堤 徳三(つつみ とくぞう、1904年〈明治37年〉 - 没… 堤 徳三(つつみ とくぞう、1904年〈明治37年〉 - 没年不明)は、日本の音楽家、実業家。堤商店会長。 東京府士族・堤徳蔵の長男。1926年、慶應義塾大学卒業。江南産業、堤不動産、新橋興業各社長、堤商事代表取締役。堤商店取締役・同社長・同会長、結核予防会評議員、東京砂糖取引所理事などをつとめる。 族籍は東京府士族、会社重役であった。住所は東京市大森区南千束、東京都千代田区一番町で東京都港区在籍。別宅は神奈川県三浦郡逗子町小坪。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
米山 美雄(よねやま よしお、1903年11月23日 - 1… 米山 美雄(よねやま よしお、1903年11月23日 - 1987年5月19日)は、日本の経営者。三井生命保険社長を務めた。 東京都出身。1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に三井生命保険に入社した。1947年7月に取締役に就任し、常務、専務を経て、1963年5月に副社長に就任し、1965年5月には社長に就任。1971年5月に会長に就任し、1977年7月から相談役を務めた。 1970年に藍綬褒章を受章し、1976年に勲三等瑞宝章を受章。 1987年5月19日肺炎のために死去。83歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
亀沢 善次郎(かめざわ ぜんじろう、1903年11月5日 -… 亀沢 善次郎(かめざわ ぜんじろう、1903年11月5日 - 1987年3月27日)は、日本の経営者、銀行家。東京都出身。 1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1943年に第四銀行に入行。 1957年11月に取締役に就任し、1960年11月に常務、1964年11月に専務を経て、1970年5月には頭取に就任。1972年11月には相談役に就任。 1975年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1987年3月27日急性心不全のために死去。83歳没。
木村 鉱二郎(きむら こうじろう、1903年9月21日 - … 木村 鉱二郎(きむら こうじろう、1903年9月21日 - 1995年2月18日)は、日本の経営者。日本冷蔵(現在のニチレイ)社長、会長を務めた。東京府出身。 1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に合同毛織に入社。日本水産を経て、1945年12月に日本冷蔵取締役に就任。 1951年に社長に就任し、1968年3月には会長に就任。1979年3月に相談役に就任。 1962年に藍綬褒章を受章し、1975年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1995年2月18日心不全のために死去。91歳没。
五十嵐 丈夫(いがらし たけお、1903年8月6日 - 19… 五十嵐 丈夫(いがらし たけお、1903年8月6日 - 1994年12月12日)は、日本の経営者。白洋舎社長を務めた。東京都出身。 1927年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、渡米を経て、1934年12月に白洋舎取締役に就任。 1943年12月に社長に就任し、1975年2月から1983年2月までに相談役を務めた。 1976年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1994年12月12日腸閉塞のために死去。91歳没。
西松 龍一(にしまつ りゅういち、1903年〈明治36年〉-… 西松 龍一(にしまつ りゅういち、1903年〈明治36年〉- 2008年〈平成20年〉6月5日)は、日本の実業家。父親は、実業家の西松喬。配偶者は坂野鉄次郎の養子坂野紀美子。大阪市西区江戸堀生まれ。 1903年に大阪市西区江戸堀に生まれる。両親はインド綿花輸入を扱う輸入商社西松商店を経営していた。大阪で2年から3年ほど過ごした後に、神戸市東灘区東明に移った。その後、御影師範学校附属の小学校に通い、1916年に卒業。その後、開学まで1年待ち、1917年に甲陽中学校(現在の甲陽学院中学校・高等学校)に1回生として入学。甲陽中学卒業後は、慶應義塾大学に進学した。その後、鐘紡に就職。1933年から1938年までヨーロッパ駐在員としてロンドン、ニューヨークに赴任した。
萩原 吉太郎(はぎわら きちたろう、1902年(明治35年)… 萩原 吉太郎(はぎわら きちたろう、1902年(明治35年)12月15日 - 2001年(平成13年)8月8日)は、日本の実業家。北海道炭砿汽船(北炭)、札幌テレビ放送(STV)社長などを務めた。 埼玉県蕨町(現:蕨市)で生まれる。1926年慶應義塾大学経済学部を卒業。在学中は吉田茂内閣の文相となる高橋誠一郎教授に認められ、学校に残ることを勧められたほどであった。 卒業後、三井合名に入社。常務理事から北炭会長に転じる島田勝之助の目に留まり、1940年、島田に同道する。1889年に創業の北炭は、当初、道内の炭鉱開発と鉄道敷設に関わっており、北海道開発の中心だった。その後、鉄道は政府に買い上げられ、炭鉱開発と海運に集中する。
