沢原 俊雄(澤原 俊雄、さわはら としお、1865年5月8日… 沢原 俊雄(澤原 俊雄、さわはら としお、1865年5月8日〈慶應元年4月14日〉 - 1942年〈昭和17年〉7月29日)は、日本の政治家、実業家、資産家、広島県多額納税者、広島県の大地主。呉商工会議所顧問。広島県呉市長。広島合同貯蓄銀行、沢原銀行各頭取。呉私立教育会長。勲四等。族籍は広島県平民。 広島県安芸郡荘山田村(現・呉市)に生まれる。沢原為綱の長男。広島英語学校に入学し、後に退学する。1889年、東京に在住し学校に入学、1890年、中途退学し帰郷する。 1896年、呉貯蓄銀行創立発起人となり、同行取締役、同行頭取となる。1902年、家督を相続する。商業、農業、貸地貸金業を営み、広島県多額納税者に列する。
友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日(元治… 友田 文次郎(ともだ ぶんじろう、1865年4月30日(元治2年4月6日) - 1932年(昭和7年)9月17日)は、日本の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 安芸国山県郡溝口村(現広島県山県郡北広島町)で、農業、醤油製造業、鉱山業を営む友田幸兵衛の長男として生まれる。広島で漢学を、大阪で法律学を学んだ。その後、村吏、郡吏、裁判所吏員、広島の山陽土木会社社員などを務めた。 父の事業で財産を失ったことから、1891年に北海道移住を計画。資産が無いため屯田兵に応募しようとしたが、当時は広島県での募集はなく、岡山県で募集があり同県に転籍。屯田兵に合格して同年6月に岡山から小樽に渡航。同年7月1日、上川郡永山村(現旭川市)に入植し開墾に従事した。
頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月1… 頼 俊直(らい としなお、1863年6月2日〈文久3年4月16日〉 - 1926年〈大正15年〉12月3日)は、日本の政治家(衆議院議員、当選1回)、広島県多額納税者、広島県の大地主、名望家、資産家、実業家。竹原銀行取締役頭取。木ノ江汽船相談役。族籍は広島県平民。 安芸国竹原(現・広島県竹原市)出身。頼廉次郎の長男。和漢学及び英学を修めた。町会議員に挙げられた。農業、製塩業、金穀貸付業を営んだ。1894年、広島県第5区より選ばれて衆議院議員となった。実業同志倶楽部、大手倶楽部に所属。 江戸後期の儒者、勤王家頼山陽の叔父頼春風の曽孫にあたる。家は累世栄え、俊直に至り、その富は益々大になり、「竹原町随一の長者」と称呼された。
佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3… 佐竹 利市(さたけ りいち、1863年4月20日〈文久3年3月3日〉 - 1958年〈昭和33年〉9月25日)は、日本の技術者・実業家。広島県東広島市出身。 サタケ創業者。日本で初めて動力式精米機を開発する。また竪型精米機も開発しこれが吟醸酒誕生につながるなど、日本の酒造りに貢献した。 1863年(文久3年)、安芸国賀茂郡寺家村(現・広島県東広島市西条町)で代々農業を営む家系の長男として生まれる。5歳のときに叔父から算数を学び、のち独学で進め、幼少期より神童と謳われた。10歳のとき、父親を亡くす。1875年(明治8年)13歳のとき寺家村長と地区の名士だった木村和平(のちの賀茂鶴酒造)から任され地租改正に伴う測量業務・地積計算に2年間従事した。
尼子 忠蔵(あまこ ちゅうぞう、1861年4月16日(文久元… 尼子 忠蔵(あまこ ちゅうぞう、1861年4月16日(文久元年3月7日) - 没年不明)は、日本の政治家(広島市会議員)、商人(醤油商)、醤油醸造家、実業家。第六十六銀行、尾道貯蓄銀行各取締役。(旧)広島銀行、中国紡績各監査役。広島桟橋監査役、同取締役。族籍は広島県平民。 広島県平民・尼子英次郎の長男。家は代々醤油醸造を業とし、「茶屋」と称する。漢学を学び、後に普通教育を受けた。商業に従事した。1881年、家督を相続した。銀行、会社の重役であった。第六十六銀行取締役兼広島支店長を務めた。 広島市胡町・恵美須神社の境内は、もと32坪2合9勺だったが、1909年6月、忠蔵が付近の地積42坪6合2勺を寄付したので74坪9合1勺となった。
井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1… 井上 角五郎(いのうえ かくごろう、万延元年10月18日〈1860年11月30日〉 - 昭和13年〈1938年〉9月23日)は、日本の実業家、政治家。東京府平民。 壬午事変後に朝鮮政府の顧問となる。1883年10月に「漢城旬報」を発刊、1886年1月には「漢城周報」を創刊。甲申政変に深く関与し、金玉均・朴泳孝と関係を持った。第1回の帝国議会衆議院議員に当選以来連続当選14回、第47回まで14回代議士を務める。北海道炭礦鉄道社長、日本製鋼所設立者、会長、国民工業学院理事長、慶應義塾評議員等を歴任し、大正9年(1920年)緑綬褒章下賜。京釜鉄道、南満州鉄道の設立にも関わった。号は閔妃の実甥・閔泳翊から贈られた琢園。
