是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万… 是永 歳太郎(これなが としたろう、1860年2月15日(万延元年1月24日)- 1920年(大正9年)12月29日)は、明治から大正前期の警察官、農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県西国東郡高田町長。名・直房、通称・歳太郎。 豊後国国東郡、のちの大分県西国東郡高田町(現豊後高田市)で、副里正の家に生まれる。漢学を修めた。 1877年(明治10年)西南戦争後に警察官となり、大分警察署(現大分中央警察署)勤務、鶴崎葉派出所詰を務めて退職。故郷の高田で書籍・文具商を経営。当時の高田警察署(現豊後高田警察署)長・赤鉾文太郎の勧誘で同署書記を務めた。 1889年(明治22年)町村制施行により高田町が発足し、同年6月、初代町長となり1899年(明治32年)8月まで在任。
宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年1… 宮村 三多(みやむら さんた、1857年1月1日(安政3年12月6日)- 1908年(明治41年)2月2日)は、明治期の教育者、実業家、政治家。衆議院議員。 豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡中津町(現中津市)で生まれる。藩儒・橋本塩巌に師事し漢籍を修めた。さらに中津市学校で英学、数学、法学、経済学を学んだ。千葉県中学校(現千葉県立千葉中学校・高等学校)助教諭を経て、同県成田英漢義塾(現成田高等学校・付属中学校)長に就任した。 帰郷して1877年(明治10年)亦一社を設立して自由民権運動に加わり、1879年(明治12年)国会開設請願運動を展開し、翌年元老院に提出した。亦一社の解散後、大分県下毛郡視学に就任。
大塚 幸兵衛(幸兵衞、おおつか こうべえ、1857年(安政4… 大塚 幸兵衛(幸兵衞、おおつか こうべえ、1857年(安政4年 7月)- 1910年(明治43年)1月12日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員。 豊後国海部郡、のちの大分県北海部郡臼杵町平清水(現臼杵市福良平清水)で商家に生まれた。漢学、数学を修めた。家業を継承し、商才に恵まれ、たばこ製造、米相場で多額の財産を得た。 大分郡会議員、臼杵町会議員、大分県勧業諮問会委員などを務めた。1898年(明治31年)3月の第5回衆議院議員総選挙(大分県第2区、山下倶楽部)で豊州会から選挙活動を行う予定であったが、改進派との話し合いで活動を停止したが、改進派の違約により投票日前日一日だけの選挙活動で当選し、「大塚の一日選挙」と称された。
清末 新郎治(きよすえ しんろうじ、1855年(安政2年5月… 清末 新郎治(きよすえ しんろうじ、1855年(安政2年5月) - 1928年(昭和3年)9月17日)は、明治から昭和時代初期の政治家、銀行家、実業家。貴族院多額納税者議員。 肥前島原藩領国東郡高田村(大分県西国東郡高田町、豊後高田町を経て現豊後高田市)に生まれる。1880年(明治13年)高田村会議員に就任したのを皮切りに、西国東郡会議員、同参事会員、同高田郵便電信局長、大分県木蝋業組合長、西国東郡農会長などを歴任する。ほか、実業家として共立高田銀行頭取、豊州製蝋社長、宇佐参宮鉄道取締役などを務めた。 1918年(大正7年)大分県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年7月20日から同年9月28日まで在任した。
中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈… 中上川 彦次郎(なかみがわ ひこじろう、嘉永7年8月13日〈1854年10月4日〉 - 1901年〈明治34年〉10月7日)は、明治時代の官吏、実業家、ジャーナリスト。三井財閥の工業化と三井銀行の不良債権処理を推進し、三井家の最高議決機関である「三井家同族会」を設置。「三井中興の祖」として高く評価されている。従五位。三井合名理事長。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。名字の読みは「なかかみがわ」とされたものもあるが、正しくは「なかみがわ」である。 現在の大分県中津市金谷森ノ丁に豊前中津藩士・中上川才蔵・婉夫妻の長男として生まれる。婉は福澤百助の娘で、諭吉の姉にあたる。
