スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
杉山 春樹(すぎやま はるき、1980年5月7日 - )は、… 杉山 春樹(すぎやま はるき、1980年5月7日 - )は、茨城県北相馬郡利根町出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。現在は埼玉西武ライオンズプロスカウト。 竜ヶ崎第一高校時代からプロ注目の投手であったが、卒業後は専修大学に進学。大学時代は、1年上に酒井泰志、同期に江草仁貴らの投手陣が揃っており主戦格ではなかった。1部リーグは1年春と4年秋のみで、通算2試合に登板、0勝0敗、防御率0.00。 大学では1年夏に右ひじを手術後あまり登板機会はなく、4年以降は大学に籍を置き1年間アルバイト生活をしながら、プロ入りを目指し練習を行なっていた。2003年のドラフト会議にて西武ライオンズから8巡目の指名を受け入団。
宮本 孝男(みやもと たかお、1950年4月17日 - )は… 宮本 孝男(みやもと たかお、1950年4月17日 - )は、茨城県龍ケ崎市出身の、元プロ野球選手及び元競輪選手。1972年及び競輪時代の登録名は宮本 孝雄(読み同じ)。 竜ヶ崎第一高校ではエース。切れのいいカーブを武器とした本格派。コントロールがあとひと息といわれているが、主将で四番を打ちバッティングも高く評価されていた。1968年ドラフト会議で東映フライヤーズから3位指名を受け入団。ポジションは投手。1972年の登録名は宮本 孝雄。同年限りで引退。 その後、競輪選手に転身。日本競輪選手会茨城支部に在籍していた。日本競輪学校第35期生で、同期には中野浩一らがいる。なお、競輪選手登録名は宮本 孝雄である。
持丸 修一(もちまる しゅういち、1948年4月17日 ‐ … 持丸 修一(もちまる しゅういち、1948年4月17日 ‐ )は、日本の高校野球指導者。茨城県北相馬郡藤代町(現在の取手市)出身。4校を甲子園大会に導いている。 藤代中学校時代には木内幸男に指導を受けたこともある。中学校卒業後、茨城県立竜ヶ崎第一高等学校に進学した。 1966年、3年生の時に第48回全国高等学校野球選手権大会に6番・二塁手として出場したが、2回戦で敗退した。1回戦の興南高等学校戦で2安打を記録している。國學院大學に進学後、新聞記者を目指していたが、4年の時に母校のコーチをし始め、卒業と同時に母校に赴任し、そのまま日本史の教員となった。1975年秋に27歳で監督に就任した。 就任16年目の1990年夏、第72回全国高等学校野球選手権大会に出場した。
塩瀬 盛道(しおせ もりみち、1931年5月23日 - 20… 塩瀬 盛道(しおせ もりみち、1931年5月23日 - 2001年3月25日)は、日本のプロ野球選手(投手・外野手。右投右打)、大学野球指導者(監督)、実業家。 初打席初本塁打を放つも、以後再び打席に立つことも試合に出ることもなかったため、通算打率10割・通算長打率40割・通算OPS5.000という、稀有の記録を有する選手である。この記録は、日本プロ野球の歴史の中で、塩瀬とドン・シュルジー(オリックス)の2例しか見受けられない。通算出場試合が1試合、しかも初球で仕留めた記録となると、塩瀬のみである。 東京府荏原郡馬込町(現在の東京都大田区馬込)で生まれる。戦火に遭い、母親の実家がある茨城県稲敷郡牛久村(現在の牛久市)へ疎開する。
根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、… 根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、日本の野球選手・監督。東京都出身。 早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)から茨城県の竜ヶ崎中学校に転校し、1921年の甲子園に投手として出場(初戦で大連商に3-5で惜敗)。早稲田大学では名遊撃手として活躍した。 プロ野球選手としての経歴はないものの、指導者として長く様々なチームに関わった。早大進学後には、合宿を抜け出して母校の竜ヶ崎中学校を泊まり込みで指導し、甲子園に導いている。秋田商や中央大学の監督を経て、1938年に桝嘉一の後任として名古屋軍の監督に就任した。 しかし、当時の名古屋軍は主力が抜けた後でチーム事情が悪く、投手では西沢道夫・松尾幸造、打者では大沢清が活躍するも低迷。