河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉1… 河野 徳之助(こうの とくのすけ、1878年〈明治11年〉10月1日 - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)、商人(米穀商)、山口県多額納税者、下関米穀取引所取引員、日本米穀市場員、実業家。埴生養殖場代表。炭鉱会社吉豊公司取締役。第一証券監査役。族籍は山口県平民。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の三男、同久蔵の弟。彦島の一介の農家の生まれだが、幼い頃から才気縦横、僻村の一農民として終始すべき器でなかった。 小学校を出ると米穀商の前途があることを察知し16歳にして自ら店員に甘んじて下関市江村商店に入った。番頭、支配人と進級する。 26歳の頃独立して米穀仲買店舗を開いた。
河野 久蔵(こうの きゅうぞう、1865年3月21日〈慶應元… 河野 久蔵(こうの きゅうぞう、1865年3月21日〈慶應元年2月24日〉 - 没年不明)は、日本の政治家(下関市会議員)、商人(仲買商)、山口県多額納税者、下関米取引所取引員、家主。 山口県豊浦郡彦島町(現・下関市)出身。河野仁左衛門の二男、同徳之助の兄。父祖の農業を助け傍ら勉学に余念がなかった。幼い頃より大志を懐いて下関市に来て、米穀取引が有望なことを洞察し、あるいは店員となり小僧となり、あらゆる刻苦勉励すること10年、転んでは起き、起きては転び1905年、独立して仲買店を設け以来堅実に精励信用を博した。 数年ならずして仲買人部長となり、組合委員長となり、1909年には下関商業会議所議員に選ばれ、1910年より下関市会議員に選出される事実に4回、1917年には市参事会員の名誉職に挙げられた。
藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保1… 藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日(天保12年5月15日) - 1912年(明治45年)3月30日)は、日本の商人、実業家、華族。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田組(後の藤田財閥、現・DOWAホールディングス)の創始者。男爵。 建設、土木、鉱山、電鉄、電力開発、金融、紡績、新聞などの経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた。また有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家、数寄者としても名高い。号を香雪と称す。現在の山口県萩市出身。元奇兵隊士だとされるが詳細は不詳。 長州藩の萩(現・山口県萩市)で醸造業を営む藤田半右衛門常徳の四男に生まれる。家業は醸造業の他、藩の下級武士に融資を行う掛屋を兼営していた。
白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1… 白石 正一郎(しらいし しょういちろう、文化9年3月7日(1812年4月18日)- 明治13年(1880年)8月31日)は、奇兵隊のスポンサー、長府藩の支藩である清末藩の御用商人。名は資風。通称は駒吉。または熊之助。号は橘円。商人の自由を求めて、家が破滅するまで奇兵隊へ財政支援し明治維新をバックアップした。明治政府より感謝を込めて正五位を贈られた。 文化9年(1812年)、長門国赤間関竹崎に萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(8代目)として生まれた。米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材等を扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝であったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富であった。