島崎 敬夫(しまざき よしお、1902年10月11日 - 1… 島崎 敬夫(しまざき よしお、1902年10月11日 - 1975年6月29日)は、日本の経営者。横浜ゴム社長を務めた。高知県高知市出身。実弟に俳優の志村喬がいる。 1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に古河銀行に入行。1931年に横浜ゴムに転じ、1948年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1965年には社長に就任。1973年2月に会長に就任。 1969年に藍綬褒章を受章。 1975年6月29日に肝硬変のために死去。72歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
須崎 潔(すざき きよし、1902年3月27日 - 1973… 須崎 潔(すざき きよし、1902年3月27日 - 1973年8月15日)は、昭和期の日本の実業家。揖斐川電気工業(現・イビデン)社長。大垣市名誉市民。鳥取県出身。 因幡銀行取締役の須崎幾蔵の長男として生まれる。鳥取中学校(現・鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、1924年慶應義塾大学経済学部を卒業。同年大同電力に入社。その後、大阪電力、因幡銀行取締役、大同化学(現 信越化学工業)を経て、1940年3月揖斐川電気工業(現 イビデン)に移る。1947年1月にイビデン取締役、同年8月に常務取締役(営業部長)となる。 取締役副社長(1959年11月)を経て、宮寺敏雄の後任として1962年5月に代表取締役社長に就任した。
片岡 武修(かたおか たけのぶ、1902年3月16日 - 1… 片岡 武修(かたおか たけのぶ、1902年3月16日 - 1978年5月16日)は、日本の経営者。熊本県出身。 1928年に慶應義塾大学法学部独法科を卒業し、同年に旭絹織(のちの旭化成工業)に入社。取締役、専務を経て、1949年2月に社長に就任。1961年7月には会長に就任。。 1963年に藍綬褒章を受章し、1972年11月に勲三等旭日中綬章を受章。 1978年5月16日肺炎のために死去。76歳没。
伊藤 英夫(いとう ひでお、1902年3月7日 - 1977… 伊藤 英夫(いとう ひでお、1902年3月7日 - 1977年9月1日)は、日本の経営者。稲畑産業社長を務めた。 富山県高岡市出身。1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に稲畑産業に入社。 1941年に取締役に就任し、1944年に常務、1951年10月に専務、1963年4月に副社長を経て、1969年5月には社長に就任。1972年12月には会長に就任した。 1977年9月1日、脳血栓のために死去。75歳没。
高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 198… 高羅 芳光(こうら よしみつ、1902年3月4日 - 1984年5月14日)は、日本の経営者。富士通社長、会長を務めた。山口県出身。 1929年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に富士電機製造に入社。1947年に富士通信機製造に転じ、1949年に取締役に就任し、常務、専務、副社長を経て、1970年5月に社長に就任した。1974年11月から相談役を務めた。 1971年4月に藍綬褒章を受章し、1978年に勲二等瑞宝章を受章。 1984年5月14日、脳梗塞のために死去。82歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
菅野 千代夫(かんの ちよお、1902年 <明治35年> 2… 菅野 千代夫(かんの ちよお、1902年 <明治35年> 2月11日 - 1979年 <昭和54年> 7月7日)は、日本の経営者。河北新報社、東北放送各社長を務めた。 宮城県出身。1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 1942年に河北新報社取締役に就任し、1947年から1962年までに社長を務めた。東北放送社長、日本民間放送連盟副会長も務めた。 1972年11月に勲二等瑞宝章を受章。 1979年7月7日、肝臓癌のために死去。77歳没。
