スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
西川 幸之介(にしかわ こうのすけ、2002年9月11日 -… 西川 幸之介(にしかわ こうのすけ、2002年9月11日 - )は、愛知県出身のプロサッカー選手。Jリーグ・水戸ホーリーホック所属。ポジションはゴールキーパー。 小学生時代は名古屋グランパスエイトのアカデミーに所属していた。その後、愛知県内のクラブを経て藤枝東高校に進学。 2021年、大分トリニータに加入。同年1月29日、早稲田大学人間科学部eスクールに合格したことが発表された。 プロ1年目は公式戦出場無しに終わったが、2年目の2022年3月2日、Jリーグカップ・グループステージ第2節・ガンバ大阪戦にてプロデビュー。天皇杯と合わせて7出場を記録した。 2023年にはJ2リーグ戦34試合に出場し、遂に正GKの座を掴んだ。
稲葉 楽(いなば がく、2002年4月27日 - )は、大阪… 稲葉 楽(いなば がく、2002年4月27日 - )は、大阪府和泉市出身のプロサッカー選手。ポジションはディフェンダー。 中学時代はセレッソ大阪のアカデミーに所属していた。中学卒業後はサッカー強豪校の藤枝東高校に進学(同期に西川幸之介)。 2020年8月24日、2021年シーズンからのツエーゲン金沢加入内定が発表された。また同月28日には特別指定選手に承認された。2021年1月19日、早稲田大学人間科学部eスクールに合格したことが発表された。 2021年よりツエーゲン金沢に正式加入。6月9日、天皇杯2回戦のアルビレックス新潟戦で先発出場しプロデビュー。7月3日、J2第21節のFC琉球戦でスタメン出場しJリーグデビューを果たした。
平尾 拳士朗(ひらお けんしろう、2000年10月9日 - … 平尾 拳士朗(ひらお けんしろう、2000年10月9日 - )は、愛知県出身のプロサッカー選手。Jリーグ・藤枝MYFC所属。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。 藤枝東高校を経て、卒業後は中央大学に進学。同大サッカー部では荒木遼太らとプレーした。2022年7月、2023年シーズンからの藤枝MYFC加入内定が発表された。 2023年3月19日、J2リーグ第5節の東京ヴェルディ戦で途中出場しプロデビュー。 2024年9月12日、結婚発表。 中央大学学友会サッカー部
長沢 祐弥(ながさわ ゆうや、1996年7月1日 - )は、… 長沢 祐弥(ながさわ ゆうや、1996年7月1日 - )は、静岡県出身のプロサッカー選手。Jリーグ・東京ヴェルディ所属。ポジションはゴールキーパー。 中学時代はアスルクラロ沼津の下部組織であるACNジュビロ沼津でプレー。藤枝東高校では熱川徳政と共に全国高校サッカー選手権に出場した。明治大学サッカー部では2018年に総理大臣杯優勝を果たした。 12年:U-16日本代表 2019年シーズンよりアスルクラロ沼津に加入。第9節ヴァンラーレ八戸戦において、負傷した朴昇利に代わって出場。これがJリーグデビューとなった。 2020年12月30日、東京ヴェルディへの完全移籍が発表された。加入後はマテウスや柴崎貴広に次ぐ3番手だったが、第41節ブラウブリッツ秋田戦でマテウスの負傷により途中出場し、加入後初出場を果たした。
片井 巧(かたい たくみ、1995年11月14日 - )は、… 片井 巧(かたい たくみ、1995年11月14日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロサッカー選手。ポジションは、ミッドフィールダー(MF)。 藤枝東高校3年次にセンターフォワードで起用され、全国高校サッカー選手権静岡県大会で得点王とMVPを獲得した。 鹿屋体育大学を経て、2018年よりFC今治へ加入した。 2019年7月に四国サッカーリーグの高知ユナイテッドSCに期限付き移籍。 2020年、FC今治に復帰もこの年でFC今治を退団。 2021年、VONDS市原に移籍。 2022年をもって現役を引退。
熱川 徳政(あつかわ のりまさ、1995年5月31日 - )… 熱川 徳政(あつかわ のりまさ、1995年5月31日 - )は、静岡県富士市出身のサッカー選手。ポジションは、ディフェンダー(DF)。 中学校時代はACNジュビロ沼津に所属し、藤枝東高校を経て、駒澤大学へ進学した。 2018年より、アスルクラロ沼津へ加入。開幕戦からスタメン出場を果たす。 2020年1月31日、現役引退が発表されたが、東海社会人サッカーリーグ1部の矢崎バレンテで現役復帰。