阪田 恒四郎(さかた つねしろう、安政4年(1857年)7月… 阪田 恒四郎(さかた つねしろう、安政4年(1857年)7月 - 昭和19年(1944年)3月5日)は、日本の実業家、サカタインクス創業者。俳人。大中寅二は女婿、阪田寛夫は孫、大浦みずきは曾孫にあたる。 阪田家は、代々紺屋の屋号で安芸国忠海(現在の広島県竹原市忠海)で海運業を営んでいた。恒四郎の父・林助は少年期に大坂へ出て幕府御用商の銅精錬所に奉公。恒四郎は大坂で生まれるが文久元年(1861年)、父の帰郷と共に4歳から広島忠海で育つ。23歳で広島県豊田郡役所に書記として採用される。恒四郎の次男・阪田素夫(阪田寛夫の父)他、のちに家業を継ぐ五男のうちの3人はいずれも忠海生まれ。明治28年(1895年)退職して広島市で銀行員となる。
内藤 守三(ないとう もりぞう、安政4年2月13日(1857… 内藤 守三(ないとう もりぞう、安政4年2月13日(1857年3月8日) - 昭和21年(1946年)2月22日)は、実業家、政治家。国勢調査創設者。安芸国賀茂郡板城村馬木(現在の広島県東広島市)出身。幼名・太郎一。 若くして庄屋をつとめ、戸長にもなる。竹原の学館で漢学を修め1870年上京、東京開成学校で英語、法律、国勢学(統計学)を、皇典講究所で国学を学ぶ。卒業後黒瀬川の浚渫事業に携わった後、実業家となり1888年呉市に呉土工会社を設立。呉海軍工廠の誘致・山陽鉄道の国有化等に尽力、また呉市二河公園の建設など同地の市街地整備にあたった。1892年には高性能爆弾の研究を進めていた下瀬雅允に資金を提供し、日露戦争で威力を発揮した下瀬火薬の開発に協力した。
村上 定(むらかみ てい / さだむ、1857年(安政4年)… 村上 定(むらかみ てい / さだむ、1857年(安政4年) - 1932年)は、明治期の実業家・ジャーナリスト。共同火災保険株式会社設立者。三井銀行代表、三井倉庫社長兼支配人、東洋出版協会社長、熊本新聞主幹、神戸又新日報主筆などを歴任した。 安芸国竹原町に広島藩士として生まれる。村上家は代々同地の素封家として仕え、祖父の大井川改築の功により藩主から田地八十町を賜った大家であった。 家督を継いで東上し、大阪の集成中学に学んだ後慶應義塾に転じ、明治13年3月に卒業。直ちに熊本新聞に入社し主幹となる。神風連の乱に際して士族反乱を支持し、自由党系の志士とはかって東肥新聞を起こす。改進新聞、栃木新聞主筆を務め、時の県令・三島通庸の施政方針に反対して16回の発行停止を食らった。
麻田 ゆう子(あさだ ゆうこ、4月5日 - )は広島県出身の… 麻田 ゆう子(あさだ ゆうこ、4月5日 - )は広島県出身の実業家である。 日常会話(方言)は広島弁。
上西 千波(かみにし ちなみ)は、日本のジャズ・ボーカリスト… 上西 千波(かみにし ちなみ)は、日本のジャズ・ボーカリスト、作詞家、ボイストレーナー、実業家。広島県広島市出身。 上西千波は、魅惑的なボーカルと豊かな表現力で知られる日本人女性ジャズシンガー。 彼女は、2001年に広島から東京へ拠点を移し本格的に活動を開始した。その後、ニューヨークを拠点に活動するトップミュージシャンと共に2007年にレコーディングを行い、メジャーデビューを果たし、そのデビューアルバムはスイングジャーナル誌の2007年ジャズ・ディスク大賞ボーカル賞(国内)にノミネートされた。 深く穏やかなピースフルな歌声と華やかなパフォーマンスで、多くのリスナーを魅了している。 さらには平和をテーマにしたコンサートや朗読ライブへの出演、執筆など、幅広い活動を国内外で展開。
松浦 清(まつうら きよし)は、日本の経営者。プレミアアンチ… 松浦 清(まつうら きよし)は、日本の経営者。プレミアアンチエイジング株式会社、創業者・代表取締役社長CEO。 清の父親は、親戚が経営している呉相互銀行(現在は合併されもみじ銀行)に助けられながら広島の老舗宝石商となる。(清自身も、後にニューヨークの宝石鑑定機関GIAにて宝石の学位を取り、ジュエリーの事業を興している。) 地元の名家の跡取として生まれ、裕福な家庭で育ったが、清が12歳の時父親が他界。 広島学院中学校・高等学校から慶應義塾大学経済学部に進んだ。 大学時代親戚の宮崎恭子(俳優養成所無名塾創設者)のところに行き、俳優に興味があるから無名塾を受けたいとお願いした後ニューヨーク大学で演劇の勉強を学んだが、全く才能がないと悟り帰国、AFLACに就職した。