高橋 信三(たかはし しんぞう、1901年〈明治34年〉8月… 高橋 信三(たかはし しんぞう、1901年〈明治34年〉8月13日 - 1980年〈昭和55年〉1月19日)は、毎日放送(MBS、現・MBSメディアホールディングス)元代表取締役社長・会長、東京12チャンネル(TX、現・テレビ東京)元取締役。東京都出身。民間放送の創始者の一人。 慶應義塾大学経済学部卒業後、1926年(大正15年)[元号要検証]に大阪時事新報社に入社、1928年(昭和3年)毎日新聞社に移り、副主筆などをつとめた後1950年(昭和25年)にMBSの前身である新日本放送(NJB)設立に参加し、常務取締役に就任した。 MBSの設立・開局の中心人物として知られる。同局は毎日新聞系とされているが、実際には毎日新聞を依願退職した高橋が個人のコネクションをフルに活用し尽力して開局に漕ぎ着けたものであり、毎日新聞自体は余り積極的に支援しなかった。
藤岡 信吾(ふじおか しんご、1901年 <明治34年> 6… 藤岡 信吾(ふじおか しんご、1901年 <明治34年> 6月27日 - 1977年 <昭和52年> 9月3日)は、日本の経営者。三菱石油社長を務めた。位階は正四位。 茨城県出身。1925年に慶應義塾大学法学部を卒業し、同年に三菱商事に入社。1949年6月に三菱石油に転じ、195年11月に取締役に就任し、1955年11月に常務を経て、1961年5月には社長に就任。1973年5月に会長に就任し、1974年5月には取締役相談役に退いた。1965年5月には石油連盟会長に就任。 1963年11月に藍綬褒章を受章し、1971年11月に勲二等旭日重光章を受章。 1977年9月3日腎盂腎炎のために死去。76歳没。
黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3… 黒川 渉三(くろかわ しょうぞう、1901年(明治34年)3月4日 - 1975年(昭和50年))は、日本の実業家。東京急行電鉄専務のほか、東横映画、東京映画配給、東急自動車、東京トヨタディーゼル社長などを務めた。広島県賀茂郡西条町(現・東広島市)出身。 岡田茂は実家の四軒隣で、医師の息子だった黒川は、旧制広島一中(現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て1926年(大正15年)、慶應義塾大学経済科卒業。 東京横浜電鉄(現・東京急行電鉄)に入社し同社開発、電燈各課長、東京急行電鉄事業部長、殖産局次長、取締役、専務を歴任。根っこからの野人、バケツの底が抜けたような大酒くらいで大風呂敷。お固い電鉄会社では型破りな人物で五島慶太に可愛がられた。
清水 雅(しみず まさし、1901年(明治34年)2月12日… 清水 雅(しみず まさし、1901年(明治34年)2月12日 - 1994年(平成6年)12月24日)は、昭和中期から平成期の実業家。小林一三に長年仕え、阪急の大番頭と呼ばれた。阪急電鉄より1947年に分社独立した後の阪急百貨店(現在のエイチ・ツー・オー リテイリング)初代社長であり、のちには阪急百貨店会長、阪急電鉄会長を歴任した。東宝社長・会長も歴任、東宝中興の祖と呼ばれた。 1901年(明治34年)、実業家・清水栄次郎の次男として大阪府大阪市阿倍野区に生まれる。清水家は砂糖商や鉱山業、銀行業などで財を成した戦前の地方財閥で、父の栄次郎も慶應義塾に学んだ後、材木業などで巨利を得た大阪財界人として知られる存在である。
岡野 敏成(おかの としなり、1900年〈明治33年〉10月… 岡野 敏成(おかの としなり、1900年〈明治33年〉10月25日 - 1974年〈昭和49年〉9月6日)はよみうりテレビ代表取締役最高顧問。東京都出身。 1924年3月、慶応義塾大学を卒業と同時に大阪毎日新聞に入社。その後、時事新報、国民新聞と転々し、1934年に読売新聞に移籍。1949年、同社の取締役審議室長を務める。1963年5月によみうりテレビに移籍し専務取締役となる。1970年7月に同社の代表取締役社長に就任。1972年5月に最高顧問に退く。 1974年9月6日午後0時半、消化管出血のため、兵庫県芦屋市大原町11-5の伊藤外科病院で死亡(享年73歳)。
神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1… 神田 俊二(かんだ しゅんじ、1900年10月25日 - 1940年代)は、日本の俳優、元実業家である。本名同じ。短期間ではあるが、日活太秦撮影所に所属していた二枚目俳優である。 1900年(明治33年)10月25日、東京府東京市京橋区木挽町(現在の東京都中央区)に神田鐳蔵の庶子として生まれる。鐳蔵は紅葉屋商会、神田銀行(1927年倒産)を経営していた財界の大物であった。 暁星小学校を経て慶応義塾大学に入学するが、1923年(大正12年)に中退し、父が経営する紅葉屋商会の社員となる。1926年(大正15年)、特作映画社が製作した映画『我は海の子』(『吾は海の子』)で主演に抜擢されていたが、資金難で小笠原プロダクションに引き継がれ、主演も原田龍次(後の原田譲治、1904年 - 没年不詳)に変更された為、念願だった俳優になれずじまいであった。