藤田 息吹(ふじた いぶき、1991年1月30日 - )は、… 藤田 息吹(ふじた いぶき、1991年1月30日 - )は、愛知県名古屋市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・ファジアーノ岡山所属。ポジションはミッドフィールダー(MF)。 静岡県立藤枝東高等学校では2年次の第86回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝を経験。進学先の慶應義塾大学では1年次から定位置を確保し、U-19日本代表にも選出された。2010年12月には大阪で行われたアルベルト・ザッケローニ監督率いるサッカー日本代表のトレーニングキャンプにも参加。 2013年、大学在学中に何度か練習参加していた清水エスパルスに入団。5月22日、ヤマザキナビスコカップの横浜F・マリノス戦でプロデビューを果たした。
石神 幸征(いしがみ こうせい、1990年1月11日 - )… 石神 幸征(いしがみ こうせい、1990年1月11日 - )は、日本のサッカー選手。ポジションは、ミッドフィールダー、ディフェンダー。 元日本代表の石神良訓を叔父に持ち、父親、兄もサッカー選手だった一家で生まれ育った。体が大きくなった中学の頃から守備的ポジションでプレーするようになる。藤枝東高校では2007年の全国高校選手権で準優勝し、大会優秀選手に選ばれた。 筑波大学を経て、2012年より水戸ホーリーホックに入団。2014年に右足首の多発性関節炎で手術し2015年に復帰したが、2016年シーズン限りで契約満了。 Jリーグ合同トライアウトに参加した後、ガイナーレ鳥取に加入。2017年シーズン限りで現役を引退。
村松 大輔(むらまつ たいすけ、1989年12月16日 - … 村松 大輔(むらまつ たいすけ、1989年12月16日 - )は、静岡県焼津市出身の元プロサッカー選手。ポジションはDF。 第86回全国高校サッカー選手権大会で藤枝東高校の一員として準優勝に貢献し、大会優秀選手にも選ばれた。卒業後は日本フットボールリーグ所属のHonda FCに入団した。当時アマチュア体制であったHonda FC所属中、試合のない日は、午前中に本田技研工業浜松製作所に勤務(村松は自動車用部品のギア製造ラインを担当)し、午後からトレーニングという日々を送っていた。(なお、他のHonda FC所属選手も同様の生活を送っている。)その最中、U-19日本代表に選出され、FIFA U-20ワールドカップのアジア最終予選で全試合にレギュラーとして出場した。
河井 陽介(かわい ようすけ、1989年8月4日 - )は、… 河井 陽介(かわい ようすけ、1989年8月4日 - )は、静岡県藤枝市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはMF。 妻は静岡朝日テレビ元アナウンサーの広瀬麻知子。 静岡県藤枝市出身。藤枝市立青島小学校1年の時に青島SSSでサッカーを始める。藤枝市立青島中学校時代は藤枝東FCに所属。高校は静岡の名門・静岡県立藤枝東高等学校に入学した。高校3年時に同期の村松大輔らとともに第86回全国高校サッカー選手権大会に出場、中心メンバーとして準優勝に貢献し、大会優秀選手にも選ばれた。しかし、決勝で大敗を喫した流通経済大学付属柏高等学校の大前元紀との差を痛感した河井は「プロなんて考えなかった。まずは慶應に進学して、将来何をやるか考えようと思った」と、慶應義塾大学法学部政治学科に指定校推薦で進学した。
山田 大記(やまだ ひろき、1988年12月27日 - )は… 山田 大記(やまだ ひろき、1988年12月27日 - )は、静岡県浜松市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。 現在はジュビロ磐田のCROを務める。 静岡県生まれであるが、4歳まで愛知県で過ごす。サッカーの道に進んだのも4歳の時に、ずっと外で遊んでいたのを見た親が幼稚園にあったサッカークラブに入るのを進めたのが、サッカーを始めた切っ掛けであると語っている。5歳のときに静岡に戻り、幼稚園でやっていたヤマ・スポーツクラブのサッカー教室に入る。その後ジュビロ磐田と出会い、ジュビロの下部組織であるジュビロSS浜松に所属、ジュニアユースまで所属し、高校は静岡の名門藤枝東高に進学。
原田 圭輔(はらだ けいすけ、1988年6月11日 - )は… 原田 圭輔(はらだ けいすけ、1988年6月11日 - )は、北海道出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはDF。
中村 祐輝(なかむら ゆうき、1987年6月4日 - )は、… 中村 祐輝(なかむら ゆうき、1987年6月4日 - )は、静岡県静岡市出身の元プロサッカー選手、実業家。 中学2年生時に清水エスパルスのジュニアユースに入団する(同級生には山本真希)も、ユースには昇格できずに静岡県立藤枝東高等学校に進学。2年時には全国高等学校サッカー選手権大会にも出場。赤星貴文は1年先輩にあたる。 卒業後は国士舘大学に進学。在学中にはアルゼンチンに留学し、同校卒業後にルーマニア2部リーグのCFRクライオバに入団。 2012年にはチェコ・ガンブリヌス・リガのFKヴィクトリア・ジジュコフに移籍。 保有権が同チームに残されたまま、スロバキア・2.リーガ(2部)のMSKリマフスカ・ソバタにレンタル移籍するも、サポーターからの人種差別の被害に合うトラブルに見舞われ、9月に帰国した。
