高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7… 高崎 親章(たかさき ちかあき/しんしょう、1853年6月7日(嘉永6年5月1日) - 1920年(大正9年)12月27日)は、日本の江戸~大正時代の武士(鹿児島藩士)・警察官(警察官僚)・政治家。貴族院議員。幼名は半十郎。 薩摩国日置郡市来郷の湊町(鹿児島県日置郡西市来村、市来町を経て現いちき串木野市内)生まれ。高崎親廣の長男。内務省警視庁に入庁。初任は警部補。1876年(明治9年)、同郷の同僚である中原尚雄らと共に、墓参のため帰郷した。実際は、下野していた西郷隆盛の実情を視察するため川路利良大警視の密命を受けたものであった。ところが、西郷の私学校から武器・弾薬を勝手に持ち出したため、私学校の生徒らに捕らえられた。
末弘 直方(すえひろ なおかた、1848年1月30日(弘化4… 末弘 直方(すえひろ なおかた、1848年1月30日(弘化4年12月25日) - 1920年(大正9年)1月16日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の内務・警察官僚。官選県知事、函館区長、小倉市長、福岡県八幡市長。 薩摩国薩摩郡平佐郷平佐村(現薩摩川内市平佐町)で、薩摩藩士・末弘直温の三男として生まれる。藩校造士館で学んだ。 慶応3年9月10日(1867年10月7日)、薩摩藩組頭に就任。その後、役人、半隊長を務めた。明治4年8月(1871年)、御親兵の補充として上京し第三大隊一番小隊に編入され、明治5年8月10日(1872年9月12日)、伍長に任官。1873年10月、病のため除隊して帰郷した。同年11月、鹿児島県に奉職し、二等教授第二十八郷校掛となる。
河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1… 河島 醇(かわしま あつし / じゅん、弘化4年3月6日(1847年4月20日) - 明治44年(1911年)4月28日)は、幕末から明治時代に活躍した武士(薩摩藩士)、官僚、政治家。衆議院議員、貴族院議員。幼名・新之丞。 薩摩藩士・河島新五郎長寛の長男として鹿児島長田町に生まれる。藩校造士館で学ぶ。戊辰戦争に従軍。明治2年(1869年)、昌平学校に入り、さらに川田甕江塾で学び、明治3年12月(1871年1-2月)にドイツへ留学し、ローレンツ・フォン・シュタインに学ぶ。 明治7年(1874年)3月に帰国。同年8月、外務省に入り八等出仕となる。9月、一等書記生に発令され、ドイツ公使館在勤を命ぜられた。
中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12… 中村 博愛(なかむら ひろなり / ひろやす、天保14年12月29日〈1844年2月17日〉 - 1902年〈明治35年〉10月30日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の外交官・官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。旧名・宗見、変名・吉野清左衛門。 根占郷の麓集落(現鹿児島県肝属郡南大隅町根占川北)生まれ。薩摩藩士の家に生まれる。長崎の長崎養生所でオランダ軍医・アントニウス・ボードウィンから医学を学ぶ。帰藩し開成所で英学を学ぶ。薩摩藩第一次英国留学生に選ばれ、元治2年3月22日(1865年4月17日)吉野清左衛門と変名して鹿児島から密出国し、イギリスで化学を学ぶ。慶応2年1月(1866年)シャルル・ド・モンブラン伯爵の勧めで田中静洲と共にフランスへ留学。
小牧 昌業(こまき まさなり / しょうぎょう、1843年1… 小牧 昌業(こまき まさなり / しょうぎょう、1843年10月5日(天保14年9月12日)- 1922年(大正11年)10月25日)は、幕末から大正期の薩摩藩士、漢学者、官僚、政治家。内閣書記官長、官選県知事、貴族院議員。学位は、文学博士。幼名・善次郎、字・偉卿、号・桜泉。 大隅国大隅郡田代郷大禰田村(鹿児島県南大隅郡田代村、肝属郡田代村、田代町を経て現錦江町)で、薩摩藩士・小牧良助の二男として生まれた。江戸で塩谷宕陰に学び、藩校造士館の教員を務めた。 1869年(明治2年)議政官史官試補に就任し、小史、権大史を歴任。その後、官僚として黒田清隆に仕え、開拓幹事、文部大臣秘書官、内閣総理大臣秘書官、内閣書記官長などを歴任。
大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈18… 大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日〈1830年9月26日〉- 明治11年〈1878年〉5月14日)は、日本の政治家、武士(旧薩摩藩士)。幼名は正袈裟、通称は正助、一蔵、諱は利済、のち利通、号は甲東。位階・勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称され、「維新の十傑」のひとりでもある。初代内務卿で、内閣制度発足前の日本国政府(太政官)の実質的・事実上の初の日本の首相。 文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現:鹿児島県鹿児島市高麗町)に、薩摩藩士・大久保利世と福の間に長男として生まれる。幼名は正袈裟(しょうけさ)。
安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月… 安藤 則命(あんどう そくめい / のりみち、1828年4月19日(文政11年3月6日) - 1909年(明治42年)11月23日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の警察官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、錦鶏間祗候。通称・十郎。従三位勲一等。 薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・安藤十郎の息子として生まれる。英学を修めて子弟に教授した。 明治維新後、新政府に出仕し、明治元年10月2日(1868年11月15日)東京府市中取締隊長に就任。以後、東京府監察、同大属、兼同第二大区総長、同第一大区総長、同権典事、同典事、同邏卒総長、警保助、司法中検事、権大警視、大警視、中警視、権中警視などを歴任。西南戦争に際し、新撰旅団の編成に尽力した。
岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月… 岩下 方平(いわした みちひら / ほうへい、文政10年3月15日(1827年4月10日) - 明治33年(1900年)8月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。勲一等子爵。通称は左次右衛門、左二。 文政10年(1827年)、薩摩藩士・岩下亘の長男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれる。その後、岩下典膳道格の養子となる。安政3年(1856年)、相良長基の紹介により30歳で平田銕胤の国学塾気吹舎の門人となった。 安政5年より始まる安政の大獄では、江戸において水戸浪士と結託して幕政打開を図ったが、挫折して帰藩する。安政6年(1859年)11月、精忠組に参加。文久2年(1862年)、伏見において銕胤嫡男平田延胤と面会し、島津久光挙兵上京の目的や寺田屋騒動の顛末について延胤に報告した。
大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8… 大迫 貞清(おおさこ さだきよ、1825年6月22日(文政8年5月7日) - 1896年(明治29年)4月27日)は、幕末の薩摩藩士、明治の官僚・政治家。元老院議官、貴族院議員、子爵。 薩摩国鹿児島城下平之町に薩摩藩士・山之内立幹の四男として生まれ、大迫貞邦の養子となる。万延元年(1860年)から京都警備に従事。戊辰戦争では、二番遊撃隊隊長、そして東山道先鋒総督本営付として従軍した。 明治に入り薩摩藩の藩政改革に参政、権大参事として取り組む。明治5年(1872年)に陸軍少佐に任官し、中佐まで進み第1経営部司令官に就任。1874年(明治7年)1月に静岡県令に転じ、以後、文官として歩んだ。 1883年(明治16年)12月、警視総監に就任し、1885年(明治18年)12月、元老院議官を兼務した。
高崎 親廣(たかさき ちかひろ、1819年(文政2年) - … 高崎 親廣(たかさき ちかひろ、1819年(文政2年) - 1877年(明治10年)6月26日)は、日本の武士(鹿児島藩士)。高崎親広。通称は九郎左衛門。長男に高崎親章。薩摩国(鹿児島県)日置郡市来郷出身。 藩校造士館で学び、1839年(天保10年)には大坂留守居の高崎金之進に従い上坂。京都・大坂で遊学した。帰藩後八田知紀に国学・和歌を学んだ後、市来郷で学舎を開いて子弟を教育した。 尊皇家で、毎朝皇居の方角を向いて遙拝し、決してその方角に足を向けて寝ることはなかった。しかし幕末の討幕運動は、故郷を離れられず、もっぱら子の親章に託していたという。1863年、薩英戦争に藩士として参戦。 明治維新後も故郷を離れなかったが、新政府への忠誠心は厚かった。
有馬 休八(ありま きゅうはち)は幕末の薩摩藩士。海軍大主計… 有馬 休八(ありま きゅうはち)は幕末の薩摩藩士。海軍大主計兼提督府大主典。 上荒田の白石家次男休八として出生。後に御小姓与有馬家の養子となり、海軍省出仕後は純清と名乗る。川村純義の従兄弟。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士… 伊地知 正治(いじち まさはる / しょうじ)は、日本の武士(薩摩藩士)、官僚、政治家、華族。諱は季靖。通称は龍右衛門、後に正治。正三位勲一等伯爵。家紋は宝結び。 戊辰戦争の白河口の戦いでは、わずか700の兵で、4倍弱にあたる2500名の幕府軍を撃破したことなどにより、「類いまれな軍略家」などという異名がある。また、片眼と片脚が不自由がなのにも関わらず新政府軍参謀として活躍したことにより、「薩摩の山本勘助 」などという異名もある。 薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる。幼名は竜駒。3歳の時に文字を読んで「千石の神童」と呼ばれるが、幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。
池上 四郎(いけのうえ しろう、天保13年(1842年) -… 池上 四郎(いけのうえ しろう、天保13年(1842年) - 明治10年(1877年)9月24日)は、幕末の薩摩藩士、明治時代初期の軍人である。名は貞固、通称は四郎左衛門というが、明治になってからは四郎と称した。 鹿児島城下の樋之口通町(現鹿児島市加治屋町16番街区、旧地番175番地)で薩摩藩侍医・池上貞斎の第一子として生まれる。家業を継ぐべく家庭で教育を受けたが、医術を好まず、西郷隆盛(吉之助)・伊地知正治の教導を受け、勤王の志を抱いた。 安政の大獄(1858年)の前頃、藩主・島津斉彬の命によって江戸に遊学し、時々天下の情勢を藩主に報告した。薩英戦争(1863年)のときはスイカ売り決死隊に志願して英艦に切り込もうとしたが失敗、大門口砲台で英艦を撃退した。
久木村 治休(くきむら じきゅう、天保14年〈1843年〉1… 久木村 治休(くきむら じきゅう、天保14年〈1843年〉10月 – 昭和12年〈1937年〉10月20日)は、薩摩藩出身の武士、のち警察官・軍人(陸軍少佐)。生麦事件でイギリス人チャールス・リチャードソンを殺傷した。 大隅国国分郷浜之市(現霧島市)の人。山本勇右衛門の三男として生まれた。山元定蔵の弟で、のち久木村家へ入った。 文久2年(1862年)、島津久光の東上に従い江戸へ向かい、その帰途、生麦村で奈良原繁らとともに外国人を殺傷した(生麦事件)。鉄砲隊に属していた治休は、一太刀を浴びせたと伝えられる。 昭和11年に雑誌『話』へ寄せた本人の回想によれば、当時外国人4名は行列を避けながら徐行しており「踏み込み」の事実はなく、後方で既に斬られて負傷した者が自分の前を通過しようとしたため、とっさに横一文字に斬りつけたという。