中司 清(なかつかさ きよし、1900年10月21日 - 1… 中司 清(なかつかさ きよし、1900年10月21日 - 1990年5月1日)は、日本の実業家。鐘淵化学工業(現:カネカ)元社長、会長。山形県山形市出身。 1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、鐘淵紡績に入社した。満州の新京出張所所長などを歴任し、1944年からは取締役、常務を務め、1947年から副社長を務めた。 1949年6月に鐘淵紡績から分離発足した鐘淵化学工業の初代社長に就任し、塩化ビニールをいち早く企業化し、アクリル系合繊「カネカロン」の開発などにより、同社を日本有数の総合化学企業に育て上げた。社長在任中の1968年にカネミ油症事件が起きた。1969年5月に会長を務め、1974年11月に取締役相談役を経て、1978年6月から相談役名誉会長を務めた。
金子 秀三(かねこ ひでぞう、1900年9月14日 - 19… 金子 秀三(かねこ ひでぞう、1900年9月14日 - 1980年9月21日)は、日本の実業家である。RKB毎日放送の社長・会長を務めた。熊本県熊本市出身。 1924年、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業。同年に毎日新聞社に入社し、大連支局長、天津支局長、北京支局長、西部本社論説委員などを歴任した。 1951年6月にラジオ九州設立と同時に代表取締役代表に就任した。専務、副社長を経て、1961年11月に社長に就任し、1969年11月に会長に就任し、1971年11月に相談役に就任した。日本民間放送連盟で理事、副会長、顧問を務めた。1965年に藍綬褒章を受章し、1970年に勲二等瑞宝章を受章した。著書に「音波から映像へ」、「私の飲み食い放談」などがある。
飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月1… 飯田 慶三(いいだ けいぞう、1900年(明治33年)4月13日 - 1993年(平成5年)11月18日)は、日本の実業家。髙島屋社長・会長を務めた。京都府京都市出身。 髙島屋副社長を務めた飯田忠三郎の次男として生まれる。 1926年に慶應義塾大学法学部卒業後、高島屋へ入社。大阪支店長、常務、専務を経て、飯田直次郎社長の急逝に伴い、1952年2月に創業者一族3代目の社長に就任。横浜、ニューヨークへ出店するなど多店舗化を進め、トップマネジメントの強化を図り、組織を合理的に改革し、人事を刷新して新しい時代に即応する近代的な経営管理方法を推進した。1960年に会長に退き、新社長には飯田直次郎の長男である飯田新一が就任した。
金子 佐一郎(かねこ さいちろう、1900年 <明治33年>… 金子 佐一郎(かねこ さいちろう、1900年 <明治33年> 2月1日 - 1978年 <昭和53年> 4月7日)は、日本の経営者。十條製紙社長を務めた。位階は従三位。勲一等瑞宝章。 東京都出身。1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年4月に王子製紙に入社。 1949年8月に十條製紙に転じ、取締役、常務、専務、副社長を経て、1957年11月には社長に就任。1969年5月には会長に就任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1970年には勲二等旭日重光章を受章。 1978年4月7日、膵臓腫瘍のために死去。78歳没。死没日付をもって従三位に叙され、勲一等瑞宝章を追贈された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
横山 通夫(よこやま みちお、1900年1月25日 - 19… 横山 通夫(よこやま みちお、1900年1月25日 - 1983年5月12日)は、日本の経営者。栃木県出身。 1917年に旧制宇都宮中学校(現栃木県立宇都宮高等学校)を卒業。慶應義塾大学予科に入学 1922年に慶應義塾大学部理財科を卒業。九州電灯鉄道、東邦電力での勤務を経て、1942年に中部配電(のちの中部電力)理事に就任し、常務を経て、1951年に副社長に就任し、1961年4月に社長に昇格した。1969年5月には会長に就任し、1977年6月から相談役を務めた。 中部経済連合会会長、日本電気協会会長、日本ラグビーフットボール協会会長、名古屋鉄道監査役、東海銀行参与なども歴任した。 1960年11月に藍綬褒章を受章し、1974年11月に勲一等瑞宝章を受章した。
森脇 将光(もりわき まさみつ、1900年1月17日 - 1… 森脇 将光(もりわき まさみつ、1900年1月17日 - 1991年6月2日)は、日本の実業家。 島根県簸川郡平田町(現・出雲市)出身。慶應義塾大学経済学部経済学科中退。大学在学中に金融業を始め、東京・日本橋に事務所を構えた。1948年度の長者番付で所得9,000万円で1位となり、「金融王」と呼ばれ名を馳せた。戦後の混乱期に乗じて高利で莫大な利益を得た所得は、2位・4,530万円の倍であった。しかし、その翌年、巨額な国税滞納額が発覚して、話題を呼んだ。また、金融業と共に出版業も手掛け、戦後出版した尾崎秀実の獄中書簡集『愛情はふる星のごとく』(世界評論社)は大ベストセラーとなり、1959年には週刊誌『週刊スリラー』を創刊した。