碓井 健平(うすい けんぺい、1987年5月15日 - )は… 碓井 健平(うすい けんぺい、1987年5月15日 - )は、千葉県柏市出身の元サッカー選手。ポジションはゴールキーパー(GK)。 元サッカー日本代表FWの碓井博行は実父。 当初は父と同じくFWとしてプレーしていたが、小学5年の時にコーチから「キーパーがいないし、お前は体が大きいからやってくれ」と言われたのがきっかけで、GKを始めた。藤枝東高校を経て筑波大学に進学し、一年時からレギュラーに選ばれる。2008年の第57回全日本大学サッカー選手権大会で準優勝に貢献した。大学卒業後、2010年に清水エスパルスに入団した。 2011年シーズン序盤は山本海人の控えだったが、チームがJ1第11節ヴィッセル神戸戦で1-5の大敗を喫したことで、アフシン・ゴトビ監督に出場機会を与えられる。
赤星 貴文(あかほし たかふみ、1986年(昭和61年)5月… 赤星 貴文(あかほし たかふみ、1986年(昭和61年)5月27日 - )は、静岡県富士市出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 静岡県東部の富士市に生まれ、地元の少年団神戸(ごうど)FCでサッカーを始める。中学時代は清水エスパルスジュニアユースに所属し、枝村匠馬らとクラブ日本一を経験した。この当時から年代別の代表に名を連ねる選手であった。 高校時代は清水ユースへと進まず、藤枝東高校に進学。先輩の成岡翔から受け継いだ10番を背負い、1年時からスタメンに定着した。在学当時、総体に2年連続出場、全日本ユース、高校選手権に2年連続と、当時の静岡勢としては最も多くの全国大会を経験したにもかかわらず、全国大会での目立ったタイトルはなく、三年時に静岡県選抜として優勝した埼玉国体が唯一のタイトルである。
成岡 翔(なるおか しょう、1984年5月31日 - )は、… 成岡 翔(なるおか しょう、1984年5月31日 - )は、静岡県島田市出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。 静岡県の強豪、藤枝東高校で中心選手として活躍。高校在学中から各年代の日本代表に選出された。藤枝東高の同期には磐田時代のチームメイトであった大井健太郎、岡田隆(岡田とはアビスパ福岡、大井とはアルビレックス新潟でもチームメイトとなる)、1学年先輩には長谷部誠、岡田佑樹、2年後輩に赤星貴文がいる。 ワールドユースに出場したユース代表でも中心選手として活躍し将来を嘱望されていたが、高校時代の目立ったタイトルはないため「無冠の帝王」と呼ばれていた。高校卒業時、Jリーグの各クラブが獲得に名乗りを上げたが、最終的に当時Jリーグ二強を誇った鹿島アントラーズと強化指定選手に登録されていたジュビロ磐田に進路を絞る。
大井 健太郎(おおい けんたろう、1984年5月14日 - … 大井 健太郎(おおい けんたろう、1984年5月14日 - )は、静岡県藤枝市出身のプロサッカー選手。ポジションはDF。 静岡県の強豪、藤枝東高校で中心選手として活躍。高校在学中から各年代の日本代表に選出された。藤枝東高の同期には磐田時代のチームメイトであった成岡翔、岡田隆(成岡とはアルビレックス新潟でもチームメイトとなる)、1学年先輩には長谷部誠、岡田佑樹、2年後輩に赤星貴文がいる。2003年にジュビロ磐田へ入団。同期入団の成岡、菊地直哉とともに将来のジュビロを担う選手と期待されたが、2011年は出場機会を求めて湘南ベルマーレへ期限付き移籍。湘南ではレギュラーに定着し、シーズン途中からキャプテンを任された。
岡田 隆(おかだ りゅう、1984年4月10日 - )は、日… 岡田 隆(おかだ りゅう、1984年4月10日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはDF、MF(ボランチ)。静岡県藤枝市出身。 ジュビロ磐田のジュニアユースであるジュビロSS掛川でプレーし、高校時代はサッカーの名門・ 藤枝東高校で成岡翔や大井健太郎と共にプレーした。筑波大学進学後は1年生でレギュラーを奪取し、大学選抜チームの常連でもあった。 2007年に、中学生時代にプレーしたジュビロ磐田のオファーを受けて入団。守備の職人であった服部年宏移籍後の後継者として期待され、2年目の終盤はけが人続出のDFラインの一角を担い、磐田のJ1残留に貢献した。2009年と2010年にはレギュラーとしてプレーすることも増えた。
長谷部 誠(はせべ まこと、1984年1月18日 - )は、… 長谷部 誠(はせべ まこと、1984年1月18日 - )は、静岡県藤枝市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。元日本代表。2025年10月10日現在、フランクフルトIIでアシスタントコーチ、サッカー日本代表のコーチングスタッフとして、ドイツと日本の2カ国でサッカーチームの業務をこなしている. 妻はモデルの佐藤ありさ。 2006年から、代表引退を発表した2018年まで日本代表に選ばれ続け、キャプテンとしてワールドカップに3度出場(2010年・2014年・2018年)。キャプテンとして出場した代表での試合数は81試合で、日本代表歴代1位である。
