スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
成田 晴風(なりた はるせ、2006年2月27日 - )は、… 成田 晴風(なりた はるせ、2006年2月27日 - )は、青森県南津軽郡大鰐町出身のプロ野球選手(投手)。埼玉西武ライオンズ所属。 大鰐町立大鰐小学校3年生のときに『あじゃらベースボールクラブ』で野球を始め、大鰐町立大鰐中学校では軟式野球部に所属した。 弘前工業高校へ進学すると、1年春からベンチ入り。入学時は最速135km/hほどであったが、徹底的に下半身を鍛え、1年時から最速140km/hを超え、1年秋からは背番号1を付けた。3年夏の県大会では2回戦で八戸学院光星と対戦し、中澤恒貴に本塁打を打たれるなど敗れたものの、強力打線から9つの三振を奪う力投を見せた。高校時代の最速は150km/h。 2023年10月26日に開催されたドラフト会議にて、埼玉西武ライオンズから4位指名を受けた。
藤田 航生(ふじた こうき、1997年12月11日 - )は… 藤田 航生(ふじた こうき、1997年12月11日 - )は、青森県弘前市出身の元プロ野球選手(投手)、理学療法士。左投左打。 中学生時代は硬式野球チーム「弘前シニア」に所属していた。青森県立弘前工業高等学校では甲子園出場経験は無い。高校通算奪三振率は11.65だった。 2015年10月12日に行われたプロ野球ドラフト会議で埼玉西武ライオンズから9巡目で指名を受け、契約金1,000万円、年俸500万円(金額は推定)で仮契約を結んだ。背番号は「67」に決まった。 2016年は二軍で1試合の登板にとどまり、2017年も一軍登板はなく、二軍で3試合に登板し防御率は18.00だった。現役引退時に明かしたイップスの症状は1年目の段階から発症していたとされる。
佐藤 謙次(さとう けんじ、1997年1月16日 - )は、… 佐藤 謙次(さとう けんじ、1997年1月16日 - )は、日本の男子バレーボール選手である。 青森県三戸郡田子町出身。バレーボールを始めたのは中学1年生の時に、先輩に勧められたのがきっかけだという。 青森県立弘前工業高等学校を経て、2015年、東海大学に進学。 2018年10月、サントリーサンバーズに内定し、2019年、サントリーに入団。
一戸 剛(いちのへ つよし、1976年6月9日 - )は、青… 一戸 剛(いちのへ つよし、1976年6月9日 - )は、青森県野辺地町生まれのスキージャンプ選手、指導者。アシックス所属。以前はアインズに所属していた。娘の一戸くる実もスキージャンプ選手である。 野辺地若葉小学校4年生時よりクロスカントリースキーを始め、野辺地中学校3年生時にノルディック複合に転向。青森県立弘前工業高等学校2年生のとき、全国高校総体で3位入賞。早稲田大学卒業。2000年1月よりノルディック複合・ワールドカップBに出場し、ソルトレイクシティーオリンピック出場を目指していたが、2001年に「100メートル走っただけで腹が痛くなる。貧血で頭がフラフラする」という特定疾患・潰瘍性大腸炎という難病を患い医師から引退勧告を受ける。
尾﨑 侯(おざき こう、1971年8月4日 - )は、日本の… 尾﨑 侯(おざき こう、1971年8月4日 - )は、日本の元男子インドアバレーボール・ビーチバレーボール選手、現指導者。 青森県弘前市出身。弘前工業高等学校を卒業し、日本体育大学に進学。3年時にインカレ優勝を果たした。 その後、本格的にビーチバレーへ転向。1996年から1998年までは山本知寿とのペアで、1999年と2000年は森川太地とのペアで、ビーチバレージャパンを5連覇した。 2000年からは指導者として活動。 2017年からはトヨタ自動車ビーチバレーボール部コーチを務めた。 2025年1月、アランマーレ山形のコーチに就任。
田澤 修治(たざわ しゅうじ、1968年4月29日 - )は… 田澤 修治(たざわ しゅうじ、1968年4月29日 - )は青森県出身の射撃選手。2004年アテネオリンピック代表。自衛隊体育学校所属。
田澤 修治(たざわ しゅうじ、1968年4月29日 - )は… 田澤 修治(たざわ しゅうじ、1968年4月29日 - )は青森県出身の射撃選手。2004年アテネオリンピック代表。自衛隊体育学校所属。
ichiro (イチロー、1967年7月4日 - )は、日本… ichiro (イチロー、1967年7月4日 - )は、日本のギタリスト。青森県平川市(旧尾上町)出身。 1988年 ブルースに魅せられ単身シカゴへ。渡米後は、数多くのセッションライブを行う。 1990年 立川直樹プロデュースによりソロデビュー。1stアルバムのジャケは篠山紀信撮影によるもの。日本人初のギブソン USA/エンドースメント・アーティストに就任。 1993年 ロサンゼルス録音による2nd アルバム「Hands Of Time」をリリース。Sons Of Blues(現 The Sons)を結成。 1996年 Lightning Blues Guitarに参加。共演は近藤房之助、大村憲司、仲井戸麗市、山岸潤史、Char、石田長生、西慎嗣、Alan Mirikitani。
