スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
廣中 璃梨佳(ひろなか りりか、2000年11月24日 - … 廣中 璃梨佳(ひろなか りりか、2000年11月24日 - )は、日本の陸上競技選手、中距離走、長距離走。世界クロスカントリー選手権・ジュニア団体銅メダリスト、アジアクロスカントリー選手権・ジュニア団体金メダリスト。5000m、10000mの2020年東京オリンピック代表。 長崎県大村市立桜が原中学校時代、全日本中学陸上800mで6位入賞。しかし、廣中自身がテレビのインタビューで「中3の終わりまでは強くなかった」と答えていたように、中学3年生の全国大会1500m、3000mでは2022年現在のチームメートの大西ひかり、菅田雅香にはまだ大きな差をつけられていた。その後、長崎県中学駅伝で1区の区間賞を獲得し、正月の全国女子駅伝のメンバーとなり、3区で区間賞を取って全国的に注目されるようになった。
永田 萌絵(ながた もえ、1997年6月20日 - )は、日… 永田 萌絵(ながた もえ、1997年6月20日 - )は、日本の女子バスケットボール選手である。ポジションはスモールフォワード。長崎県佐世保市出身。 佐世保市立春日小学校から競技を始め、佐世保市立清水中学校で長崎県ベスト4。長崎商業高校 に進学し、2015年の3年時に女子U-18日本代表候補に選出。高校では2、3年時に国体出場を果たしたが、全国高校総体や全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会には出場できなかった。東京医療保健大学に進学すると、3年時にはアジア大会に出場する日本B代表に選ばれ銅メダルを獲得した。4年時にはキャプテンとしてインカレ3連覇を果たすとともに2年連続してMVPに選出された。
大浦 正文(おおうら まさふみ、1969年9月28日 - 2… 大浦 正文(おおうら まさふみ、1969年9月28日 - 2013年12月20日 )は、日本の元男子バレーボール選手。 長崎県上県郡(現対馬市)出身。現役時代は1m以上の跳躍力から繰り出す強烈なスパイクを武器に、同期入団の荻野正二と共にサントリーサンバーズの主力選手として活躍し、バレーボール全日本では中垣内祐一とスーパーエースのポジションを争った。 引退後に長崎大学に進学し教員免許を取得、卒業後は母校である長崎商業高等学校に赴任し、長崎県立島原商業高等学校を経て最後は長崎県立壱岐商業高等学校で生徒たちを指導していた。並行してバレーボールユース全日本男子代表監督も務めていた。 2013年12月20日、東京都内の病院で胃癌により死去。
久松 信美(ひさまつ のぶよし、1962年5月27日 - )… 久松 信美(ひさまつ のぶよし、1962年5月27日 - )は、日本の俳優、声優。 長崎県出身。自転車キンクリーツカンパニー所属。以前はSai株式会社に所属していた。
松尾 輝義(まつお てるよし、1951年4月23日 - )は… 松尾 輝義(まつお てるよし、1951年4月23日 - )は、長崎県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。
朝永 徹一(ともなが てついち、1948年6月30日 - )… 朝永 徹一(ともなが てついち、1948年6月30日 - )は、日本のアートディレクター、グラフィックデザイナー、サインデザイナー。都市計画や大型施設のサイン・ディスプレーのプロデュースを行っている。元女子美術大学短期大学部非常勤講師。 長崎県長崎市に生まれる。 1964年、長崎市立長崎商業高等学校 時代、1年先輩の蛭子能収らと美術部で活動した。1965年、日本宣伝美術会西日本展で準入選となる。 1968年、新宿の歌声喫茶「灯」 で、合唱歌集の楽譜・イラスト等グラフィック面から、舞台装置・照明に至るまで演出を担当する。 1970年、日本万国博覧会においてテーマ館太陽の塔内部の展示計画(ディスプレイ)の一部を、また東京都の世界貿易センタービルのサイン計画を乃村工藝社所属で、それぞれ担当する。