金澤 大将(かなざわ ひろまさ、1983年12月1日)は、静… 金澤 大将(かなざわ ひろまさ、1983年12月1日)は、静岡県榛原郡中川根町(現:川根本町)出身の元サッカー選手、サッカー指導者、教育者。ポジションはDF、MF。 大学4年次に2005年夏季ユニバーシアードのサッカー日本代表に選出され優勝に貢献。大学卒業後の2006年に横浜FCに入団。開幕戦で右サイドバックのスタメンに抜擢されたが出場はその1試合に終わった。2007年にら水戸ホーリーホックに期限付き移籍し、中盤のチャンスメーカーとして活躍した。2008年に水戸へ完全移籍した。2010年にSC相模原に完全移籍。2011年限りで現役を引退した。 2012年から菊川南陵高等学校のサッカー部監督に就任し、指導者へ転身、2014年4月より同校の校長に就任した。
岡田 佑樹(おかだ ゆうき、1983年10月4日 - )は、… 岡田 佑樹(おかだ ゆうき、1983年10月4日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手(ミッドフィールダー、ディフェンダー)。 高校卒業後、プロ入りは叶わず、2002年は東海1部中央防犯藤枝SCにアマチュア選手として所属した。 しかし当時川崎フロンターレのスカウトだった城福敬(城福浩の兄)は岡田を注視し続けており、チーム事情により川崎ではオファーを出さなかったが、城福敬がコンサドーレ札幌の強化部入りした2003年にオファーを受け入団 。俊足で巧みなドリブルもできる運動量豊富な右サイドハーフとして徐々にスターティングメンバーとして定着していった。 しかし、2006年に新加入した芳賀博信や藤田征也の台頭により出場機会を失い、復活を期した2007年の開幕前キャンプでは負傷を負い、2年連続リーグ戦に不出場となった。
河村 優(かわむら ゆう、1980年12月1日 - )は、静… 河村 優(かわむら ゆう、1980年12月1日 - )は、静岡県焼津市(旧・志太郡大井川町)出身の元Jリーグのサッカー選手(FW)。
佐賀 一平(さが いっぺい、1980年5月20日 - )は、… 佐賀 一平(さが いっぺい、1980年5月20日 - )は、日本のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィルダー。北海道出身。 藤枝東高等学校から1999年にコンサドーレ札幌に入団。その後、モンテディオ山形、沖縄かりゆしFCを経て、2004年に現役を引退しコンサドーレ札幌ユースU-18・U-12コーチを務めた。その後、コンサドーレ札幌時代のチームメイトの野々村芳和が代表を務める株式会社クラッキにて、黄川田賢司、大森健作らと共に元Jリーガーが教えるサッカースクール「エスコーラ・ジ・クラッキ」のコーチとしてサッカースクールでの指導・普及活動を行う。2012年春から母校である藤枝東高等学校のヘッドコーチを務める。
石川 竜也(いしかわ たつや、1979年12月25日 - )… 石川 竜也(いしかわ たつや、1979年12月25日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(左サイドバック、センターバック)。 西益津小のスポーツ少年団、西益津中サッカー部を経て静岡県の名門藤枝東高校に入学した。高校2年より左サイドバックとしてプレーするようになる。 高校卒業後は筑波大学に進学。同期に羽生直剛、平川忠亮、鶴見智美がいる。在学中にU-19、U-20日本代表に選ばれ、AFCユース選手権1998にはレギュラーとして出場、1999 FIFAワールドユース選手権 ナイジェリア大会にはチームで唯一の大学生選手として参加し、準優勝に貢献。イングランド戦では間接フリーキックからのゴールも記録した。
山田 暢久(やまだ のぶひさ、1975年9月10日 - )は… 山田 暢久(やまだ のぶひさ、1975年9月10日 - )は、静岡県藤枝市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー、フォワード。元日本代表。弟の山田智紀は元プロサッカー選手。 1994年の入団以来、浦和レッズ一筋でプレーしたバンディエラである。 1994年に藤枝東高校から浦和レッズに入団。デビュー当時はフォワードで福田正博と2トップを組むこともあったが、1995年以降は主に右サイドバックや右ウイングバックとしてプレーしている。その他にもトップ下、ボランチ、センターバックなど、ゴールキーパーを除くあらゆるポジションで起用される。 2003年は日本代表の右サイドバックに定着した。
