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達田 龍彦(たつた たつひこ、1926年(大正15年)10月… 達田 龍彦(たつた たつひこ、1926年(大正15年)10月27日 - )は、昭和期の労働運動家、平和運動家、政治家。参議院議員(1期)。 長崎県 長崎市出身。1945年(昭和20年)長崎市立商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を卒業した。 労働運動に加わり、全逓信労働組合(後の日本郵政公社労働組合)長崎県本部執行委員長、長崎県労働組合会議会長、原水爆禁止長崎県民会議会長、日本社会党長崎県本部副委員長などを務めた。 1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から社会党公認で出馬し次点で落選したが、当選者の田浦直蔵が死去したため、同年8月24日に繰り上げ当選し、参議院議員に1期在任した。
諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 20… 諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 2002年4月16日)は、日本の政治家。元長崎市長(在任1967年 - 1979年)。 熊本県出身。長崎高等商業学校卒業後、長崎市内で底引き網の網元の支配人となる。1945年(昭和20年)8月9日、長崎市内の自宅で原爆投下に遭遇。水を求めながら亡くなった被爆者を多数目撃した体験から、市長就任後に平和公園内に「平和の泉」を造らせている。1947年(昭和22年)より長崎市議会議員を2期、1955年(昭和30年)より長崎県議会議員を3期務め、この間1963年5月~1964年12月まで副議長になった。1967年(昭和42年)4月の統一地方選挙で執行された長崎市長選に出馬し当選、以後1979年(昭和54年)4月の市長選で本島等に敗れるまで3期12年間長崎市長を務めた。
井手 光治(いで みつじ、1905年(明治38年)1月26日… 井手 光治(いで みつじ、1905年(明治38年)1月26日 - 1986年(昭和61年)12月30日)は、昭和期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員(1期)、芝区長、港区長(公選初代) 長崎県出身。1924年(大正13年)長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を卒業。その後、早稲田専門学校で学んだ。 東京市役所に入り事務員となる。その後、東京都制施行に伴い東京都事務官に就任。1945年(昭和20年)12月、芝区長に就任。1947年(昭和22年)4月、公選初代港区長に選出された。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で東京都第1区から民主自由党公認で立候補して当選し、衆議院議員に1期在任した。
太田 理一(おおた りいち、1894年11月26日 - 19… 太田 理一(おおた りいち、1894年11月26日 - 1988年4月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1913年、長崎市立長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)卒。酒業を営む。島原町議、島原商工会評議員、金銭債務臨時調停委員となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では長崎1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1942年の第21回衆議院議員総選挙では非推薦で落選。1946年の第22回衆議院議員総選挙は長崎県(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補したが落選した。1949年の第24回衆議院議員総選挙は長崎1区から民主党公認で立候補したが落選した。
橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5… 橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5年10月14日)- 1947年(昭和22年)2月7日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、長崎県多額納税者。衆議院議員。長崎県会議員。佐世保市会議員。族籍は長崎県平民。 小倉県下毛郡、のちの大分県下毛郡三保村(現中津市)で、橋本半平の二男として生まれる。1896年(明治29年)1月、長崎県平民の橋本雄造の養子となり、1898年(明治31年)1月に分家した。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)、長崎外国語学校(長崎英語学校)を卒業。その後上京して慶應義塾で学んだが中途でアメリカへ渡り4年間遊学し政治経済学を学んだ。 1891年(明治24年)から海運事業を経営し、1918年(大正7年)2月に佐世保市で橋本汽船を設立し、その後、拠点を西宮市、神戸市と転じた。
芦塚 省三(あしづか しょうぞう / せいぞう、1851年(… 芦塚 省三(あしづか しょうぞう / せいぞう、1851年(嘉永4年9月) - 1903年(明治36年)9月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国高来郡諫早村(のち長崎県北高来郡諫早町、現・諫早市)生まれ。漢籍、英語、政治、経済、法律学を学ぶ。養蚕紡績業を営む。1874年の佐賀の乱で長崎警備諫早募兵三番隊副司令として従軍、学区取締、中学校教員、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)助教諭、中学校教諭、小学校長、北高来郡教育会副会長、諫早村会議員、同村長、長崎県会議員、農談会理事となる。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において長崎2区から立憲革新党所属で立候補して当選した。