スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
次山嘉一(つぎやま よしかず、1976年4月6日 - )は日… 次山嘉一(つぎやま よしかず、1976年4月6日 - )は日本のタレント、プロデューサー、デザイナー、実業家、ライブドア俳優、アーティストなど多種多様な顔を持つ。 毎月いたるところでイベントを主催しているプランナーでもあるが本業は裏原宿のたい焼き屋。神奈川県横浜市出身。血液型O型 T&Sパートナーズ株式会社取締役、株式会社ネクスティー代表取締役、株式会社シンクメディア ブランディングディレクター、株式会社グロークス取締役、日本恋愛協会会長
増本 岳(ますもと たけし、1964年6月16日 - )は、… 増本 岳(ますもと たけし、1964年6月16日 - )は、日本の実業家。カーブスホールディングス設立者で、同社代表取締役社長兼グループCEO、カーブスジャパン代表取締役会長。元日本フランチャイズチェーン協会会長。 神奈川県出身。神奈川県立希望ケ丘高等学校を経て、明治大学政治経済学部経済学科卒業。1988年(昭和63年)4月、日本エル・シー・エー入社。1989年(平成元年)6月、ベンチャー・リンク入社。 2004年にカーブスを知り、2005年2月、ベンチャー・リンクが米国総本部とマスターライセンス契約を締結したことに伴い、カーブスジャパンを設立し、同社代表取締役社長に就任した。同年4月には同社代表取締役会長兼CEOに就任。
渡邉 美樹(わたなべ みき、男性、1959年10月5日 - … 渡邉 美樹(わたなべ みき、男性、1959年10月5日 - )は、日本の政治家、実業家。自由民主党所属の参議院議員(1期)、ワタミ株式会社創業者。学校法人郁文館夢学園理事長、岸和田盈進会病院理事長、一般社団法人ソーシャルビジネス・ドリームパートナーズ代表理事。
左伴 繁雄(ひだりとも しげお、1955年10月26日 - … 左伴 繁雄(ひだりとも しげお、1955年10月26日 - )は日本の経営者。これまで複数のサッカークラブの経営を手がけたことで知られる。 東京都出身。神奈川県立希望ケ丘高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、日産自動車に入社。日産では英国日産自動車製造の設立に携わるなど、主に生産畑を歩んだ。宇都宮徹壱の取材に依れば、この時点でサッカーのことはほとんど知らなかったという。 2001年、45歳にして横浜F・マリノスの運営会社で日産が出資する横浜マリノスの社長に就任。同年降格の危機に瀕したクラブの建て直しに尽力すると、2003年には元日本代表監督の岡田武史を招聘してリーグ連覇を達成させた。
國廣 喜和武(くにひろ きわむ、1953年8月31日 - )… 國廣 喜和武(くにひろ きわむ、1953年8月31日 - )は、日本の実業家。ポッカサッポロフード&ビバレッジ代表取締役社長や、森を育む紙製飲料容器普及協議会会長を務めた。 神奈川県逗子市生まれ。のち大和市、横浜市に転居し、神奈川県立希望ヶ丘高等学校卒業後、3年間の大学受験浪人生活を経て、横浜国立大学経済学部に進学。佐藤金三郎ゼミ出身。 1979年に大学卒業後、サッポロビール入社。1995年北陸支社富山支店長。998年東京支社特約店営業部長。2000年首都圏本部特約店営業部長。2001年営業部グループリーダー。2003年札幌支社札幌支店長。2004年北海道本部札幌支店長。2006年東海北陸本部長。
山木 利満(やまき としみつ、1947年(昭和22年)5月3… 山木 利満(やまき としみつ、1947年(昭和22年)5月3日 - )は、日本の実業家。元小田急電鉄代表取締役会長執行役員。元日本民営鉄道協会会長。公益財団法人小田急財団理事長(代表理事)。小田急電鉄株式会社特別顧問
太田 正孝(おおた まさたか、1945年〈昭和20年〉11月… 太田 正孝(おおた まさたか、1945年〈昭和20年〉11月11日 - )は、日本の政治家、実業家。横浜市会議員(12期)。 神奈川県横浜市磯子区出身。1961年、日本鋼管鶴見造船所養成校に入学。1964年に神奈川県庁に入庁し、働きながら1966年に神奈川県立希望ヶ丘高等学校定時制を卒業する。中央大学法学部通信教育課程中退。 1971年、神奈川県庁を退職し、横浜市会議員選挙に立候補するが落選。1975年に再び横浜市議選に立候補したが、再度落選した。 1979年、新自由クラブ公認で磯子区選挙区から横浜市議選に立候補し、初当選を果たす。新自由クラブ解党後は横浜市会で横浜自由クラブを結成。1987年の横浜市議選では横浜自由クラブに加え、進歩党(新自由クラブ解党後、田川誠一が結成)推薦で3選を果たした。