渡辺 毅(わたなべ たけし、1972年9月10日 - )は静… 渡辺 毅(わたなべ たけし、1972年9月10日 - )は静岡県藤枝市出身の元サッカー選手(ディフェンダー)。 1995年に柏レイソルに入団。2004年シーズン限りで現役引退し、現在はJリーグ・柏レイソルのジュニアチームでコーチを務めている。1999年のJリーグカップ決勝MVP。
西形 浩和(にしがた ひろかず、1972年6月15日 - )… 西形 浩和(にしがた ひろかず、1972年6月15日 - )は、静岡県出身のサッカー指導者。 福岡大学大学院ではコーチ学を専攻し、2004年からは大分トリニータのフィジカルアシスタントコーチに就任。2006年に湘南ベルマーレへ移り、育成部やフットサルクラブでフィジカルコーチを務めた。2012年よりトップチームのS&Cコーチに就任。
見崎 充洋(みさき みつひろ、1970年5月6日 - )は、… 見崎 充洋(みさき みつひろ、1970年5月6日 - )は、静岡県焼津市出身の元サッカー選手。ポジションはDF(右サイドバック)、MF。現在 藤枝東FC U-14監督を務めている。 静岡県立藤枝東高等学校から明治大学を経て、当時ジャパンフットボールリーグ所属のヤンマーに入団。 ヤンマーがプロ化されセレッソ大阪となった後もユーティリティープレーヤーとして主に右サイドバックや守備的ミッドフィルダーのポジションでプレーした。 1994年10月20日の第25節・対藤枝ブルックス戦では延長後半にチームのJリーグ昇格を決めるVゴールを挙げた。チームはリーグ優勝も果たした。 Jリーグ昇格後も1996年までチームに在籍し、1997年からは静岡県リーグの藤枝ネルソンに移籍した。
稲垣 博行(いながき ひろゆき、1970年4月24日 - )… 稲垣 博行(いながき ひろゆき、1970年4月24日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー。 藤枝東高校、法政大学を経てヤンマー/セレッソ大阪に入団、1998年までプレーした。その後、新しくできた横浜FCに移籍。2シーズンプレーし、チームがJFLからJ2リーグへの昇格と同時に退団、そのシーズンを最後に引退した。
小川 光生(おがわ みつお、1970年(昭和45年)- )は… 小川 光生(おがわ みつお、1970年(昭和45年)- )は、日本の翻訳家、サッカーライター。日本文藝家協会会員および大阪芸術大学教授、日本翻訳家協会会員。父は小説家の小川国夫。 1970年(昭和45年)、静岡県藤枝市に生まれる。 静岡県立藤枝東高等学校を卒業後、慶應義塾大学文学部西洋史学科に入学し、イタリアローマ教会史を専攻する。同大学大学院中退。1999年(平成11年)、シエナ大学に留学。2000年(平成12年)、ヴェネツィアに移住。2010年以降、セリエAの中継インタビュアー兼記者として取材に従事する。帰国後の2020年には、東京オリンピックのイタリアナショナルチームの通訳を務めた。 イタリアサッカー専門誌の翻訳のほか、ヨーロッパサッカーや長友佑都などの海外で活躍する日本人選手を取材し、執筆活動を行っている。
三上 明紀(みかみ あきのり、1969年6月12日 - )は… 三上 明紀(みかみ あきのり、1969年6月12日 - )は、静岡県焼津市出身のプロサッカー選手。ポジションは主にフォワード。 静岡県立藤枝東高等学校から1988年に日本サッカーリーグの三菱重工業サッカー部(後の三菱自動車工業サッカー部、浦和レッズ)に進む。Jリーグでは、1993年の発足から1994年の引退までに計13試合に出場した。 左サイドからの快速をいかした突破を得意としており、Jリーグ発足後はサイドバックとしてもプレーした。 現役引退後の2008年12月3日、インターネットの掲示板で知り合った14歳の少女に売春させたとして、愛知県警中村署などは児童福祉法違反の疑いで逮捕。売春を斡旋した男性から現金を脅し取ろうとし、男性が被害届を出していた。
加藤 寿一(かとう としかず、1969年4月22日 - )は… 加藤 寿一(かとう としかず、1969年4月22日 - )は、静岡県出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA公認A級コーチ)。 吉田中学時代、平木隆三監督のもと、礒貝洋光・菊原志郎らと共に1984年第1回アジアジュニア選手権に出場。藤枝東高校を卒業後、筑波大学へ入学。高校と大学の先輩に中山雅史。 大学を卒業後、ミズノに入社。その後はサンフレッチェ広島担当として働く。 1995年にゴールキーパーコーチとしてサンフレッチェ広島へ入団。同年、正GKの前川和也が負傷してしまい、控えの河野和正・2年目の下田崇・ルーキーの玉田真人の3人だけになり、しかも下田がU-20日本代表に選ばれワールドユースに出場し不在になるため、緊急事態にそなえ選手登録された。
加藤寿一(かとう としかず、1969年4月22日 - )は、… 加藤寿一(かとう としかず、1969年4月22日 - )は、静岡県出身のサッカー指導者(JFA公認A級コーチ)。現Jリーグ・サンフレッチェ広島ジュニアユースGKコーチ。