蛭子 能収(えびす よしかず、1947年〈昭和22年〉10月… 蛭子 能収(えびす よしかず、1947年〈昭和22年〉10月21日 - )は、日本の漫画家、タレント、エッセイスト。ファザーズコーポレーション所属。 1947年(昭和22年)10月21日熊本県天草市生まれ。長崎県長崎市育ち。両親は徳島県出身である。8歳上の姉と5歳上の兄を持つ末っ子として誕生する。長崎市立戸町小学校、長崎市立戸町中学校卒業[要出典]。、長崎商業高等学校卒業後、地元の看板店に就職するも、つげ義春の『ねじ式』に衝撃を受けて1970年に上京し、看板屋、ちり紙交換、ダスキンのセールスマンなどの職を経て『月刊漫画ガロ』(青林堂)1973年8月号掲載の入選作『パチンコ』で漫画家デビュー。その後、3年間の休筆期間を経て伝説的編集者の高杉弾と山崎春美の依頼により1979年に伝説的自販機本『Jam』(ジャム出版)でプロの商業漫画家として再デビューする。
原 敕晁(はら ただあき、1936年〈昭和11年〉8月10日… 原 敕晁(はら ただあき、1936年〈昭和11年〉8月10日 - )は、北朝鮮による拉致被害者である日本人、日本国政府認定の拉致被害者(辛光洙事件の被害者)。北朝鮮の工作員辛光洙(シン・グァンス)らによって拉致された。実行犯工作員が当人になりすますために拉致する、いわゆる「背乗り拉致」の被害者である。 1936年8月10日に長崎県長崎市で原道壽(みちひさ)とカメノの三男として生まれる。北朝鮮が提供した資料では「1936年8月2日、宮崎市生まれ」とあるが誤りである。 本籍は島根県松江市で、原家は1927年に長崎県大村市に移転し、歩兵第46連隊(大村航空隊)相手の物品販売所を営んでいたが、1935年頃、長崎市内に移転した。
河津 憲一(かわづ けんいち、1933年12月4日 - )は… 河津 憲一(かわづ けんいち、1933年12月4日 - )は長崎県長崎市出身の元プロ野球選手。1958年から1961年までは、河津 宏紀(-ひろき)。
達田 龍彦(たつた たつひこ、1926年(大正15年)10月… 達田 龍彦(たつた たつひこ、1926年(大正15年)10月27日 - )は、昭和期の労働運動家、平和運動家、政治家。参議院議員(1期)。 長崎県 長崎市出身。1945年(昭和20年)長崎市立商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を卒業した。 労働運動に加わり、全逓信労働組合(後の日本郵政公社労働組合)長崎県本部執行委員長、長崎県労働組合会議会長、原水爆禁止長崎県民会議会長、日本社会党長崎県本部副委員長などを務めた。 1965年(昭和40年)7月の第7回参議院議員通常選挙で長崎県地方区から社会党公認で出馬し次点で落選したが、当選者の田浦直蔵が死去したため、同年8月24日に繰り上げ当選し、参議院議員に1期在任した。
中村 政美(なかむら まさみ、1924年4月8日 - 194… 中村 政美(なかむら まさみ、1924年4月8日 - 1945年1月29日)は長崎県出身のプロ野球選手。
池田 久之(いけだ ひさゆき、1921年8月9日 - 194… 池田 久之(いけだ ひさゆき、1921年8月9日 - 1944年)は、長崎県出身のプロ野球選手(捕手)。
比留木 虎雄(ひるき とらお、1917年9月9日 - )は長… 比留木 虎雄(ひるき とらお、1917年9月9日 - )は長崎県出身の元プロ野球選手、高校野球監督。
内堀 保(うちぼり たもつ、1917年3月12日 - 199… 内堀 保(うちぼり たもつ、1917年3月12日 - 1997年1月30日)は、長崎県長崎市出身のプロ野球選手。ポジションは捕手。
清水 崑(しみず こん、1912年〈大正元年〉9月22日 -… 清水 崑(しみず こん、1912年〈大正元年〉9月22日 - 1974年〈昭和49年〉3月27日)は、日本の漫画家。長崎県長崎市出身。本名は清水 幸雄(しみず ゆきお)。 長崎県長崎市銭座町(現在の天神町)出身。旧制長崎市立商業高校(現在の長崎市立長崎商業高等学校)を卒業後上京、似顔絵描きをしながら絵の修行をする。その後横山隆一・近藤日出造らの新漫画派集団(のちの漫画集団)に参加、1935年、新青年に『東京千一夜物語』を連載。同作はヒットし、内田吐夢監督によって映画化された。 戦後、「新夕刊」の政治漫画を担当したのち、朝日新聞社の嘱託となる。時の吉田茂首相の風刺画で人気を博し、サンフランシスコ講和会議には全権団の取材に派遣され、連日文章つきで漫画の見聞録を送る。