佐藤 庫喜(さとう くらき、1854年7月5日(安政元年6月… 佐藤 庫喜(さとう くらき、1854年7月5日(安政元年6月11日)- 1921年(大正10年)7月17日)は、明治から大正期の農業経営者、政治家。衆議院議員、大分県大分郡谷村長。 豊後国大分郡、のちの大分県大分郡谷村(挾間村、挾間町を経て現由布市挾間町)で、佐藤運喜の長男として生まれる。1867年(慶応3年)熊本藩英式練兵小隊長となる。1872年(明治5年9月)家督を相続した。農業を営む。 1873年(明治6年)保長、1876年(明治9年)戸長に就任。1889年(明治22年)町村制施行により誕生した谷村の初代村長となり1893年(明治26年)まで在任。1901年(明治34年)4代谷村長に再任され1903年(明治36年)まで務めた。
箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7… 箕浦 勝人(みのうら かつんど、1854年3月13日〈嘉永7年2月15日〉- 1929年〈昭和4年〉8月30日)は、日本の新聞記者、実業家、政治家。 豊後国臼杵で、臼杵藩の武道師範の実相寺常之丞の次男として生まれる。15歳で藩士箕浦又生の養子となる。慶應義塾出身で福澤諭吉の弟子。福澤諭吉の子孫の家庭教師を担当した。1880年(明治13年)、神戸新報(慶応義塾―交詢社系の新聞)を主筆(兵神交詢社会員、神戸商法講習所所長)として、社主安倍清誠五郎、代表三木善八(のち『郵便報知新聞』社主)、主幹鹿島 秀麿(のち兵庫県会議員をへて改進党系代議士)等と共に、創刊に関わった。郵便報知新聞社に入社し、新聞記者の後、社長となる。
野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日… 野依 範治(のより はんじ、旧姓・朝吹、1854年1月29日(安政元年1月1日) - 1917年(大正6年)12月23日)は、日本の会社役員。多久鉱業、古賀山炭坑各取締役。族籍は福岡県平民。 豊前国下毛郡宮園村(現・大分県中津市耶馬溪町大字宮園)出身。朝吹泰蔵の三男。1864年に野依半七郎の養子となり、1877年に家督を相続する。会社の重役である。住所は佐賀市西田代町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
山口 半七(やまぐち はんしち、1853年2月14日(嘉永6… 山口 半七(やまぐち はんしち、1853年2月14日(嘉永6年1月7日)- 1932年(昭和7年)6月9日)は、明治期の実業家、政治家。初名は克己。 豊前国下毛郡中津(現大分県中津市)で、中津藩士・山口広江、デンの長男として生まれた。中津藩儒に学び、1869年(明治2年)慶應義塾に入る。 1873年(明治6年)朝吹英二らと慶應義塾出版局を設立。1874年(明治7年)出版局支店を山口県豊浦郡赤間関(現下関市)に設け、その他呉服店を経営した。1877年(明治10年)西南戦争勃発により戦火に巻き込まれることを恐れで帰郷した。同年、田舎新聞、鶴屋商会の経営に参画。1882年(明治15年)豊州立憲改進党の創立発起人となり、大分県会議員、同常置委員、県会議長を務めた。
朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年… 朝吹 英二(あさぶき えいじ、嘉永2年2月18日(1849年3月12日) - 大正7年(1918年)1月31日)は、日本の実業家。王子製紙取締役会長。幼名は萬吉、鐵之助。族籍は大分県平民。短期だが三井財閥のトップである三井合名会社理事長を務めたこともある。 三越社長、帝国生命保険社長を務め、千代田組を創業した朝吹常吉は息子。マリンバ奏者の朝吹英一、フランス文学者の朝吹三吉と翻訳家の朝吹登水子は孫であり(ともに常吉の子)、フランス文学者、詩人の朝吹亮二は曾孫。弟・野依範治の曾孫が2001年、ノーベル化学賞を受賞した野依良治である。中上川彦次郎は義兄にあたる。2011年度、第144回芥川賞受賞者の作家朝吹真理子は玄孫である。