中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は… 中山 雅史(なかやま まさし、1967年9月23日 - )は、静岡県志太郡岡部町(現:藤枝市)出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード(センターフォワード)。 日本プロサッカー選手会名誉会長。愛称の「ゴン」「ゴン中山」は元サッカー選手の鋤柄昌宏がつけた。これは大学時代、当時の先輩に「オレたちひょうきん族に登場したビートたけし扮する鬼瓦権造に顔が似ている」と言われたことから。ほかに、中山隊長、隊長の愛称がある。1996年から1998年までジュビロ磐田でキャプテンを務めた。 日本代表として1998 FIFAワールドカップ、2002 FIFAワールドカップにも出場。1998年のFIFAワールドカップ本大会で日本代表のW杯初ゴールを決めている。
倉田 安治(くらた やすはる、1963年2月1日 - )は、… 倉田 安治(くらた やすはる、1963年2月1日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはディフェンダー。 藤枝東高校3年次の高校選手権(1979年度)に出場、優勝候補の一角と目されたが1回戦敗退に終わった。卒業後は筑波大学に進学。4年次の1985年にユニバーシアード代表 に選出され、同年8月の神戸大会に出場しベスト4進出に貢献した。 1986年に本田技研工業に入部。また同年に日本代表に選出され、1987年のソウル五輪アジア予選など国際Aマッチ6試合に出場。1989 FIFAフットサル世界選手権にフットサル日本代表として出場した。北澤豪共々読売サッカークラブ所属選手として日本リーグ最終シーズンを過ごした。
大橋 昭好(おおはし あきよし、旧姓:菅藤、1962年12月… 大橋 昭好(おおはし あきよし、旧姓:菅藤、1962年12月11日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。 藤枝東高校2年時に高校選手権に出場し、初戦敗退。 卒業後の1981年に日本サッカーリーグのヤマハ発動機(後のジュビロ磐田)に加入。2年目の1982年シーズンに出場機会を得ると、JSL2部優勝に貢献。天皇杯では決勝のフジタ工業戦を無失点に抑えてチームの初優勝に貢献した。 翌1983年、大学NO.1キーパーと称され、後に日本代表となる森下申一が加入すると、出場機会を失うようになった。「シュートに対する反応の早さ」が持ち味の森下に対して、1対1の強さに定評があったが、ヤマハではJSL1部通算12試合出場に留まった。
小川 佳実(おがわ よしみ、1959年6月23日 - )は静… 小川 佳実(おがわ よしみ、1959年6月23日 - )は静岡県出身の元サッカー審判員(国際主審)。アジアサッカー連盟 (AFC) 審判部長(レフェリーディレクター)、日本サッカー協会 (JFA) 審判委員長を歴任した。 静岡県立藤枝東高等学校を経て筑波大学体育専門学群に進学。在学中は蹴球部でプレーし、帰郷後高校教諭を務める傍ら、教員チームでもプレーをした。現役引退後審判としての活動を本格化させ、1994年のヤマザキナビスコカップでは決勝の主審も務めた。 1997年3月に教員を辞め、翌月から日本サッカー協会 (JFA) の職員となり、審判部部長代理としてサッカー審判関係の取りまとめに従事(この時の業務負担の兼ね合いから1998年に審判員としての活動から退いている)。
大野 聖吾(おおの せいご、1958年5月28日 - )は、… 大野 聖吾(おおの せいご、1958年5月28日 - )は、日本のサッカー指導者。元岐阜工業高等学校サッカー部監督。アルビレックス新潟の成岡翔は甥。 静岡県藤枝市出身。藤枝東高校3年時に静岡県選抜に選出され国体で優勝。高校卒業後に筑波大学へ進学すると大学選手権優勝2回(1979年、1980年)、関東大学リーグ優勝1回(1980年)に貢献。4年時の1980年には全日本学生選抜に選出されマラハリムカップに出場した。 卒業後は日本サッカーリーグの数チームからの誘いを固辞して教員の道を選び、岐阜藍川高校、岐阜工業高校、大垣北高校、大垣工業高校のサッカー部監督を歴任。 岐阜工業高校時代の1998年の高校総体では準優勝。
池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、… 池谷 孝(いけがや たかし、1957年4月10日 - )は、静岡県藤枝市出身のサッカー指導者。 筑波大学卒業後、静岡県サッカー教員団で指導者のキャリアをスタートさせる。以降は地元静岡県を中心に中高生を指導した。2004年にJFA Proライセンスを取得。 2023年7月19日、WEリーグ・ちふれASエルフェン埼玉の監督に就任。66歳にして初の女子の指導となる。 2024年10月16日に検査入院のため指揮から離れることが発表され、12月18日に健康上の都合で正式にちふれASエルフェン埼玉監督を辞任した。