中帆 登美(なかほ とみ、1960年11月25日 - )は、… 中帆 登美(なかほ とみ、1960年11月25日 - )は、青森県弘前市出身の女優。
三橋 栄三郎(みつはし えいざぶろう、1960年1月5日 -… 三橋 栄三郎(みつはし えいざぶろう、1960年1月5日 - )は日本の元バレーボール選手。元バレーボール全日本。 青森県出身。弘前工業高校、日本体育大学卒業。 1982年に富士フイルムに入社、日本リーグでは優勝5回、最高殊勲選手賞3回、スパイク賞2回と活躍。全日本では1984年ロサンゼルス五輪、1988年ソウル五輪に出場し超高速Bクイックを武器に全日本の中心選手として活躍した。 1987年の第1回ビーチバレージャパンでは、岩島章博と組んで出場。決勝で川合・熊田ペアと対戦し準優勝となった(ちなみに4人とも富士フイルムの選手だった)。 1992年3月29日、大阪城ホールで行われた日本リーグ最終順位決定リーグ・新日鉄戦の第四セットのプレー中、右足アキレス腱を部分断裂した。
森 大河(もり たいが、1951年5月26日 - 没年不明)… 森 大河(もり たいが、1951年5月26日 - 没年不明)は、日本の元俳優である。本名は対馬 公二。 青森県弘前市出身。青森県立弘前工業高等学校卒業。田村企画、オフィスC&P、オフィスBINに所属していた。 特技:銃砲刀剣類所持許可。 地元の高校を卒業後、就職のために単身上京して、京浜急行電鉄で保線作業に携わっていた。上京から四年後、俳優に転向。俳優活動開始間もなく、1974年放送の『白い牙』第22話「クレージーライダー」でゲスト主演に抜擢され、1975年放送の『TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿』と翌年放送のその続編『新・二人の事件簿 暁に駆ける』ではレギュラー役を得るなどデビュー時は役に恵まれたが、それ以降は連続ドラマへのレギュラー出演は叶わなくなり不遇な時代を迎える。
今井 裕(いまい ゆたか、1950年〈昭和25年〉12月20… 今井 裕(いまい ゆたか、1950年〈昭和25年〉12月20日 - )は、青森県出身の特定失踪者。特定失踪者問題調査会では「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている。1969年(昭和44年)3月2日、青森県にて失踪した。失踪当時は18歳。兄は特定失踪者家族会の会長を務めている。 1950年(昭和25年)12月20日、青森県弘前市生まれ。失踪当時は青森県立弘前工業高等学校の3年生であった。身長は170センチメートルくらいで、体重は62ないし63キログラム程度、ふだんは眼鏡を着用している。また、右頬に子どものとき木登りをしてつけた傷が残っている。 成績優秀で、1969年3月4日の卒業式では総代として答辞を読むことになっていた。
関 登美雄(せき とみお、1935年〈昭和10年〉10月5日… 関 登美雄(せき とみお、1935年〈昭和10年〉10月5日 - )は、日本の男性俳優、声優。 青森県弘前市生まれ。青森県立弘前工業高等学校、舞台芸術学院卒業。劇団文化座をへて、祖父江文宏や五月女道子が旗揚げした劇団群像座に参加した。
菊池 俊輔(きくち しゅんすけ、1931年11月1日 - 2… 菊池 俊輔(きくち しゅんすけ、1931年11月1日 - 2021年4月24日)は、日本の作曲家、編曲家。青森県弘前市出身。日本大学藝術学部音楽学科卒業。 1961年に映画『八人目の敵』で映画音楽家としてのデビューを果たした後、1963年にはテレビドラマ『野菊の墓』で初のテレビ劇伴を担当した。 それ以来、テレビ番組や映画の劇伴・主題歌を手掛けてきた。 1931年(昭和6年)、鮮魚店の長男として生まれる。幼少のころから映画好きで、弘前市内と青森市内の映画館をほとんどハシゴしたという。 青森県立弘前工業高等学校機械科を卒業後、日本大学藝術学部音楽学科に入学し作曲を専攻。大学卒業後、プロの映画音楽家を目指して木下忠司に師事。
小野 忠弘(おの ただひろ、1913年3月3日 - 2001… 小野 忠弘(おの ただひろ、1913年3月3日 - 2001年8月5日)は、日本の美術家、造形作家。1959年、米国『LIFE』誌が特集した「ジャンク・アート世界の7人」に選ばれた。青森県弘前市出身。 1931年、青森県立弘前工業学校土木科を卒業した。1938年、東京美術学校彫刻科を卒業した。在学中、鳥海青児のアトリエに出入りするようになり、油彩画を描きはじめた。大学卒業後徳島県立富岡中学校に赴任し、図画担当教員をしながら春陽会に出品を続けた。1942年、(旧制)福井県立三国中学校に転任した。1944年、三国町へ疎開していた詩人の三好達治と交流したり、1946年、同郷の版画家、棟方志功(青森市出身)と同じ下宿になったことがある。