山田 正孝(やまだ まさたか、1908年(明治41年)4月1… 山田 正孝(やまだ まさたか、1908年(明治41年)4月11日 - 1995年(平成7年)10月16日)は、日本の洋画家、教育者。長崎県長崎市出身。 代表作に「長崎の唐寺境内」、三部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」など。 1908年(明治41年)、長崎県長崎市に生まれる。 1933年(昭和8年)に大阪美術学校を卒業、同年第1回東光展に作品が入選。 1937年(昭和12年)より郷里長崎県に戻り、長崎市立商業学校の教諭を務める。 戦後の1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)にかけて3年連続で日展に出品した3部作「長崎の家」「長崎の丘」「長崎の庭」が全作入選した。 1966年(昭和41年)に東光会委員に推挙を受け、1969年(昭和44年)には東光会審査員を務める。
諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 20… 諸谷義武(もろたに よしたけ、1907年1月17日 - 2002年4月16日)は、日本の政治家。元長崎市長(在任1967年 - 1979年)。 熊本県出身。長崎高等商業学校卒業後、長崎市内で底引き網の網元の支配人となる。1945年(昭和20年)8月9日、長崎市内の自宅で原爆投下に遭遇。水を求めながら亡くなった被爆者を多数目撃した体験から、市長就任後に平和公園内に「平和の泉」を造らせている。1947年(昭和22年)より長崎市議会議員を2期、1955年(昭和30年)より長崎県議会議員を3期務め、この間1963年5月~1964年12月まで副議長になった。1967年(昭和42年)4月の統一地方選挙で執行された長崎市長選に出馬し当選、以後1979年(昭和54年)4月の市長選で本島等に敗れるまで3期12年間長崎市長を務めた。
井手 光治(いで みつじ、1905年(明治38年)1月26日… 井手 光治(いで みつじ、1905年(明治38年)1月26日 - 1986年(昭和61年)12月30日)は、昭和期の公吏、政治家、実業家。衆議院議員(1期)、芝区長、港区長(公選初代) 長崎県出身。1924年(大正13年)長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を卒業。その後、早稲田専門学校で学んだ。 東京市役所に入り事務員となる。その後、東京都制施行に伴い東京都事務官に就任。1945年(昭和20年)12月、芝区長に就任。1947年(昭和22年)4月、公選初代港区長に選出された。 1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙で東京都第1区から民主自由党公認で立候補して当選し、衆議院議員に1期在任した。
梅本 貞雄(うめもと さだお、1900年 - 1961年9月… 梅本 貞雄(うめもと さだお、1900年 - 1961年9月22日)は、長崎市生まれの写真史家。1920年代から日本の写真の歴史の研究を行い、日本初の写真史家といわれる。 1900年に長崎の写真師上野彦馬撮影局があった伊勢町中島川畔で産まれる。祖父梅本栄太郎、祖母ことの手で養育されたが、祖父は上野の友人で、幼い梅本によく上野の話をしていたという。梅本は長崎市立勝山小学校をへて、市立長崎小学校に入学後、郷土史家古賀十二郎に私淑して「我国の文明史料の研究」「開港場長崎の歴史」の研究を開始。古賀の薫陶をうけ、長崎が写真発祥の地と知り、上野彦馬と門下生の研究を始める。長崎商業学校時代には、写真術も修業した。
太田 理一(おおた りいち、1894年11月26日 - 19… 太田 理一(おおた りいち、1894年11月26日 - 1988年4月28日)は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 長崎県出身。1913年、長崎市立長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)卒。酒業を営む。島原町議、島原商工会評議員、金銭債務臨時調停委員となる。 1937年の第20回衆議院議員総選挙では長崎1区(当時)から立憲政友会公認で立候補して当選。衆議院議員を1期務めた。1942年の第21回衆議院議員総選挙では非推薦で落選。1946年の第22回衆議院議員総選挙は長崎県(大選挙区制)から日本進歩党公認で立候補したが落選した。1949年の第24回衆議院議員総選挙は長崎1区から民主党公認で立候補したが落選した。