服部 康雄 (はっとり やすお、1956年 - )は日本出身… 服部 康雄 (はっとり やすお、1956年 - )は日本出身のサッカー指導者、元サッカー選手。選手時代のポジションはMF。静岡県教育委員会スポーツ振興室主席指導主事を経て、静岡県立静岡西高等学校副校長、静岡県立島田工業高等学校校長。現在は静岡県サッカー協会専務理事を務める。 藤枝市立藤枝中学校3年次の全国中学校サッカー大会で準優勝。高校は地元の静岡県立藤枝東高等学校へ進学。1年次からレギュラーの座を掴み、1972年度、1973年度の全国高等学校サッカー選手権大会では中村一義らと共に2年連続準優勝に貢献した。 大学は東京教育大学(筑波大学の前身)に進学したが腰の怪我のためトップレベルでのプレーを断念。
中村 一義(なかむら かずよし、1955年4月8日 - )は… 中村 一義(なかむら かずよし、1955年4月8日 - )は、日本の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW(左ウイング)。静岡県藤枝市出身。川崎フロンターレの前身である富士通サッカー部などに所属し、日本代表としても、国際Aマッチ5試合に出場し1得点した。 西益津中学校3年次に全国中学校サッカー大会優勝に貢献し注目される。高校はサッカーの名門藤枝東高校に進学するとレギュラーの座を掴み、4-2-4システムを採用する同校の左ウイングとして、第51回大会(1973年)と第52回大会(1974年)の全国高校サッカー選手権大会の2年連続準優勝に貢献した。主将として挑んだ3年次の高校選手権決勝の北陽高校戦では自身の上げた得点がオフサイドと判定される不運もあった。
碓井 博行(うすい ひろゆき、1953年8月4日 - )は、… 碓井 博行(うすい ひろゆき、1953年8月4日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。サッカー選手の碓井健平は実子。 強烈なキック力を持ち、得意とした右斜め45度エリアからのシュートで多くのゴールを挙げたストライカー。 静岡県立藤枝東高等学校、早稲田大学を経て、1976年にJSLの日立製作所(現柏レイソル)に入部。2度のJSL得点王(1980年、1982年)に輝き、「第55回天皇杯全日本サッカー選手権大会」、「第1回JSLカップ」優勝に貢献した。1988年に現役引退するまでJSL通算200試合出場85得点28アシストの記録を残している。 1974年から日本代表に名を連ね、「1978 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選」、「1980年モスクワオリンピック」予選に出場。
堀井 美晴(ほりい よしはる、1953年3月16日 - 20… 堀井 美晴(ほりい よしはる、1953年3月16日 - 2025年8月23日)は、静岡県藤枝市出身の元日本代表サッカー選手、コーチ・監督。 静岡県の藤枝東高校卒業後、日本サッカーリーグ(JSL)のヤンマー(現セレッソ大阪)でプレーし、JSLでは通算204試合出場46得点を記録した。 引退後はヤンマーのコーチ、セレッソ大阪のスカウト、ガンバ大阪のコーチ、サテライトチームの監督を務めた後、2001年に川崎フロンターレ監督に就任した。しかしチームの調子は上がらずシーズン途中で解任された。その後は2003年に神戸国際大学サッカー部監督、2004年にジュビロ磐田ヘッドコーチを務め、2005年から2007年まで川崎フロンターレU-18の監督であった。
小長谷 喜久男(こながや きくお、1950年7月16日 - … 小長谷 喜久男(こながや きくお、1950年7月16日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者、Jリーグクラブフロントスタッフ。 明治大学卒業後、ヤマハ発動機サッカー部(現・ジュビロ磐田)に入部して選手としてプレー。 引退後の1987年にヤマハの監督に就任。就任初年度の1987/88シーズンにチームを日本サッカーリーグ(JSL)1部優勝に導いている。ヤマハがジュビロ磐田へと移行した後はフロントスタッフとしてチームの躍進を支えた。 1999年11月からはメインスポンサーフジタの撤退で存続が危ぶまれていたベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)の運営を引き継ぐ新法人・株式会社湘南ベルマーレの社長に就任、3年半にわたり社長を務め、クラブの経営を立て直した。
井澤 千秋(いざわ ちあき、1949年1月28日 - 201… 井澤 千秋(いざわ ちあき、1949年1月28日 - 2018年9月10日)は、日本(静岡県藤枝市出身)の元サッカー選手、元サッカー指導者。 現役時代のポジションはミッドフィールダー。元サッカー日本代表。 日本サッカーリーグでは、102試合出場し、通算6得点、通算6アシストを記録。また、日本U-20代表として1967年から1968年にかけて2試合に出場。1971年から1972年には日本代表に選出されたが、国際Aマッチの出場はなかった。 1987年より明治大学サッカー部コーチを務め、監督を経て総監督、GM(ゼネラルマネージャー)を歴任。 藤枝市立西益津中学校、静岡県立藤枝東高等学校を経て明治大学に進学。