小林 富次郎 (三代目)(こばやし とみじろう、旧名は小林喜… 小林 富次郎 (三代目)(こばやし とみじろう、旧名は小林喜一、1899年12月23日 - 1992年7月18日)は、日本の経営者。ライオン歯磨(現在のライオン)社長、会長を務めた。東京都出身。2代目小林富次郎の長男。妻・美代子は西野恵之助(白木屋呉服店社長・日本航空輸送社長)の次女。長男は小林敦。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業。 1929年に小林商店副社長に就任し、1935年には社長に昇格。1967年1月にライオン歯磨会長に就任。 1957年5月に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1992年7月18日心不全のため死去。92歳没。
阿部 英児(あべ えいじ、1899年12月16日 - 196… 阿部 英児(あべ えいじ、1899年12月16日 - 1969年10月25日)は、日本の柔道家(講道館8段)、実業家。 学生時代に慶應義塾大学柔道部の傑物として名を馳せ、社会人となってからは昭和天覧試合で3位に入る活躍を見せる傍ら、大日本製糖で専務取締役兼工場長を務めるなど実業家として活躍した。また兄の大六も学生時代に柔道選手として腕を鳴らし、後には中部配電にて常務取締役を務めている。 1899年、司法官僚であり実業家でもあった阿部泰蔵の七男として、東京府東京市麻布区(現・東京都港区)に生まれる。六男の大六(だいろく)とは双生児であった。慶應義塾在籍時、少年時代は飯塚国三郎に、後には中野正三に師事して柔道のイロハを学んだ。
竹内 自益(たけうち じえき、1899年10月30日 - 1… 竹内 自益(たけうち じえき、1899年10月30日 - 1978年7月3日)は、日本の経営者。三重県出身。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年4月に三井倉庫に入社。1947年1月に取締役に就任し、1952年5月に常務、1959年11月に専務、1965年5月に副社長を経て、1968年5月に社長に就任。1972年5月には会長に就任。 1978年7月3日心筋梗塞のために死去。78歳没。
原 弘(はら ひろむ、1899年〈明治32年〉 9月29日 … 原 弘(はら ひろむ、1899年〈明治32年〉 9月29日 - 1974年〈昭和49年〉8月14日)は、日本の経営者。清水銀行頭取を務めた。 静岡県出身。1926年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1930年3月に駿州銀行(のちの清水銀行)に入行。 1940年7月に常務、1947年2月に専務を経て、1971年4月には頭取に就任。 1974年8月14日に膵臓炎のために在任中に死去。74歳没。
小野瀬 忠兵衛(小野瀨忠兵衞、おのせ ちゅうべえ、1899年… 小野瀬 忠兵衛(小野瀨忠兵衞、おのせ ちゅうべえ、1899年(明治32年)8月21日 - 1977年(昭和52年)12月11日)は、日本の政治家、実業家。衆議院議員(3期)。 茨城県新治郡九重村生まれ、同県河内郡龍ケ崎町出身。旧制土浦中学校(現茨城県立土浦第一高等学校)、慶應義塾大学部理財科を卒業後、興亜製作所社長、茨城県塩業株式会社取締役。 次いで茨城県肥料卸商業組合、竜ヶ崎地方生活必需品配給統制組合、同食料品配給統制組合、同食糧営団格理事長。1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙に茨城全県区から出馬し当選。衆議院経済安定委員長となり、茨城県司法保護委員。日本進歩党院内総務、民主党民情部長、民主自由党会計監督を務める。
花崎 利義(はなさき としよし、1899年8月17日 - 1… 花崎 利義(はなさき としよし、1899年8月17日 - 1994年10月8日)は、日本の経営者。住友海上火災保険社長、会長を務めた。 千葉県出身。1927年に慶応義塾大学経済学部を卒業し、1928年に住友海上火災保険に入社。1948年6月に取締役に就任し、同年10月に常務、1949年6月に専務を経て、1950年6月には社長に就任。1962年6月に会長を経て、1964年6月には相談役に就任。 1972年6月に藍綬褒章を受章し、1969年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1994年10月8日、急性肺炎のために死去。95歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
小原 勝守(おはら かつもり、1899年 <明治32年> 6… 小原 勝守(おはら かつもり、1899年 <明治32年> 6月7日 - 1971年 <昭和46年> 8月17日)は、日本の経営者。安藤建設社長を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、1932年に安藤組(のちの安藤建設)に入社し、監査役にも就任。 1938年に取締役、1943年に専務を経て、1962年6月に社長に就任。1969年10月には会長に就任。 1970年11月に勲四等旭日小綬章を受章。 1971年8月17日、心筋梗塞のために死去。72歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