福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉1… 福島 喜三次(ふくしま きそうじ、1881年〈明治14年〉10月10日 - 1946年〈昭和21年〉9月17日)は日本の実業家。三井合名会社理事。内閣調査局専門委員及び企画院参与を務めた。日本人初のロータリアンで、元ダラスロータリークラブ会員。 佐賀県西松浦郡有田村に福島喜平の六男として生まれる。2歳のとき父を亡くす。小学校時代から終始級長を務めるなど秀才で鳴らし、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1904年(明治37年)7月に東京高等商業学校(現・一橋大学)を首席で卒業。同期には星野唯三、園部潜、佐藤尚武、山崎一保、向井忠晴、黒田慶太郎、梁瀬長太郎らがいた。なお、同校では上級の優等生を選び夏季休業中に実地研究を課したが、福島も3年次に選ばれ「清国上海ニ於ケル貨幣事情調査報告書」を提出している。
古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5… 古賀 十二郎(こが じゅうじろう、1879年(明治12年)5月16日 - 1954年(昭和29年)9月6日)は、日本の郷土史家。長崎学の基礎を築いた人物として知られる。 黒田藩長崎屋敷の御用達「万屋」の12代目として生まれる。1895年、長崎市立商業学校を首席卒業。在学中、菅沼貞風『大日本商業史』と呉秀三『シーボルト』を読み、長崎の歴史に興味を持つ。1901年、高商附属外国語学校英語学科(現在の東京外国語大学)を卒業する。東京外国語学校の同級生に永井荷風(中退)がいた。 広島で3年間ほど英語教師を務めた後、長崎に帰郷して家業を継ぐ。1912年に『長崎批評』を創刊し、1913年に第1期長崎史談会を設立するなど、長崎研究を本格化させる。
森 丑之助(もり うしのすけ、1877年1月16日 - 19… 森 丑之助(もり うしのすけ、1877年1月16日 - 1926年7月4日)は日本の人類学者。 京都・五条室町の商家に生まれる。長崎市の長崎商業学校で中国語を学んだ後、1895年(明治28年)9月に台湾駐屯の日本軍の通訳として台湾に渡る。その後台湾総督府の嘱託として台湾先住民の研究にあたった。1896年(明治29年)に台東で、1898年(明治31年)に恒春で鳥居龍蔵と出会い、1900年(明治33年)に鳥居の台湾調査に助手として同行するようになり、生蕃研究に携わるようになる。 日本からの来訪者の案内も務めた。 先住民の生活の調査のために森は台湾全土を移動して先住民の集落を訪れ、人類学・民俗学的に貴重な資料を数多く収集した。
堀 光亀(ほり みつき、1876年11月24日 - 1940… 堀 光亀(ほり みつき、1876年11月24日 - 1940年6月25日)は、日本の教育者である。東京商科大学(後の一橋大学)の発展を支えた。商業大学必要論を著し、東京商業学校の商科大学昇格に貢献した。日本で初めて海運学を創設した。 1876年(明治9年)、長崎県で元島原藩士石河光英の三男として生まれた。画家・石河光哉は弟。長崎市立商業学校に入り、上京、東京商業学校に入学した。1902年(明治35年)卒業後、同校の講師となった。 欧米帰国後、堀は直ちに「商業大学必要論」を執筆する。同著の中で、堀は「吾人が商業大学の設立を望む所以のものは、徒に大学という名称に拘泥するが故にあらず、名実兼備せる商業大学の制度を確立しこれを設置するに在り。
橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5… 橋本 喜造(はしもと きぞう、1872年11月14日(明治5年10月14日)- 1947年(昭和22年)2月7日)は、明治末から昭和前期の実業家、政治家、長崎県多額納税者。衆議院議員。長崎県会議員。佐世保市会議員。族籍は長崎県平民。 小倉県下毛郡、のちの大分県下毛郡三保村(現中津市)で、橋本半平の二男として生まれる。1896年(明治29年)1月、長崎県平民の橋本雄造の養子となり、1898年(明治31年)1月に分家した。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)、長崎外国語学校(長崎英語学校)を卒業。その後上京して慶應義塾で学んだが中途でアメリカへ渡り4年間遊学し政治経済学を学んだ。 1891年(明治24年)から海運事業を経営し、1918年(大正7年)2月に佐世保市で橋本汽船を設立し、その後、拠点を西宮市、神戸市と転じた。
渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4… 渋川 玄耳(しぶかわ げんじ、1872年6月3日(明治5年4月28日) - 1926年(大正15年)4月9日)は、明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、俳人。佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十(やぶの むくじゅう)の筆名を用いる。 佐賀県杵島郡西川登村小田志(現武雄市西川登町小田志)出身。長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し、福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務。熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。
田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月… 田崎 慎治(たざき しんじ、1872年5月6日(明治5年3月29日) - 1954年(昭和29年)4月3日)は、日本の商学者。村瀬春雄門下で、専門は海運論、海上保険論。神戸大学名誉教授、神戸商業大学(現神戸大学)初代学長。パルモア学院学院長(1944年-1947年)。正三位勲一等。 長崎県西彼杵郡三重村(現長崎市三重)出身。田崎慶治の三男、同周三郎の弟、同武男の兄として生まれ、1910年(明治43年)分家する。 長崎商業学校(現長崎市立長崎商業高等学校)を経て、1901年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部保険科を卒業。日本における保険学の祖である村瀬春雄の最初の門下生となった。村田省蔵は友人。
芦塚 省三(あしづか しょうぞう / せいぞう、1851年(… 芦塚 省三(あしづか しょうぞう / せいぞう、1851年(嘉永4年9月) - 1903年(明治36年)9月11日)は、日本の政治家、衆議院議員(1期)。 肥前国高来郡諫早村(のち長崎県北高来郡諫早町、現・諫早市)生まれ。漢籍、英語、政治、経済、法律学を学ぶ。養蚕紡績業を営む。1874年の佐賀の乱で長崎警備諫早募兵三番隊副司令として従軍、学区取締、中学校教員、長崎商業学校(現・長崎市立長崎商業高等学校)助教諭、中学校教諭、小学校長、北高来郡教育会副会長、諫早村会議員、同村長、長崎県会議員、農談会理事となる。 1894年9月の第4回衆議院議員総選挙において長崎2区から立憲革新党所属で立候補して当選した。
川口 秀之 は、長崎県出身の元プロ野球選手。
隈部 一郎 は、長崎県長崎市出身のプロ野球選手。
佐原 恭輔(さはら きょうすけ)は長崎県出身の日本の柔道家。… 佐原 恭輔(さはら きょうすけ)は長崎県出身の日本の柔道家。階級は65kg級。 国士舘大学から長崎県警所属となった。1975年の選抜体重別軽量級では多賀高校教員の柏崎克彦に敗れて2位だった。1977年の選抜体重別65kg級では新日鉄広畑の南喜陽に敗れて2位にとどまった。1978年から1981年にかけての選抜体重別では、東海大学教員となった柏崎に敗れ続けると、1982年の決勝でも新日鉄広畑の斉藤俊郎に敗れて、この大会では計7回も2位にとどまり1度も優勝できずに終わるという珍記録を達成した。その一方で、1976年、1978年、1979年の講道館杯決勝では柏崎を破るなど、1983年も含めて計4回の優勝を果たした。