スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
藤田剛二(ふじた ごうじ、1959年〈昭和34年〉10月19… 藤田剛二(ふじた ごうじ、1959年〈昭和34年〉10月19日 - )は、日本の政治家、実業家。山口県山陽小野田市長(3期)。元富士商代表取締役社長。 山口県山陽小野田市刈屋生まれ。小野田市立竜王中学校(現・山陽小野田市立竜王中学校)、山口県立小野田高等学校卒業。1984年(昭和59年)3月、東京理科大学工学部機械工学科卒業。1987年(昭和62年)、ノースイースタン大学情報システム修士課程修了。 1988年(昭和63年)、NTTデータに就職。1991年(平成3年)、父の藤田保郎が創業した富士商に転職。2012年(平成24年)、同社代表取締役社長に就任。2016年(平成28年)、代表取締役社長を退任。
篠田 傳(しのだ つたえ、1948年 - )は、世界で初めて… 篠田 傳(しのだ つたえ、1948年 - )は、世界で初めてフルカラープラズマディスプレイを作った開発グループのリーダー。博士(工学)。元東京大学客員教授、富士通研究所フェロー、現・篠田プラズマ会長兼社長、広島大学客員教授。 彼は山口県の田舎に生まれた活発ある少年だった。2003年6月3日のプロジェクトX〜挑戦者たち〜の中に、『彼が遊んでいる最中に大人たちの大きな声が聞こえ何事かとかけつけ、彼はショックを受けときめいた。大人たちは口々に「変な箱があるぞ」といい、篠田はときめいた。』とあったが、これは演出で、実際は大学で初めて興味を持ったらしい。子供のころの夢は、研究者か医者。 山口県立小野田高等学校時代はあまり成績はかんばしくなく、当時新設だった広島大学電子工学科に第一回生として入ったときは、先生から「奇跡だ」と言われたらしい。
林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 199… 林 伊佐緒(はやし いさお、1912年5月11日 - 1995年9月29日)は、日本の歌手・作曲家。日本歌手協会4代目会長。 山口県厚狭郡王喜村(現下関市)生まれ。明治大学中退。1975年に紫綬褒章、1983年には勲四等旭日小綬章を受章。没後、功績により従五位を追贈されている。 父の林正二は王喜村長を務めた。旧制興風中学校時代には陸上400メートルと水泳自由形の選手。音楽も好きで、体育学校か音楽学校を志望していたが、母に反対され、明治大学商科に進む。しかし、大学への通学途中に東京高等音楽学院があることに気付き、四谷分教場ピアノ科に籍を置いて両方に通うようになり、やがて大学を中退。1934年、郷里に戻って徴兵検査を受けた後、再び上京。
縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30… 縄田 尚門(なわた ひさと/しょうもん、1897年(明治30年)2月8日 - 1968年(昭和43年)4月29日)は、大正・昭和期の日本の陸上競技(中距離走・長距離走)選手・指導者。現在の山口県宇部市出身。選手としては大正末期に800m走・1500m走・5000m走で当時の日本記録を保持した。第二次世界大戦後はマラソン選手の育成に当たるとともに、日本陸上競技連盟常務理事などを務めた。 現在の山口県宇部市中野に生まれる。旧制興風中学校(現在の山口県立小野田高等学校)を経て、早稲田大学に入学。 早稲田大学在学中の1923年(大正12年)5月25日、極東公開競技会(大阪)男子5000mで日本記録を更新した(16分11秒0)。
兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉… 兼崎 地橙孫(かねざき ぢとうそん、1890年〈明治23年〉3月27日 - 1957年〈昭和32年〉9月3日)は、山口県出身の日本の俳人、書家、弁護士。本名は理蔵。 1890年(明治23年)に山口県山口市に生まれる。豊浦中学校(現:山口県立豊浦高等学校)時代に俳句を始め、河東碧梧桐が撰者をしていた新聞『日本』へ投句。私立興風中学(現:山口県立小野田高等学校)に転校し卒業、この頃遊行中の碧梧桐本人と出会い傾倒する。第五高等学校(現:熊本大学)へ進学する頃には荻原井泉水の『層雲』に投句を始め、若き新傾向俳人として注目される。碧梧桐が1915年(大正4年)に『海紅』を創刊すると海紅にも投句を始める。この頃ら層雲の句友、種田山頭火が度々地橙孫の元を訪れるようになり、山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
俵田 明(たわらだ あきら、1884年〈明治17年〉11月1… 俵田 明(たわらだ あきら、1884年〈明治17年〉11月13日 - 1958年〈昭和33年〉3月21日)は、日本の実業家、UBE (旧・宇部興産)初代社長。 山口県宇部市出身。士族・俵田勘兵衛の二男。俵田家は宇部領主福原氏家臣の家であったが、他の士族と同様に没落の一途を辿っていた。 興成義塾卒業後は、高輪の大村徳敏の家に書生として住み込みながら築地の工手学校を卒業。その後、電気技術者として陸軍砲兵工廠に職を得るが、1915年(大正4年)、渡辺祐策の誘いを受け沖ノ山炭鉱に入社。炭鉱技師として炭鉱経営に携わる。1928年(昭和3年)に専務に就任し、1942年(昭和17年)に沖ノ山炭鉱、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部セメント製造を統合して宇部興産を設立し、同社の初代社長に就任した。