間塚 道義(まづか みちよし、1943年10月17日 - )… 間塚 道義(まづか みちよし、1943年10月17日 - )は、日本の実業家。富士通代表取締役会長兼社長や、同社取締役会長、情報通信ネットワーク産業協会会長、日本知的財産協会会長などを務めた。 東京都出身。神奈川県立希望ヶ丘高等学校を経て、1968年学習院大学経済学部経済学科卒業後、富士通ファコム入社。1971年富士通に転社。1999年常務理事兼産業営業本部長。2001年取締役東日本営業本部長。2002年執行役。2003年経営執行役常務。2005年取締役専務。2006年代表取締役副社長。2008年代表取締役会長。2009年代表取締役会長兼社長。2010年代表取締役会長。2012年取締役会長。2014年社内定年規定に従い取締役相談役に退いた。
小原 敏人(こはら としひと、1927年1月15日 - )は… 小原 敏人(こはら としひと、1927年1月15日 - )は日本の実業家。日本ガイシ社長・会長、日本ファインセラミックス協会会長等を務めた。勲二等瑞宝章、フランス共和国レジオンドヌール勲章シュヴァリエ章、ベルギー王冠章コマンドール勲章、藍綬褒章受章、日本セラミックス協会賞功労賞受賞、在名古屋フランス名誉領事。
桑田 弘一郎(くわた こういちろう、1926年(大正15年)… 桑田 弘一郎(くわた こういちろう、1926年(大正15年)9月18日 - )は、日本のジャーナリスト、実業家。朝日新聞社専務、全国朝日放送(テレビ朝日)社長として勤務。また日本民間放送連盟会長ともなった。 東京都渋谷区出身。1950年(昭和25年)早稲田大学文学部卒業。朝日新聞社入社。78年4月大阪本社編集局長、83年4月東京本社代表。 1983年(昭和58年)6月取締役・東京本社代表、86年6月常務・東京本社代表、87年6月常務・東京本社代表・電子計算室担当、88年6月専務・東京本社代表・電子計算室担当。 1989年(平成元年)6月、顧問を経て全国朝日放送社長に就任し、93年6月代表取締役相談役に退く。
冨澤 繁信(とみざわ しげのぶ、1926年 - )は、日本の… 冨澤 繁信(とみざわ しげのぶ、1926年 - )は、日本の実業家・歴史研究家。日本「南京」学会理事兼事務局長。 神奈川県横浜市生まれ。東京大学文学部ドイツ文学科卒業、更に同大経済学部経済学科入学。 戦後の1951年、住友信託銀行入社。退任後は住商リースで副社長。1998年退任。 「新しい歴史教科書をつくる会」の創立に参加。
有吉 義弥(ありよし よしや、1901年(明治34年)11月… 有吉 義弥(ありよし よしや、1901年(明治34年)11月4日 - 1984年(昭和59年)9月7日)は、昭和期の日本の実業家。日本郵船の元代表。 父・忠一は内務官僚で元貴族院議員。初代中国大使の有吉明と元尼崎市長の有吉実は叔父。三菱重工業横浜造船所所長及び同社常務を歴任した有吉煕は次男。忠一の長女は政治家の山崎巌に、三女は元建設事務次官の柴田達夫に、四女は元日本電信電話公社総裁の米沢滋に、五女は川上嘉市の次男で東宝アドセンター社長を務めた川上流二に嫁いでいるため、山崎・柴田・米沢・流二はいずれも義弥の義弟にあたる。川上嘉市の後妻(旧姓・中島)は天文学者・寺尾寿の後妻(旧姓・大野)の姪にあたるため、有吉家は川上家・中島家・大野家を通じて寺尾家とも姻戚関係で結ばれているといえる。
佐藤 喜一郎(さとう きいちろう、1894年1月22日 - … 佐藤 喜一郎(さとう きいちろう、1894年1月22日 - 1974年5月24日)は、日本の実業家、銀行家。元帝国銀行頭取、三井銀行社長、日本棋院総裁。 神奈川県横浜市出身。横浜一中、一高、1917年東京帝国大学経済学部卒業後、米山梅吉の紹介で、三田会の学閥の色合いが強い戦前の三井銀行(現・三井住友銀行)に入行。ニューヨーク支店長、大阪支店長など、海外要員として経営中枢からは遠ざけられ、1941年には三井銀行の海外担当取締役、1943年の帝銀発足時も常務にあった。戦後は一転して1946年の公職追放の発表に先立って、万代順四郎会長、入間野武雄頭取(大蔵省出身)はじめ、戦前三井財閥のリーダー池田成彬に、池田の子飼でありかつ万代の後継と目されていた大矢知昇常務も退任したため、佐藤が予期せぬ頭取の座に就任した。
高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 195… 高瀬 弥一(たかせ やいち、1887年7月28日 - 1954年10月5日)は、日本の実業家、町会議員、中学校教諭。正式な表記は髙瀨 彌一。莫大な土地を相続し、藤沢市の大地主として、住宅地開発、自動車道路、上水道敷設に功労した。和辻哲郎、林達夫の義兄に当たる。 江之島電氣鐵道が開通して間もなく、現在の柳小路駅と鵠沼駅の中間にあった藤ヶ谷停車場から東の百両山砂丘一帯に2万坪を超す敷地と巨大な冠木門、豪壮な建物で「鵠沼御殿」と噂される高瀬邸が完成した。電車が藤ヶ谷停車場に近づくと、車掌が「次は藤ヶ谷、高瀬邸前」と叫んだという。邸内には少なくとも4軒の離れがあり、大正時代初期に高瀬弥一の先輩に当たる阿部次郎、安倍能成、そして高瀬家の長女・照と結婚した和辻哲郎、さらに茅野雅子が借家して居を構えた。