末光 弘和(すえみつ ひろかず、1976年1月24日 - )… 末光 弘和(すえみつ ひろかず、1976年1月24日 - )は、愛媛県松山市出身の日本の建築家。末光陽子と共にSUEP.共同主宰。風や熱などのシミュレーション技術を駆使し、自然と建築が共生する新しい有機的建築のデザインを手がけている。主な住宅作品に「向日居」(住まいの環境デザイン・アワード2013グランプリ)「地中の棲処」(第27回吉岡賞)「淡路島の住宅」(2018年度グッドデザイン賞 グッドデザイン金賞(経済産業大臣賞))など。 1976年、愛媛県松山市に生まれる。愛光中学校・高等学校を経て、1999年に東京大学工学部建築学科を卒業後、2001年に東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程を修了。
白川 在(しらかわ ざい、1976年- )は、日本の建築家。… 白川 在(しらかわ ざい、1976年- )は、日本の建築家。 住宅、集合住宅、店舗、など新築、増改築や内装の設計を全般的に行っている。2001年、伊東豊雄建築設計事務所入所。伊東事務所時代、「瞑想の森市営斎場」(岐阜)、「アルミコテージプロジェクト」(静岡)、「オスロウェストヴァーネンコンペ」(オスロ)等を担当。その後、独立。2008年、日本軽金属の蒲原工場内施設「アルミゲートハウス」、商業施設 「EiGHT MiLLiON銀座店」(中央区)を発表。佐藤可士和との協力で話題を呼んだ。弟は僧侶で、作家として「ボクは坊さん。」(ミシマ社)等の著者でもある白川密成である。
吉田 イサム(よしだ いさむ、1937年 - 2009年12… 吉田 イサム(よしだ いさむ、1937年 - 2009年12月19日)は、日本の建築家・カンツォーネ歌手。建築家吉田イサムとアーク・ハイを主宰し、建築作品を残す。東北ハウジングアカデミー副学院長のほか、宮城県建築士事務所協会副会長、仙台市景観条例検討委員会委員などを歴任。愛媛県西条市生まれ。 京都工芸繊維大学工芸学部建築工芸学科を卒業。1974年 吉田イサム事務所開設。のち名称変更。 中新田町文化会館(バッハホール)で、日本建築学会東北支部東北建築賞作品賞部門受賞。そのほか社団法人日本建築士事務所協会連合会建築賞受賞。 おもな作品に、すずき脳神経外科クリニック、ギャラリー杜の音、仙台市片平市民センター 、奥遠刈田温泉竹泉荘、八木山佳養亭、富谷松寿庵 など多数。
浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990… 浅田 孝(あさだ たかし、1921年3月19日 - 1990年12月4日)は、日本の都市計画家・建築家。 香川県出身。戦後活躍する丹下健三の右腕として、丹下の数々の建築作品に関与。他、後に大阪万博を主導することになる建築家・デザイナーグループ「メタボリズム」を結成するなど、多方面で活躍。 南極大陸昭和基地プレファブユニットの設計、横浜市六大事業(みなとみらい21地区の開発、横浜ベイブリッジ構想、港北ニュータウン等)横浜市における都市計画の骨格つくりから、横浜こどもの国、世界デザイン会議、香川県の五色台開発や坂出人工土地、美濃部亮吉東京都知事時代の「広場と青空の東京構想」、大阪万博と沖縄海洋博プロデュース、国レベルの政策研究機関である総合研究開発機構(NIRA)設立、さらに本四連絡橋(瀬戸大橋)を架ける提案をした人物として知られている。
丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日… 丹下 健三(たんげ けんぞう、1913年(大正2年)9月4日 - 2005年(平成17年)3月22日)は、日本の建築家、都市計画家。一級建築士(登録番号第15182号)。位階勲等は従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック信徒(洗礼名:ヨセフ)。 日本では「世界のタンゲ」と言われたように、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。また、日本人並びにアジア人として初めてプリツカー賞を受賞した人物である。
松村 正恒(まつむら まさつね、1913年1月12日 - 1… 松村 正恒(まつむら まさつね、1913年1月12日 - 1993年2月28日)は、愛媛県大洲市出身の日本の建築家である。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
窪田 文治郎(くぼた ぶんじろう、1890年(明治23年)-… 窪田 文治郎(くぼた ぶんじろう、1890年(明治23年)- 1975年(昭和50年))は、社寺建築棟梁、宮大工。 1890年(明治23年)、愛媛県(伊予国)久米郡久米村大字鷹子村(現在の愛媛県松山市鷹子町)に生まれる。先祖代々、社寺建築棟梁の家柄であった。明治末期より父親や、京都の名匠奥谷熊之輔に師事し、多くの設計工法を学んだ。1922年(大正11年)、4年の歳月をかけて四国八十八箇所の49番札所である浄土寺の仁王門を完成。このとき32歳であった。のち、50番札所である繁多寺の本堂・大師堂・山門、45番札所である岩屋寺の本堂・大師堂・山門、南久米町日尾八幡神社の神門・拝殿、また、道後湯神社の拝殿など、数多くの作品を残した。