柴田 兵一郎(しばた ひょういちろう、1899年(明治32年… 柴田 兵一郎(しばた ひょういちろう、1899年(明治32年)6月4日 - 1976年(昭和51年)3月30日)は、大正末から昭和期の実業家、政治家。貴族院多額納税者議員、衆議院議員、岩手県岩手郡沼宮内町長。岩手町名誉町民。正四位勲二等。 岩手県岩手郡沼宮内町(現岩手町)で、柴田兵右衛門の孫として生まれた。1924年(大正13年)3月、慶應義塾大学経済学部を卒業。1925年(大正14年)に第一銀行に入り、東北銀行初代頭取、盛岡電燈取締役、沼宮内信用組合長、同農会長等のほか、沼宮内町長(1931年5月から3期在任)、盛岡地方裁判所人事調停委員などを務めた。 1939年(昭和14年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任し、同和会に所属して1946年(昭和21年)4月16日まで在任。
大野 勇(おおの いさむ、1899年5月14日 - 1984… 大野 勇(おおの いさむ、1899年5月14日 - 1984年5月30日)は、日本の経営者。森永乳業社長を務めた。 東京都出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に森永乳業に入社した。1972年1月に森永乳業専務に就任し、1960年5月には社長に昇格した。1974年5月に会長に就任し、1979年6月から取締役相談役を務めた。 1964年11月に藍綬褒章を受章。 1984年5月30日、心不全のために死去。85歳没。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
佐藤 義夫(さとう よしお、1899年〈明治32年〉3月13… 佐藤 義夫(さとう よしお、1899年〈明治32年〉3月13日 - 1961年〈昭和36年〉7月29日)は、日本の実業家。中部日本放送社長を務めた。現在の岩手県奥州市(旧江刺市域)出身。 1922年に慶應義塾大学を卒業し、星製薬、時事新報社での勤務を経て、1935年に岩手日報社専務に就任する。その後、1942年に中日新聞社の前身である新愛知新聞社に入社し、取締役と常務を歴任した。 1950年に中部日本放送の専務に就任し、副社長を経て、1959年11月から社長に就任した。 1961年7月29日社長在職中に心筋梗塞で死去。62歳没。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
牧野 亀治郎(まきの かめじろう、1899年1月2日 - 1… 牧野 亀治郎(まきの かめじろう、1899年1月2日 - 1985年3月21日)は、日本の経営者。明治生命保険社長、会長を務めた。福井県出身。 1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に明治生命保険に入社。1943年に常務に就任し、1946年11月には社長に昇格。しかし、翌1947年7月に公職追放となった。追放解除後の1961年5月から1972年5月までに会長を務めた。 慶應義塾理事も務めた。 1959年5月に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲三等旭日中綬章を受章。 1985年3月21日肺炎のために死去。86歳没。
星野 靖之助(ほしの やすのすけ、1899年(明治32年)1… 星野 靖之助(ほしの やすのすけ、1899年(明治32年)1月1日 - 1988年(昭和63年)10月8日)は、日本の実業家、政治家。衆議院議員。 大分県出身。星野太三郎の長男として生まれる。大分県立大分中学校を経て、1925年(大正14年)3月、慶應義塾大学経済学部を卒業した。 同年4月、三井鉱山に入社し、1927年(昭和2年)3月、三井合名会社に転じた三井総元方情報主任となり、司法省刑事局嘱託、内務省警保局嘱託も務めた。1942年(昭和17年)4月の翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦を受け旧北海道4区から出馬して当選、衆議院議員を1期務めた。この間、翼賛政治会総裁秘書、小磯内閣で小林躋造国務大臣秘書官、行政査察使随員、幣原内閣で海軍参与官、同第二復員参与官などを歴任。
兵藤 嘉門(ひょうどう かもん、1898年 <明治31年> … 兵藤 嘉門(ひょうどう かもん、1898年 <明治31年> 11月28日 - 1985年 <昭和60年> 5月2日)は、日本の経営者。藤倉電線(現在のフジクラ)社長、会長を務めた。位階は正五位。 栃木県出身。1923年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に藤倉電線に入社。1944年に取締役に就任し、1948年に専務を経て、1961年7月に社長に就任。1965年11月に会長に就任し、1969年には相談役に就任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年5月2日冠不全のために死去。86歳没。死没日付をもって正五位に叙された。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。
