知念 覚(ちねん さとる、1963年〈昭和38年〉9月19日… 知念 覚(ちねん さとる、1963年〈昭和38年〉9月19日 - )は、日本の地方公務員、政治家。沖縄県那覇市長(1期)。 1963年(昭和38年)、那覇市首里山川町生まれ。那覇市立城西小学校、那覇市立首里中学校、沖縄県立首里高等学校を経て、沖縄大学第2部法経学部法学科卒業。 1985年(昭和60年)、那覇市役所に就職。2000年(平成12年)、当時の那覇市長・翁長雄志により秘書に任命された。2010年(平成22年)から総務部長、2015年(平成27年)に副市長就任。 2022年城間幹子の引退に伴い実施される那覇市長選挙に無所属で立候補する意向を表明し、自由民主党・公明党からの推薦と城間市長から支持を受けた。
謝花 喜一郎(じゃはな きいちろう、1957年〈昭和32年〉… 謝花 喜一郎(じゃはな きいちろう、1957年〈昭和32年〉- )は、日本の地方公務員。沖縄県信用保証協会会長。沖縄県職員として、沖縄県企画部長、県知事公室長を歴任し、2018年4月から沖縄県副知事を務めた。同年8月には翁長雄志県知事の体調悪化に伴い、一時的に県知事職務代理者を務めた。 1957年生まれ、今帰仁村出身。琉球大学卒業。 2012年より沖縄県企画部長。企画部長時代は沖縄21世紀ビジョン基本計画の策定や沖縄振興一括交付金の創設など沖縄振興施策に携わり、国との交渉を担当した。2016年より事務方トップの県知事公室長に就任し、同年6月には今後、沖縄県にて在日アメリカ軍絡みの事件や事故が発生した際には沖縄県からは抗議に出向かない方針を国に伝え、政府やアメリカ側が沖縄県に説明に来るよう要求した。
川上 好久 (かわかみ よしひさ、1954年2月 - )は、… 川上 好久 (かわかみ よしひさ、1954年2月 - )は、日本の地方公務員。沖縄県副知事を経て、沖縄県庁出身者として初めて沖縄振興開発金融公庫理事長に就任した。 沖縄県名護市出身。1972年沖縄県立名護高等学校卒業。1977年大阪大学経済学部卒業後、沖縄県庁入庁。2009年沖縄県企画部長。2012年沖縄県総務部長。2013年沖縄県副知事。2014年辞任。2015年沖縄振興開発金融公庫理事。2016年、島尻安伊子内閣府特命担当大臣(沖縄及び北方対策担当)に評価され、沖縄県庁出身者として初めて沖縄振興開発金融公庫理事長に就任し、2024年に任期満了で退任した。また、沖縄科学技術大学院大学評議員なども務めた。
富川 盛武(とみかわ もりたけ、1948年1月13日 - )… 富川 盛武(とみかわ もりたけ、1948年1月13日 - )は、日本の経済学者、地方公務員。沖縄国際大学学長や、沖縄県政策参与を経て、沖縄県副知事、沖縄国際大学名誉教授。 沖縄県中頭郡北谷町生まれ。1971年琉球大学法文学部経済学科卒業。1974年明治大学大学院政治経済学研究科経済学専攻修士課程修了。1976年沖縄国際大学商経学部専任講師。1981年北海道大学で研修。1985年沖縄国際大学商経学部教授。1990年ハワイ大学客員研究員。2001年「台湾の工業化と企業適応に関する研究 : 企業適応のネットワーク機能を中心に」で明治大学より博士(経済学)の学位を取得。 2003年沖縄銀行監査役。2004年沖縄国際大学産業情報学部長。
新垣 雄久(あらかき たけひさ、1930年<昭和5年> - … 新垣 雄久(あらかき たけひさ、1930年<昭和5年> - 2021年 <令和3年> 7月21日)は、日本の地方公務員。沖縄県教育長、同出納長、同副知事、沖縄県平和祈念財団会長を歴任。勲三等瑞宝章受章。 本部町出身。沖縄戦で父母、弟妹の家族4人を失った。沖縄県立知念高等学校卒業。1957年 琉球政府職員となり、本土復帰後は沖縄県庁で総務部長、沖縄県教育委員会教育長を経て、1984年10月 出納長、1987年1月 副知事。沖縄国体では皇太子時代の上皇明仁・上皇后美智子夫妻の案内役を務めた。1989年1月 副知事退任。 退任後、沖縄県社会福祉協議会会長、同県平和祈念財団会長。2021年7月21日午後8時39分、那覇市の病院で死去。
長嶺 将真(ながみね しょうしん、1907年7月15日 - … 長嶺 将真(ながみね しょうしん、1907年7月15日 - 1997年11月2日)は、沖縄県の空手家、警察官。松林流開祖。昭和期を代表する空手家の一人であり、空手史研究家としても知られている。 1907年(明治40年)、那覇市泊村生まれ。17歳から空手を習い始め、19歳から当時の空手の大家・喜屋武朝徳の高弟であった新垣安吉に師事した。1928年(昭和3年)、那覇市立商業学校(現・沖縄県立那覇商業高等学校)卒業後、翌年には歩兵大分連隊に入隊し、済南事変にも参戦した。 1931年(昭和6年)、沖縄県巡査となり嘉手納警察署勤務になったことから、地元に住む喜屋武朝徳に師事することになった。1936年(昭和11年)には、東京にて本部朝基にも師事する機会に恵まれた。