黒川 文哲(くろかわ ぶんてつ、嘉永元年11月3日(1848… 黒川 文哲(くろかわ ぶんてつ、嘉永元年11月3日(1848年11月28日) - 1916年(大正5年)11月4日)は、豊後国直入郡竹田(現・大分県竹田市)出身の医師・政治家・実業家。大分の町、郡会議員、県会副議長を務めるとともに、竹田中学校や竹田駅、黒川文庫(現在の竹田市立図書館の前身)の設立に尽力する。 嘉永元年11月(西暦1848年11)、直入郡竹田(現・大分県竹田市)に黒川正章の嫡男として生まれた。黒川家は18世紀前半から続く医家(藩医)であり、文哲は黒川家の9代目に当たる。 岡藩(竹田藩)の藩校である由学館に学び、元治元年(1864年)には外科医の佐久間純徳に師事した。明治元年12月(1869年1月)には医学修行のために上京を命じられ、明治2年4月(1869年)に東京の岡藩御屋敷に入った。
橋本 雄造(はしもと ゆうぞう、1848年11月5日(嘉永元… 橋本 雄造(はしもと ゆうぞう、1848年11月5日(嘉永元年10月10日) - 1916年(大正5年)9月24日)は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。 豊前国下毛郡、のちの大分県下毛郡三保村(現中津市)で、橋本又右衛門の二男として生まれる。1872年(明治5年)長崎に移り外国貿易業に従事。運輸業も営む。商号は中津屋。 1894年(明治27年)長崎県会議員に選出され、長崎市会議員、長崎商業会議所議員も務めた。1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙に長崎県長崎市から無所属で出馬して当選し、衆議院議員に1期在任。 1904年(明治37年)6月、長崎県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日から1911年(明治44年)9月28日まで1期在任した。
荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘… 荘田 平五郎(しょうだ へいごろう、1847年11月8日(弘化4年10月1日) - 1922年(大正11年)4月30日)は、豊後国臼杵藩出身の明治・大正期の三菱財閥の実業家・教育者。 長崎造船所第2代所長、三菱造船所支配人等を経て、三菱合資会社理事長、日本郵船社長、会長、東京海上火災保険会社会長等三菱の要職を歴任して大番頭といわれた。海員掖済会や日本勧業銀行、満鉄等の創立にも携わり、三菱商業学校(明治義塾)校長、三菱工業予備学校所長として三菱社員の教育にあたった。勲四等旭日小綬章、賜・銀杯一組。 弘化4年(1847年)、豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)に、百石の世禄を食む臼杵藩士の儒者・荘田雅太郎允命の長男として生まれる。
福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1… 福澤 英之助(ふくざわ えいのすけ、新字体:福沢 英之助、1847年 - 1900年)は、日本の教育者、実業家。中津藩士で、旧名は和田慎二郎(慎次郎)。江戸幕府によるイギリス留学(慶応二年幕府イギリス留学生)の際に福澤諭吉により福澤姓に改められて名を英之助とし、諭吉の実弟ではないが対外的に弟となった。東京・築地に童蒙学舎を設けたほか、横浜で貿易商を営んだ。 豊前国中津藩(現在の大分県中津市)出身。旧名は和田慎二郎(慎次郎)で、兄の和田克太郎と2人兄弟。 1863年(文久3年)初夏に慶應義塾(鉄砲洲時代)に入塾。また、文久2年4月から慶應2年10月まで福澤諭吉に従い、地理書究理書などを研究したとある。