兵頭 嘉門(ひょうどう かもん、1898年11月28日 - … 兵頭 嘉門(ひょうどう かもん、1898年11月28日 - 1985年5月2日)は、日本の経営者。藤倉電線(現在のフジクラ)社長、会長を務めた。栃木県出身。 1923年に慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、同年に藤倉電線に入社。1945年に取締役に就任し、1948年に専務を経て、1961年7月に社長に就任。1965年11月に会長に就任し、1969年には相談役に就任。 1963年に藍綬褒章を受章し、1969年4月に勲三等瑞宝章を受章。 1985年5月2日肝不全のために死去。86歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
稲田 勤(いなだ つとむ、1898年 <明治31年> 11月… 稲田 勤(いなだ つとむ、1898年 <明治31年> 11月19日 - 1976年 <昭和51年> 8月27日)は、日本の経営者。明治生命保険社長を務めた。位階は従五位。 東京都出身。1922年に慶應義塾理財科を卒業し、同年に明治生命保険に入社。 1946年11月に常務に就任し、1958年5月に副社長を経て、1961年5月に社長に就任。1964年5月には相談役に就任した。 経済団体連合会理事、日本経営者団体連盟常任理事、日本相撲協会会長なども歴任した。 1963年5月に藍綬褒章を受章し、1970年4月に勲四等旭日小綬章を受章。 1976年8月27日、心筋梗塞のために死去。77歳没。死没日付をもって従五位に叙された。
河口 静雄(かわぐち しずお、1898年11月14日 - 1… 河口 静雄(かわぐち しずお、1898年11月14日 - 1991年12月19日)は、日本の実業家。三共副社長、東京12チャンネルテレビ事業本部長を務めた。 福岡県柳川市出身。河口時次、トリの三男。1928年に慶應義塾大学法学部を卒業し三共に入社。資材部長、1944年7月に取締役、1950年5月に常務、1955年11月専務を経て、1962年11月には副社長に就任し、1964年5月から相談役を務めた。1969年11月には当時経営不振に陥っていた東京12チャンネルテレビ事業本部長に就任し、同社の再建に当たった。全日本広告連盟理事長、日本広告審査機構理事長なども歴任し、広告界の重鎮として活躍した。1967年には日本宣伝大賞を授賞、1969年4月には勲三等瑞宝章を受章した。
桜井 督三(さくらい とくぞう、別表記 : 櫻井 督三、18… 桜井 督三(さくらい とくぞう、別表記 : 櫻井 督三、1898年 〈明治31年〉11月14日 - 1978年〈昭和53年〉5月15日)は、日本の経営者。北越製紙、新潟総合テレビ社長などを務めた。位階は従四位。 新潟県広神村(現・魚沼市)の庄屋に生まれる。 長岡中学(現・新潟県立長岡高等学校)を経て慶應義塾理財科を卒業。1922年に九州水力電気に入社。1942年に九州配電理事に就任。理事になるまで、経理、営業、企画、技術を担当。九州の主なところでは大牟田、大分、福岡に移り住んだ。 1944年に日本発送電理事に転じ、1949年7月から1950年9月までに副総裁を歴任。1954年9月から1956年9月までに電源開発理事を務めた。
大西 禎夫(おおにし よしお、1898年〈明治31年〉9月2… 大西 禎夫(おおにし よしお、1898年〈明治31年〉9月28日 - 1966年〈昭和41年〉3月30日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(3期)。 香川県三木郡氷上村長楽寺(現三木町長楽寺)で大西行礼の三男として生まれる。高松中では野球部に入部し、1915年にはエースとして第1回甲子園への出場を果たしている。1921年(大正10年)慶應義塾大学部理財科を卒業した。 卒業後は帰郷して讃岐信託に入社。そのかたわら母校・高松中の野球部監督に就任。26年夏、28年春夏連続の甲子園出場を果たしている。その後1935年には讃岐信託の常務となった。 1945年(昭和20年)高松琴平電気鉄道社長に就任して、21年間在任した。
鈴木 強平(强平、すずき きょうへい、1898年〈明治31年… 鈴木 強平(强平、すずき きょうへい、1898年〈明治31年〉4月28日 - 1969年〈昭和44年〉3月3日)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員(2期)、参議院議員(1期)。 群馬県前橋市連雀町(現・本町)で、鈴木留太郎の長男として生まれる。群馬県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)を経て、慶應義塾大学部理財科に進んだが、父の病により帰郷して家業を継承した。 1934年(昭和9年)群馬林業社長、全国燃料組合理事組合長に就任。その他、群馬県木炭連合会長、同燃料林産組合長、全国燃料組合連合会副理事長、前橋商工会議所商業部長、群馬県商工倶楽部理事長、全国燃料会館副理事長、前橋文化服装学院(現前橋文化服装専門学校)理事、日本燃料機社長、鈴木商会社長などを務めた。