松永 章(まつなが あきら、1948年8月8日 - )は、静… 松永 章(まつなが あきら、1948年8月8日 - )は、静岡県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ゴールへの嗅覚の鋭さから「ハイエナ」の異名で呼ばれたストライカーである。 1967年の藤枝東高校3年次にはキャプテンとして同校を戦後初となる選手権、高校総体、国体の3冠獲得に導き(なお、3年時の公式戦の記録は72戦70勝2分である)日本ユース代表に選出された。その後、早稲田大学を経て、1971年に日本サッカーリーグの日立製作所サッカー部に入部した。 日立では監督・高橋英辰の厳しい指導の下「走る日立」の異名で呼ばれたチームの中心選手として1972年の日本リーグ初制覇に貢献。また、得点ランキングにも常に顔を出し、釜本邦茂とは毎年激しい得点王争いを繰り広げ、2年連続で得点王(1972年、1973年)に輝いた。
桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日… 桑原 隆(くわはら たかし、1948年5月5日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。静岡県藤枝市出身。フットメディアに所属。 現役時代は古河電気工業サッカー部(ジェフユナイテッド市原・千葉の前身)で16年間にわたりプレーし、現役晩年にはコーチも兼任。PJMフューチャーズ/鳥栖フューチャーズでも選手兼任コーチを務め、1989年12月9日の天皇杯一回戦(対TDK戦)では、熊谷義一に代わり41歳という年齢で交代出場を果たしている。[要出典]1996年に強化育成アドバイザーとしてジュビロ磐田入りした。 1997年にトップチームコーチに就任し、監督のルイス・フェリペ・スコラーリの下で指導を行う。
岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 -… 岡村 新太郎(おかむら・しんたろう、1948年4月21日 - 2013年4月26日)は、日本の元サッカー選手、指導者。 静岡県藤枝市出身。現役時代は静岡県立藤枝東高等学校、法政大学、日本鋼管でプレイした。 静岡県立藤枝東高等学校時代には同級生に松永章(後に日立製作所)と桑原隆(後に古河電気工業を経てジュビロ磐田監督)がおり、彼らと共に高校3年次には1966年(昭和41年度)の全国高等学校サッカー選手権大会、全国高等学校総合体育大会、第21回国民体育大会(大分県)少年の部を全て制覇し、史上初の高校三冠の栄冠に輝いた。 高校卒業後に法政大学へ進学、大学4年次では主将に任命され、1970年の第19回全国大学サッカー選手権大会で優勝を果たした。
山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )… 山口 芳忠(やまぐち よしただ、1944年9月28日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはディフェンダー。1968年メキシコシティーオリンピックにおいて日本代表が銅メダルを獲得した時の選手の一人。藤枝市初代市長の山口森三は父に当たる。 静岡県藤枝市出身。藤枝東高校時代はフォワードとしてプレー。日本ユース代表に選出され、1962年、1963年のアジアユース大会に出場した。 中央大学に入学してサッカー部に入部し、ディフェンダーへ転向。4年次には主将を務め1966年の関東大学リーグ制覇に貢献した。 また大学在学中の1964年に日本代表に選出され10月16日の東京オリンピック1次リーグガーナ戦で国際Aマッチデビュー を飾り、これ以降左サイドバックのレギュラーとして定着。
菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -202… 菊川 凱夫(きくがわ よしお、1944年9月12日 -2022年12月2日)は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 静岡県立藤枝東高校時代に全国選手権大会で優勝した実績を持つ。明治大学を経て、1968年に三菱重工業サッカー部に加入し、サイドバックとして三菱黄金時代を支えた。また、1969年6月19日のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦で日本代表として初出場した。 1974年に現役を一度引退。地元に戻り家業を継ぐ。1976年、藤枝市の志太クラブに入団。静岡県社会人サッカーリーグでプレーし、1980年には選手兼任監督に就任した。 将来の日本サッカーをリードしようと1982年に創部した中央防犯サッカー部に監督として入社。