水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年… 水之江 浩(みずのえ ひろし、1845年6月29日(弘化2年5月25日)- 1922年(大正11年)4月11日)は、明治期の地主、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓・佐藤。 豊前国宇佐郡日足村(大分県宇佐郡北馬城村、宇佐町を経て現宇佐市)に佐藤継信(楽山)の五男として生まれ、1856年6月(安政3年5月)に宇佐郡水崎村(宇佐郡封戸村を経て現豊後高田市)の素封家・水之江家43代・久衛(号・奇峰)の婿養子となる。1871年(明治4年7月)家督を相続した。 家業の製塩業を営む。養父の遺志を継いで溜池の築造を継続して耕地の拡大に尽力。また、小学校校舎の建築、道路・橋梁の整備などにも多額の寄付を行った。
朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(… 朝倉 親為(親爲、あさくら ちかため、1843年7月12日(天保14年6月15日)– 1901年(明治34年)5月9日)は、幕末の岡藩士、明治期の公吏・政治家・実業家。衆議院議員。 豊後国直入郡下木村(大分県直入郡会々村、豊岡村、竹田町、豊岡村(第二次)を経て現竹田市)で、岡藩士・朝倉親安の長男として生まれる。吟味見習を経て1865年(慶応元年)地方吟味役兼山林奉行となる。1869年(明治2年)岡藩租税司に就任。さらに郡尹補助、郡宰介、神社執事、刑法局管事、副検地司、山林司、少属などを務めた。廃藩置県により岡県が設置され、さらに大分県となり従前の事務取扱に任じられ、1872年(明治5年)大分県十四等出仕となる。
南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年5月22… 南 一郎平(みなみ いちろべえ、1836年(天保7年5月22日) - 1919年(大正8年)5月13日)は、日本の建設事業者、建設指導者、実業家である。晩年は南 尚(みなみ ひさし)と改名した。豊前国宇佐郡金屋(現・大分県宇佐市)出身。 幕末から明治にかけて、大分県の広瀬井手(広瀬井路)、高森水路を開発。その後明治政府の水利開墾事業に従事し、全国の水利土木工事にあたった。とくに日本三大疏水とされる安積疏水(福島県)、琵琶湖疏水(滋賀県 ‐ 京都府)、那須疏水(栃木県)の開発や月居トンネル工事(茨城県)に取り組んでいる。疏水工事のなかで、特にトンネル工事で経験を積み、この経験を生かして、後にトンネル工事を専門とする「現業社」を創設した。
佐藤 国彦(國彦、さとう くにひこ、1828年7月19日(文… 佐藤 国彦(國彦、さとう くにひこ、1828年7月19日(文政11年6月8日)- 1911年(明治44年)2月19日)は、明治期の農業経営者、政治家。貴族院多額納税者議員。 豊前国宇佐郡、のちの大分県宇佐郡北馬城村(宇佐町を経て現宇佐市)で、佐藤楽山の長男として生まれる。1843年7月5日(天保14年6月8日)父の隠居に伴い家督を相続し農業を営む。 1874年(明治7年)第6小区戸長に就任し1878年(明治11年)まで在任。1884年(明治17年)大分県岩崎村ほか九カ村戸長となった。 1899年(明治32年)6月4日、大分県多額納税者として貴族院多額納税者議員補欠選挙で互選され、同年7月3日に就任し、1904年(明治37年)9月28日まで1期在任した。
油布賢一(ゆふ けんいち、 - )は、日本の音楽プロデューサ… 油布賢一(ゆふ けんいち、 - )は、日本の音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、編曲家、トラックメイカー、マニピュレーター、レコーディング・エンジニア、A&R、実業家。 音楽との出会いは、幼稚園時にピアノを習い、大学時代テニスコーチをしながらギターを始めたこと。 卒業後、Apple製MacとMTRを購入してDTMで作曲活動を開始。名古屋アポロシアター(現アポロベース)で週1ライブをはじめた。影響を受けたアーティストはビートルズ、U2、OASIS、STING、ボン・ジョヴィで、中学・高校時代はオーディオマニアだった。 自身の作曲の転調や展開術に関してはエクシング(ジョイサウンド)制作部で耳コピの仕事にしていく内にカラオケで人気のある曲の方程式を見つけ出した。