高木 金次(たかぎ かねつぐ、1898年3月20日 - 19… 高木 金次(たかぎ かねつぐ、1898年3月20日 - 1967年6月21日)は、日本の経営者。明治生命保険社長を務めた。 岡山県出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に明治生命保険に入社。1946年に常務に就任し、1958年5月に副社長を経て、1964年5月に社長に就任した。 1967年6月21日、心臓疾患のために在職中に死去。69歳没。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
八馬 安二良(はちうま やすじろう、1898年〈明治31年〉… 八馬 安二良(はちうま やすじろう、1898年〈明治31年〉1月25日 - 1981年〈昭和56年〉5月17日)は、日本の実業家。八馬汽船社長。多聞酒造取締役。 兵庫県西宮市出身。海運業・八馬永蔵の三男。1920年、慶應義塾大学部理財科卒業。1925年、分家した。 桐花興業監査役、多聞土地社員、西宮信組理事を歴務。宝梅園農場相談役、芦屋市公安委員を兼務。1931年から1966年まで八馬汽船の社長を務めた。 兵庫県西宮市久保町、八馬汽船相談役・三代八馬兼介の弟。八馬駒雄、八馬眞治の兄。 宗教は真宗。住所は芦屋市平田町。 この項目は、実業家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:経済学、PJ:経済)。
宮岡 謙二(みやおか けんじ、1898年-1978年)は、日… 宮岡 謙二(みやおか けんじ、1898年-1978年)は、日本の経営者兼作家。元別府亀の井ホテルの社長。 ホテル経営の傍ら執筆。 子は6人。その内の一人は、トリニトロンカラーテレビ開発元ソニー常務の宮岡千里で、甥は元日本郵船社長の宮岡公夫。 1922年 慶應義塾大学政治科卒業大阪商船入社。以後、上海、ブエノスアイレスなどに勤務した。 1946年 大阪商船退職。別府亀の井ホテル入社。同ホテル北、不老町の社宅に住む。その間、国際ロータリー・クラブの発展につくし、また町内の役員もやり近所の住民からも好かれる。 1954年 1954年4月『死面列伝・旅芸人始末書:異国遍路』を執筆。この本はその後、『死面列伝・旅芸人始末書:異国遍路.明治会見記』宮岡謙二筆. 樋口配天著クレス出版2007年9月[復刻版]日本人物詩選集/記田順一郎監修・解説 第8巻に納められる。
引田 一郎(ひきた いちろう、1897年10月1日 - 19… 引田 一郎(ひきた いちろう、1897年10月1日 - 1973年4月18日)は、日本の経営者。宝塚歌劇団理事長、宝塚音楽学校校長を務めた。 東京都中野区出身。陸軍士官引田乾作の長男として生まれる。1924年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、同年に阪神急行電鉄(のちの阪急電鉄)に入社。1933年10月に宝塚歌劇団理事長に就任し、1946年12月に阪急電鉄取締役に就任し、宝塚音楽学校校長も務めた。 1966年5月に藍綬褒章を受章した。 1973年4月18日、心不全のために死去。75歳没。
三宮 四郎(さんのみや しろう、1897年9月14日 - 1… 三宮 四郎(さんのみや しろう、1897年9月14日 - 1973年11月8日)は、昭和期の実業家。東京急行電鉄専務取締役、京王帝都電鉄(現:京王電鉄)取締役社長(初代)、財団法人五島美術館常務理事を歴任した。東京急行電鉄(いわゆる「大東急」)から独立した京王帝都電鉄の初代社長として、終戦直後から1950年代にかけて、京王帝都電鉄および京王グループの基礎を築き上げた人物である。 大分県生まれ。慶應義塾大学卒業後、目黒蒲田電鉄(現・東京急行電鉄)に入社。五島慶太社長の知遇を得て、1942年に東京急行電鉄取締役に就任。1946年同社専務取締役に昇任した。その後いったん同社監査役に転任する。 京王電気軌道は戦時統合により東京急行電鉄(大東急)に合併され、同社の京王営業局とされていたが、終戦後の1947年(昭和22年)12月26日に大東急からの分離独立を決議。
横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月… 横山 太喜夫(よこやま たきお、1897年〈明治30年〉9月1日 - 1969年〈昭和44年〉11月11日)は、日本の経営者。群馬銀行頭取を務めた。位階は正五位。 岡山県岡山市出身。1923年に慶應義塾大学経済学部を卒業。日本銀行での勤務を経て、1944年11月に群馬大同銀行に転じ、1948年から1968年まで頭取を務めた。 1958年に黄綬褒章を受章し、1967年11月に勲三等瑞宝章を受章。 1969年11月11日心臓麻痺のために死去。72歳没。死没日付をもって正五位に叙された。