学科出身で西洋哲学に造詣の深かった父が聖書から引用して命名した。
土川 健之(つちかわ けんじ、1944年6月28日 - )は… 土川 健之(つちかわ けんじ、1944年6月28日 - )は、日本の獣医師。日本中央競馬会(JRA)理事長(第14代)。
井村 裕夫(いむら ひろお、1931年(昭和6年)2月4日 … 井村 裕夫(いむら ひろお、1931年(昭和6年)2月4日 - )は、日本の医学者、医学博士。京都大学名誉教授・元総長。第27代日本学士院院長。専門は内分泌代謝病学、糖尿病学。 1931年、滋賀県神崎郡八日市町(現:東近江市)生まれ。滋賀県立八日市高等学校卒業。1954年京都大学医学部医学科卒業、医学博士。米国カリフォルニア大学内科研究員、京都大学講師、神戸大学医学部教授、京都大学医学部教授、同大学医学部長を経て、1991年~1997年京都大学総長。同時に国立大学協会会長。京大総長選挙は当時、立候補も他者推薦も無しで各教官が適任と思う人物を紙に書く制度であったため予期せず突如選ばれ、研究を一時中断するほど多忙であったという。
山本 高治郎(やまもと たかじろう、1916年 - )は、日… 山本 高治郎(やまもと たかじろう、1916年 - )は、日本の小児科医、聖路加国際病院名誉医長。 滋賀県生まれ。1941年東京帝国大学医学部卒。1953年東京大学医学博士。論文の題は「穀粉栄養障碍に於けるビタミンA欠乏症状発現に関する実驗的研究」。 聖路加国際病院小児科医長、のち名誉医長。北里大学客員教授。1983年『母乳』で毎日出版文化賞受賞。
周防 正季(すおう まさすえ、1885年10月8日 - 19… 周防 正季(すおう まさすえ、1885年10月8日 - 1942年6月20日)は、日本人医師、朝鮮総督府らい療養所小鹿島更生園園長。当時世界最大規模の療養所を作り上げたが、強制隔離政策、患者待遇悪化、植民地支配に対する反感などがあり、患者に刺殺された。 1885年10月8日に滋賀県栗太郡老上村字矢橋(現在の草津市矢橋町)に大神家の3男として出生。医家周防氏の養子となる。滋賀県立第一中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)を経て愛知県立医学専門学校(現在の名古屋大学医学部)、1909年(明治42年)卒業。県立岡崎病院外科、内務省防疫官補、開業、1916年(大正5年)滋賀県技師衛生主事、1919年(大正8年)愛知県技師学校衛生主事。
須川 信行(すがわ のぶゆき、天保10年10月25日 (18… 須川 信行(すがわ のぶゆき、天保10年10月25日 (1839年11月30日)- 大正6年(1917年)11月13日)は、江戸時代末期・明治時代の歌人、医師。宮内省御歌所寄人(よりゅうど)、『明治天皇御集』の編纂委員を務めた。 須川信行は、天保10年10月25日(1839年11月30日)に近江高島郡西万木村(現滋賀県高島市)の医師清水玄孝の次男として生まれ、19歳の時に御所出入り医師須川覚性(須川検校)の養子となった。医業を修める傍らで早くから和歌に興味を覚え、香川景樹の高弟で故郷高島出身の歌人渡忠秋に入門し、同人死去後小出粲に師事した。養嗣子鶴吉に医業を譲り自身は歌道に専念し、明治23年(1890年)宮中御歌会始の勅題詠進歌『いにしへに 照して今を仰ぐにも 余るは国の光なりけり』が入選した。
鵜飼 舎杖(うかい しゃじょう、1797年(寛政9年) - … 鵜飼 舎杖(うかい しゃじょう、1797年(寛政9年) - 1883年(明治16年)8月21日)は、幕末から明治時代の日本の医師。近江国(現・滋賀県甲賀市)の出身。本名は実秀、通称は良輔で舎杖は雅号である。 寛政9年、三本柳鵜飼氏に生まれた。父は鵜飼玄達で、家は代々医業を営んでいた。若い頃から京都に遊学し、庫島松南に師事した。帰郷後は医師として活動した。舎杖が最も力を注いだのは、精神病患者の治療であったといわれる。「医は仁述なり」との信念を持ち、病気で貧しい人物がいると聞けば好んで施療した。また水口藩儒の中村栗園(中村確堂の養父)と交際を持った。明治維新に貢献した城多董を弟子に持つた、城多は経世済民に興味を持ち、学問を求め遊学を希望するが、父の賛同を得られず家業の傍らで勉学に励んだ。