宇都宮 太郎(うつのみや たろう、1861年4月27日〈文久… 宇都宮 太郎(うつのみや たろう、1861年4月27日〈文久元年3月18日〉- 1922年〈大正11年〉2月15日)は、日本の陸軍軍人。階級は陸軍大将、位階・勲等は正三位勲一等功三級。 イギリス大使館付武官、参謀本部第二部長、第7師団長、第4師団長、三・一運動時の朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任した。桂太郎、仙波太郎と共に「陸軍の三太郎」と呼ばれる。最近15年分の日記を遺族が公開し、2007年(平成19年)4月から11月にかけて出版された。いわゆる「佐賀の左肩党」の盟主で、皇道派の荒木貞夫・真崎甚三郎の庇護者でもあった。子息にミノファーゲン社長・衆議院議員の宇都宮徳馬。 佐賀鍋島藩士、亀川貞一の四男として生まれる。
北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(… 北古賀 竹一郎(きたこが たけいちろう、1858年9月9日(安政5年8月3日)- 1926年(大正15年)8月14日)は、明治時代から大正時代の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 肥前国佐賀郡本庄村(現在の佐賀県佐賀市)において、佐賀藩士の北古賀兵蔵の長男として生まれる。海軍兵学校を卒業し海軍少尉となる。同期に海軍大将となった斎藤実がいる。後に海軍大学校に入学し、卒業後に日清戦争に従軍した。1899年、海軍大佐となり海軍省軍務局兵器課長に就任した。 1906年、呉工廠長となり、1908年に舞鶴工廠長、同年に海軍水雷学校校長兼横須賀水雷団長などとなった。また、駐英造船造兵監督官や艦政本部第1部長、東京造兵廠長なども務めた。
高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4… 高木 英次郎(たかぎ えいじろう、1852年1月8日(嘉永4年12月28日) - 1904年(明治37年)6月2日)は、幕末の佐賀藩士、明治期の海軍軍人。佐賀市水ヶ江出身。最終階級は海軍少将(死後昇進)。栄典は従四位勲三等功四級。 1852年、佐賀藩士高木彌左衛門の第2子として生まれる。藩校弘道館に学んだのち、1865年(慶応元年)佐賀藩の海軍兵学校「船手稽古所」(三重津海軍所の当時における呼称)に入校。戊辰戦争には佐賀藩艦甲子丸の乗員として出征した。1871年(明治4年)燈台寮技術見習を拝命。1874年(明治7年)海軍少尉に任官した。さらに1876年(明治9年)には鳳翔乗員として西南戦争に出征。
古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(184… 古賀 喜三郎(こが きさぶろう、弘化2年11月24日(1845年12月22日)- 大正3年(1914年)12月21日)は、日本の海軍軍人(海軍少佐)、教育者。海城学園の創設者。 肥前国佐賀郡北川副村古賀(現佐賀県)に平尾吉左衛門、よしの次男として生まれ、20石取りの下級武士である古賀家の養子となる。佐賀藩の砲隊司令として奥羽追討の師に加わり、秋田の戦いに功績があって有栖川大総督宮から感状を下賜された。 1891年11月、私財を投じて有栖川宮を始めとする多くの皇族達の賛同を得て海軍予備校、後の海城学園を創設。以降、理事長兼校長として、数多くの将校を育てた。
相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保1… 相浦 紀道(あいのうら のりみち、1841年8月9日〈天保12年6月23日〉- 1911年〈明治44年〉4月1日)は、日本の海軍軍人、政治家、華族。最終階級は海軍中将。官位は従二位勲一等功三級男爵。旧名は忠一郎。 佐賀藩士相浦蕃慎の長男として生れる。藩校・弘道館で学び、佐賀藩海軍に入り、戊辰戦争に従軍。 1869年(明治2年)、「延年艦」副長となり、「長鯨丸」「飛隼丸」の各船長、「日進」乗組などを歴任。1871年(明治4年)、海軍大尉に任官。「摂津艦」「雲揚」「龍驤艦」の各艦長などを歴任。1873年(明治6年)3月、水路寮出仕、水路寮測量課長、海軍兵学校次長などを務めた。 1879年(明治12年)9月、現場に復帰し「筑波」艦長となり、以後、「金剛」「扶桑」の各艦長を経て、1885年(明治18年)12月に海軍少将となる。
巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉… 巌谷 龍一(いわや りゅういち、天保元年12月〈1831年〉 - 1900年〈明治33年〉5月24日)は、日本の裁判官・陸軍軍人。肥前国武雄出身の佐賀県士族。号を玄龍という。巌谷竜一。 天保元年12月(1831年)、肥前国武雄に生まれる。幼少より武雄の医師・清水宗庵に師事して医学を志すが、のちに脱藩して京都へ上り、苦学のかたわら夜陰に按摩や阿呆陀羅経を語って学資を得たという。京都の町で高杉晋作と行き逢って意気投合し、のち長州に赴いて井上馨らと交わり、大村益次郎に蘭語を学んで洋式兵学を研鑽したと伝わる。 幕末に帰郷し、領主鍋島茂昌により身教館の監督と洋式兵術の指南を命ぜられる。戊辰戦争では茂昌に従い、武雄軍団参謀として秋田方面に出征し武雄藩の軍功に寄与した。
朝倉 尚武(あさくら なおたけ、天保13年(1842年) -… 朝倉 尚武(あさくら なおたけ、天保13年(1842年) - 明治7年(1874年)4月13日)は、江戸時代後期(幕末)の佐賀藩士、明治初期の軍人。通称は弾蔵。 天保13年(1842年)、佐賀城下に佐賀藩士の家に生まれる。幼少より藩校弘道館に学び特に兵学に優れた。戊辰戦争では佐賀藩隊の軍監付属や、小隊長として奥羽戦線で活躍している。また戦後は東京遊学を命じられ、昌平黌に入った。 明治4年(1871年)に帰郷すると同年編成された佐賀藩兵一番大隊長に任命され、さらに上京して陸軍少佐を拝命し兵部省に勤めたがほどなく辞職した。その後上京していたが征韓論に伴う明治六年政変により江藤新平、副島種臣などが野に下ると、再度郷里の佐賀に戻った。