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山本 芳彦(やまもと よしひこ、1983年11月6日 - )… 山本 芳彦(やまもと よしひこ、1983年11月6日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手)。 和歌山工高では投手として活躍し、高校3年時の夏には和歌山予選1回戦で前年度夏の甲子園優勝校の智辯和歌山高校と対戦。投打に活躍を見せ武内晋一が主将を務めていた同校を1回戦敗退に追い込む。2回戦の県立和歌山商高戦では2本塁打を放ち勝利するが、3回戦の日高高戦で0-5で敗退する。 通算21本塁打。またエースで4番でありながら高校通算60盗塁以上を走る俊足と走塁センスをもっていた。 2001年のプロ野球ドラフト会議で、広島東洋カープに打力を見込まれて野手として7巡目指名を受け入団した。 二軍では毎年60試合以上に出場して主力選手として活躍。
中本 和希(なかもと かずき、1981年4月18日 - )は… 中本 和希(なかもと かずき、1981年4月18日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手)。 和歌山工業高では、2年次から遊撃手のレギュラーとなる。3年時には夏の県大会でベスト4に進んだ。 高校卒業後は、近畿大学工学部に進学し硬式野球部でプレー。1年次から遊撃手のレギュラーになり、大学選手権では初打席で先頭打者本塁打。広島六大学野球で春3回、秋1回の優勝を経験した。また、ベストナインにも3回選ばれている。 2003年、プロ野球ドラフト会議で大阪近鉄バファローズから6巡目指名を受け入団。 2004年オフ、分配ドラフトでオリックス・バファローズに移籍。 入団以降故障が続き、一軍出場はないまま2006年10月5日に戦力外通告を受けた。
中出 謙二(なかで けんじ、1954年11月3日 - )は、… 中出 謙二(なかで けんじ、1954年11月3日 - )は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(捕手)。 和歌山工業高では3年次の1972年、夏の甲子園和歌山県予選準々決勝に進むが、桐蔭高に敗れる。 卒業後は1973年に新日本製鐵堺へ入社し、都市対抗に4年連続で出場したほか、1977年には第3回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出される。ヤクルトの片岡宏雄スカウトが大矢明彦に続く捕手を獲得するため、新日鉄堺グラウンドへ中出の視察に赴いたことがあったが、現役時代捕手でもあった片岡は「こんなレベルじゃプロでは通用せえへんな」と、即決で中出の獲得を断念。この時に片岡の目に留まったのが中出の後輩の投手・尾花高夫である。
竹田 利秋(たけだ としあき、1941年1月5日 - )は、… 竹田 利秋(たけだ としあき、1941年1月5日 - )は、和歌山県出身の学生野球指導者。社会科教諭。和歌山県立和歌山工業高等学校→國學院大學卒業。東北高等学校、仙台育英学園高等学校野球部監督、國學院大學硬式野球部監督を経て現在は國學院大學硬式野球部総監督。 和歌山工高3年春に三塁手として甲子園出場。大学卒業後銀行員として勤めていたが、当時東北高校野球部を指導していた同じく國學院大學野球部OBの松尾勝栄監督の後任者として招聘され、東北高野球部コーチに就任。 1968年、監督に就任し同年7年ぶりに夏の甲子園出場。これを最後に帰郷しようと考えるも、抽選会で自校を含む東北・北海道勢のチームとの対戦が決まった西日本のチームが、戦わずして勝ったといわんばかりの拍手歓声を挙げて喜ぶのに対し、東北・北海道勢の学校の生徒は下をうつむいている様子を見て、この状況をなんとか変えたいと思うようになり、以後、東北高を甲子園で勝てる強豪校へと育て上げる。
河野 旭輝(こうの あきてる、1935年1月1日 - 201… 河野 旭輝(こうの あきてる、1935年1月1日 - 2014年1月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督。 1956年に年間85盗塁を記録し、当時の日本記録を樹立。同年の最多盗塁死29はその後破られていない。セ・パ両リーグで盗塁王を獲得した唯一の人物である。 大阪府で生まれるも、戦争中に疎開で和歌山県へ引っ越した。 和歌山工業から野球部ができたばかりの松下電器に入社。主に一塁手、遊撃手としてプレーし更に投手としてマウンドに立つこともあった。1953年の都市対抗にチームとしての初出場を果たす。 1954年に阪急ブレーブスへ入団し、1年目の同年は開幕から二塁手に抜擢され定位置を獲得。
鈴木 幸雄(すずき さちお、1932年1月8日 - 2022… 鈴木 幸雄(すずき さちお、1932年1月8日 - 2022年9月26日)は、和歌山県和歌山市小松原出身のプロ野球選手(投手)・解説者。 幼少期に通学していた吹上小の先輩に真田重蔵がいる。戦後光風工業高等学校に入学し、そこで野球を始める。卒業後、1951年に阪急ブレーブスへ入団。1年目から一軍に出場し、南海キラーとして活躍。アンダースローからカーブ、シュートを武器とした。 その後はサンテレビボックス席解説者(1974年)を経て、2002年から2016年まで智弁学園和歌山高校で投手コーチを務め、在任中は岡田俊哉らを育て上げた。2008年秋から半年間は髙嶋仁に代わり同校の監督として大分国体、秋季県2次予選、秋季近畿大会で指揮を執った。