剣持 光(けんもち ひかる、1977年2月5日 - )は、… 剣持 光(けんもち ひかる、1977年2月5日 - )は、ものまね芸人、作家、昭和サブカルチャー研究家、昭和歌謡歌手。 独自の出版事業所であるケンケンクリエイトが窓口。かつてはジンセイプロに所属していた。旧芸名:剣持 洸、剣持 光(いずれも「けんもちあきら」と呼んだ)。ニックネームはケンケン。 長崎県佐世保市出身。長崎県立川棚高等学校普通科卒業。日本映画学校(現・日本映画大学)映像科脚本ゼミ卒業。 専門学校卒業後は営業マン、雑誌編集、映像制作などの仕事をしていたが、30代に一度郷里に移り住み、自主映画を製作。 36歳の時、地元ケーブルテレビの営業担当からイベントの司会を依頼され、そのついでにものまねを披露したところ、それが好評だった。
赤瀬浩(あかせ ひろし、1961年- )は、日本の歴史家・長… 赤瀬浩(あかせ ひろし、1961年- )は、日本の歴史家・長崎研究家。 長崎市生まれ。長崎大学教育学部卒業。上越教育大学大学院学校教育研究科修了。長崎県公立学校教諭、長崎市長崎学研究所長を経て、2023年4月より活水女子大学教授。専門は、江戸期長崎の町の歴史研究。市井(まち)の歴史家としてテレビ・ラジオの歴史解説、NBC長崎放送の長崎くんち、長崎精霊流しの解説者。。丸山遊廓について「交易がもたらす富を地元に落とす装置」と形容している。長崎市端島を舞台としたTBS日曜劇場「海に眠るダイヤモンド」などの長崎歴史風俗考証を務める。 『ながさきワンダーランド』長崎新聞2023年7月16日~
中上史行(なかがみ しこう、本名:なかがみ ふみゆき、193… 中上史行(なかがみ しこう、本名:なかがみ ふみゆき、1930年(昭和5年) - 1997年(平成9年)5月5日)は、日本の歴史研究家、元勝本町立勝本小学校校長、長崎県文化財保護指導委員。栄典は正六位・勲五等瑞宝章。長崎県壱岐市出身。
宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 19… 宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 1980年3月16日)は、長崎県島原市生まれの古代史研究家、作家、元会社役員。『まぼろしの邪馬台国』によって日本中に邪馬台国論争を巻き起こした。正確な表記は「宮﨑」(「崎」の字は山偏に竒)であるが「宮﨑」と表記出来ない環境が一部存在するので「宮崎」で通すことが多い。以下本項でも「崎」の字を用いる。
古賀 守(こが まもる、1914年(大正3年)5月9日 - … 古賀 守(こが まもる、1914年(大正3年)5月9日 - 2003年(平成15年)4月28日)は、日本のワイン研究家。日本におけるドイツワインの権威。 長崎県佐世保市出身。生家は醸造家。東京農業大学農芸化学科を卒業後、1936年から1945年にドイツ遊学。ハイデルベルク、ライプツィヒ、ベルリンの大学で学んだ。 メッセで日本代表としてゲッベルス宣伝相の隣に座った経験も持つ。ベルリンにてドイツの敗戦を体験、捕虜交換のシベリア鉄道で帰国後、故郷近郊から長崎の原爆雲を目撃、日本の終戦も経験する。一時高校教諭を務めた後、カメラのライカ、医薬のメルクの日本輸入総代理店であったシュミット商会に入社、井上鍾社長の下、薬品部長から、初代ワイン部長となった。
真鍋 儀十(眞鍋 儀十、まなべ ぎじゅう、1891年(明治2… 真鍋 儀十(眞鍋 儀十、まなべ ぎじゅう、1891年(明治24年)9月16日 - 1982年(昭和57年)4月29日)は日本の政治家、俳人、文学研究家。松尾芭蕉の研究家として知られ、そのコレクションは江東区芭蕉記念館に寄付された。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人。俳号は蟻十。 長崎県壱岐郡箱崎村(現壱岐市芦辺町)生まれ。長崎師範学校(現・長崎大学教育学部)を卒業後明治大学法学部に入学し、雄弁部に所属する。在学中から普選運動にかかわり、1920年(大正9年)1月18日の学生普選促進大会(日比谷公園)で検挙された。 明大中退後憲政会に入党。六十数回の拘禁を受けながら1930年(昭和5年)旧東京4区から立憲民政党公認で第17回衆議院議員総選挙に立候補し初当選、戦前は通算5回の当選を果たす。
堀川 安市(ほりかわ やすいち、1884年(明治17年)3月… 堀川 安市(ほりかわ やすいち、1884年(明治17年)3月28日 - 1981年(昭和56年)1月8日)は、日本・台湾の教員・自然史研究家。教員として各地を転々とした中で自然史・理科教育の研究で功績を残した。特に1917年(大正6年)-1947年(昭和22年)の30年間を台湾・台北市で過ごし、その間に台湾の自然史研究で多数の報告・執筆を行った。 明治17年(1884年)3月28日、長崎県西彼杵郡雪浦村(現・西海市大瀬戸町雪浦地区)の農家の長男として生まれたが、幼い頃から動植物への興味関心が高かった。雪浦尋常小学校補習科(現・西海市立雪浦小学校)修了後は農業をしていたが、学問の道を志して20歳にして佐賀県立農学校(現・佐賀県立佐賀農業高等学校)へ進んだ。