鎌田 安里紗(かまだ ありさ、1992年〈平成4年〉7月21… 鎌田 安里紗(かまだ ありさ、1992年〈平成4年〉7月21日 - )は、日本の研究者、社会活動家、一般社団法人unisteps共同代表理事。愛称は、ありちゃん。 2009年から2013年まで4年間、ファッション雑誌『Ranzuki』の専属モデルとして活動。2011年12月号で初の単独表紙を飾った。 同誌で勉強を教える連載を持ちつつ、2011年には慶應義塾大学総合政策学部に現役合格。その後はファッションモデルとして活動しつつ、サステナブルファッション・エシカルファッション・フェアトレード等に関する情報発信を積極的に行う。 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程を経て2018年4月より慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程へ進学。
土居一洋(どい かずひろ、1978年12月14日 - )は、… 土居一洋(どい かずひろ、1978年12月14日 - )は、兵庫県神戸市生まれ、徳島県鳴門市出身の環境運動家、実業家。私設の移動図書館である『じてんしゃ図書館』の元館長。現在は団子屋『ひとえや』店主(詳細は後述)。 ※本人の記憶に基づく情報であるため、報道機関毎に多少の差異がある。 自動車関係の専門学校を中退し、21歳の時に仕事を求めて愛知県に移住。工場の派遣社員などで半田市や豊田市などに移り住み、2003年の秋に岡崎市に落ち着く。岡崎市内で住宅関連企業のサラリーマンとして会社勤めをしていた2004年3月のある日、会社帰りにたまたま立ち寄った豊田市内の書店「ヴィレッジヴァンガード」で『百年の愚行』という本と出合う。
丸岡 修(まるおか おさむ、1950年〈昭和25年〉10月2… 丸岡 修(まるおか おさむ、1950年〈昭和25年〉10月20日 - 2011年〈平成23年〉5月29日)は、日本のテロリスト・新左翼活動家。日本赤軍の元メンバーで軍事部門の最高幹部だった。徳島県出身。ドバイ日航機ハイジャック事件、ダッカ日航機ハイジャック事件一味として国際手配され、1987年に東京で逮捕。 生家は徳島県の大地主で、父親は一家の当主かつ陸軍将校だったが、敗戦後の農地改革で没落し、一家は徳島を離れ、大阪で縫製業に就いていた。その生家の環境及び、小学6年の担任が戦後も軍国主義者であり続けた右翼教師であったため、その強い影響で中学3年まで熱狂的な右翼少年であった。五・一五事件や二・二六事件の青年将校に憧れ、自衛官を志望していたが、大阪府立清水谷高等学校入学後、ベトナム戦争に疑問を持ち、日本民主青年同盟やベ平連の会合に参加し、羽田闘争での京都大学の学生山崎博昭の死に衝撃を受け、高校を卒業後、1970年から大阪浪共闘に参加した。
黒川 征一(くろかわ せいいち、1947年(昭和22年)7月… 黒川 征一(くろかわ せいいち、1947年(昭和22年)7月24日 - )は、日本の政治家、労働運動家。元徳島県三好市長(2期)、元徳島県議会議員(4期)。 1947年7月24日、徳島県三好郡三縄村松尾で、農家の黒川村一・アキヱの三男に生まれる。池田町立出合小学校・中学校、徳島県立池田高等学校を卒業。貧困のため大学進学を諦め就職。 1966年から徳島西部交通、美馬郵便局、池田石油、神戸製鋼所などを遍歴した。1968年から池田町役場に勤務。役場に通いながら通信教育を受け、1973年3月に近畿大学法学部法律学科を卒業。1987年3月に法政大学文学部地理学科を卒業。 1991年から介護保険講師として講演活動も行っている。
黒田 保久二(くろだ ほくじ、1893年〈明治26年〉9月 … 黒田 保久二(くろだ ほくじ、1893年〈明治26年〉9月 - 没年不詳)は、日本の警察官、政治活動家(右翼団体「七生義団」団員)、テロリスト、日雇い労働者。柿原尋常小学校卒。徳島県阿波郡柿島村(現在の阿波市の一部)出身。 黒田種三郎の二男。柿島村に生まれた。種三郎は村会議員であった。小学校での成績は優秀で、旧制中学への進学を勧められたが、家業が傾き進学は叶わなかった。そこで中川菊太郎校長の斡旋で村役場の給仕になったが、1909年(明治42年)、後任の校長になった大塚忠衛に勧められ、二人で朝鮮に渡った。大塚の紹介で雑貨店員となったが、まもなく退職し、各地を転々として人夫などをしていた。門司で運送業者「木村組」(暴力団の木村組とは無関係)の世話になったことで、後年木村組の組織する右翼団体「七生義団」に関わることになる。
生田 花世(いくた はなよ、1888年(明治21年)10月1… 生田 花世(いくた はなよ、1888年(明治21年)10月14日 - 1970年(昭和45年)12月8日)は、作家、詩人、女性解放運動家。82年の生涯のうちの14年間、生田春月と同棲した。 徳島県板野郡泉谷村(現・上板町)で、砂糖や藍玉を製造する旧家・西崎安太郎の長女に生まれた。父は村長も務めたが、家は維新後衰えていた。 1903年(明治36年)(15歳)、県立徳島高等女学校2年に編入し、『明星』誌、『文章世界』誌などに投稿した。美しくない容貌と145cmと身長が低いことに劣等感を持っていた。服装は生涯飾らなかった。上京後は貧しい田舎出身者であることも劣等感となった。 卒業後、教員免許を取得し県職員の教員となり、1906年半田小学校の、翌1907年松島小学校の教員となり、病弱の詩人横瀬夜雨に文通の指導を受けて詩作し、『女子文壇』誌に投稿し、同誌の主筆、河井酔茗にも師事した。
美馬 君田(みま くんでん、1812年(文化9年)- 187… 美馬 君田(みま くんでん、1812年(文化9年)- 1874年)は、幕末の尊攘運動家。 君田本姓は鎌田氏、名は諧、字は和南といい、通称援造・三嶺、号は君田、俳号は土仏・桜水と称した。 文化9年、阿波国美馬郡重清村字谷口(現徳島県美馬市)にて出生。願勝寺44代の住職である。諸国をまわり、のち讃岐(香川県)琴平で日柳燕石や植田有年ら同志とともに尊攘をとなえた。天保14年(1843)病気のため還俗して讃岐の琴平に住んだ。 君田は博学達識の人で和歌・俳句などに優れていたが、とくに知られているのは琴平在住の勤王の志士桂小五郎・高杉晋作・坂本竜馬と交流があり、特に日柳燕石とは「燕石ある処には必ず君田あり、君田の影には常に燕石あり」と言われるほどであった。