漆間 啓 (うるま けい) は、日本の実業家である。三菱電機… 漆間 啓 (うるま けい) は、日本の実業家である。三菱電機取締役代表執行役社長CEO。電子情報技術産業協会(JEITA)会長。 大分県出身。大分県立大分上野丘高等学校を経て1982年に早稲田大学商学部を卒業し、三菱電機へ入社する。 2006年FAシステム業務部長、2010年国際部次長、2015年常務執行役、2018年専務執行役、2021年取締役代表執行役社長CEO。品質不正で役員報酬減額処分を受けた。
倉原 直美(くらはら なおみ、19??年 - )は、日本の工… 倉原 直美(くらはら なおみ、19??年 - )は、日本の工学者、実業家。株式会社インフォステラの創業者、代表取締役CEO。 大分県立竹田高等学校出身。2010年、九州工業大学大学院博士後期課程を修了(電気電子工学専攻)。在学中は人工衛星の環境計測装置の研究開発に従事。博士前期課程1年次に衛星設計コンテストで奨励賞を受賞。2年次にJAXA宇宙科学研究所で1年間研究。博士後期課程2年次にはイギリスのサリー大学サリー宇宙センターへ留学。その後、東京大学工学系研究科航空宇宙工学専攻の特任研究員として、2013年まで低軌道衛星の開発プロジェクトに携わる。プロジェクト終了後、民間の衛生運用システムメーカーの最大手、米Kratos Integral Systems Internationalの日本チームで国内および海外の複数の商用静止衛星プロジェクトに携わる。
重松 重治(しげまつ じゅうじ、(1870年12月24日〈明… 重松 重治(しげまつ じゅうじ、(1870年12月24日〈明治3年11月3日〉 – 1943年〈昭和18年〉2月4日)は、明治後期から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。 豊前国宇佐郡江島村(大分県宇佐郡江須賀村、柳ヶ浦村、柳ヶ浦町、長洲町を経て現宇佐市)で、重松和七郎の長男として生まれる。中津の漢学塾で学び、その後、同志社に進んだが一年で中退した。1897年(明治30年)家督を相続。 帰郷して柳ヶ浦村会議員、宇佐郡会議員となる。1911年(明治44年)大分県会議員に選出された。1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙で大分県第7区から憲政会所属で出馬して当選し、以後、第20回総選挙まで連続7回の当選を果たした。
寺崎 源(てらさき げん)は大分県出身のD1グランプリに参戦… 寺崎 源(てらさき げん)は大分県出身のD1グランプリに参戦していたレーシングドライバー、自動車整備・販売・チューニングショップ経営者。ニックネームは「源さん(げんさん)」。 大分県大分市出身。同市内で1996年にチューニングショップのG.T WORKSを創業。チューニングカーやモータースポーツ参戦車両の製作・メンテナンスを手掛け始める。 D1グランプリには初年度となる2001年からトヨタ・カローラレビン(AE86)で参戦。2002年・2003年には準優勝を一度ずつ経験している。 2004年からはオートバックスセコハン市場をスポンサーに迎え、「セコハン with G.T WORKS」チームとしてD1に参戦。
谷 謹一郎(たに きんいちろう)は、明治時代の大蔵官僚、実業… 谷 謹一郎(たに きんいちろう)は、明治時代の大蔵官僚、実業家。幕末に豊後佐伯藩に生まれ、維新後大蔵省に出仕、松方正義秘書を務めた後、民間に下り、日本生命保険取締役、日本勧業銀行理事、富士製紙常務取締役、川崎造船所常務取締役、東海生命社長等を務めた。 嘉永元年(1848年)8月23日、豊後佐伯藩士泥谷永祚の長男として生まれた。7歳で藩校四教堂に入学し、10歳で秋月橘門に句読を学んだ。明治2年(1869年)橘門に従い東京に上り、慶應義塾で英語を学んだ。上京後、泥谷(ひじや)姓を改め、谷姓を称した。 松方正義が九州を巡回した際に知遇を得、明治4年(1871年)内務省、大蔵省に出仕した。1875年(明治8年)大阪造幣局に勤務した後、1877年(明治10年)帰京し、大蔵大臣秘書官、総理大臣秘書官等を歴任した。