スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
山口 観弘(やまぐち あきひろ、1994年9月11日 - )… 山口 観弘(やまぐち あきひろ、1994年9月11日 - )は、鹿児島県志布志市出身の日本の競泳選手。種目は平泳ぎ。200m平泳ぎ元世界記録保持者。東洋大学出身。 4歳のときに水泳を始める。志布志市立志布志中学校在学中の2008年、2009年、全国中学校水泳競技大会において、100メートル、200メートル平泳ぎで2冠を達成。鹿児島県立志布志高進学後の2011年には100メートルで北島康介の高校記録を11年ぶりに更新し、世界ジュニア水泳選手権では200メートルで優勝した。。2012年、ロンドンオリンピックへの選考会を兼ねた日本選手権水泳競技大会では、100メートル、200メートルとも高校新記録を樹立、特に200メートルでは派遣標準記録を突破したものの、北島康介、立石諒に続く3位となり、オリンピック代表入りを逃した。
岡元 竜生(おかもと りゅうせい、1993年11月1日 - … 岡元 竜生(おかもと りゅうせい、1993年11月1日 - )は、鹿児島県志布志市出身の元ハンドボール選手。 中部大学時代は2014年の全日本学生ハンドボール選手権大会(インカレ)で優秀選手賞を受賞した。 2015年は第28回ユニバーシアード競技大会の日本代表に選ばれた。 2016年2月に日本ハンドボールリーグのトヨタ車体へ加入。背番号は「23」。6月には第23回世界学生選手権の日本代表U-24に選出された。 2016-17年シーズンから背番号を「13」へ変更。 2019年の第26回世界選手権で日本代表に初選出された。 2024-25年シーズン限りで現役を引退。
野﨑 千華(のざき ちか、旧姓:川畑、1967年〈昭和42年… 野﨑 千華(のざき ちか、旧姓:川畑、1967年〈昭和42年〉5月27日 - )は、日本のフリーアナウンサー、ナレーター、声優、キャスター、リポーター。元南日本放送(MBC)女性アナウンサー。 鹿児島県志布志市出身。鹿児島県立志布志高等学校卒業後、日本女子大学を卒業。血液型はO型。 アナウンサーとして、1991年(平成3年)4月1日にMBC南日本放送へ入社し、1995年(平成7年)3月30日に退社。 空から日本を見てみようでのナレーションは低い声だが、本来は高め。趣味は、旅行、ドライブ、映画、ドラマ鑑賞、フラメンコ。
陣岳 隆(じんがく たかし、1959年12月24日 - )は… 陣岳 隆(じんがく たかし、1959年12月24日 - )は、鹿児島県曽於郡志布志町(現・同県志布志市)出身で井筒部屋(入門時は君ヶ濱部屋)に所属した元大相撲力士。本名は中山 隆(なかやま たかし)。現役時代は身長190cm・体重148kg。得意手は左四つ・突っ張り・吊り。最高位は東小結(1987年11月場所)。趣味は映画鑑賞・ゴルフ。血液型はB型。好物は焼肉とアイスクリーム。 志布志町役場に勤務していた公務員の父と元陸上選手の母との間に生まれた。家族は姉も実業団バレーボールの選手として鳴らした典型的なスポーツ一家であった。志布志小学校在学時から志布志高校の2年生までは、剣道で鳴らした。 その後相撲に転向し、高校を2年生の途中で中退して上京。
みづしま 志穂(みずしま しほ、1952年 - )は、日本の… みづしま 志穂(みずしま しほ、1952年 - )は、日本の児童文学作家、絵本作家。 鹿児島県曽於郡志布志町(現志布志市の一部)出身。小学6年生のときに毎日小学生新聞に応募した詩が西日本代表に選ばれる。鹿児島県立志布志高等学校で文芸部に所属。九州女子大学栄養士学科卒業。西本鶏介の童話スクールで学ぶ。 『好きだった風 風だったきみ』で 第32回毎日児童小説賞と第17回日本児童文学者協会新人賞を、『つよいぞポイポイきみはヒーロー』で第7回毎日童話新人賞を受賞。代表作の『ほうれんそうマン』シリーズ(ポプラ社)は、大人気の『かいけつゾロリ』のゾロリが敵役で初登場した作品としても有名。 NHKの番組で原ゆたかが証言したところによると、原は次第に面白くないと感じていった『ほうれんそうマン』の構成についてみづしまに口出しするようになり、みづしまが「そこまで口出しするなら全部君がやってくれ!」と切り出したことで原は『かいけつゾロリ』の制作を始めたという[要出典]。
瀬戸上 健二郎(せとうえ けんじろう、1941年3月 - )… 瀬戸上 健二郎(せとうえ けんじろう、1941年3月 - )は、日本の医師(外科)。鹿児島県肝属郡東串良町出身。志布志高等学校、鹿児島大学医学部出身。 1941年、鹿児島県出身。志布志高等学校、鹿児島大学医学部卒業。 1972年から国立療養所南九州病院で外科医長を務め、1978年、下甑島の下甑村大字手打(現在の薩摩川内市下甑町手打)にある下甑村手打診療所に所長として赴任し、2017年3月まで38年間、離島医療に尽力 専門は胸部外科であり肺ガン等の離手術も手打診療所で成し遂げ、専門外の内科、産婦人科、獣医も幅広い分野の医療を施すことが出来る。他村の診療所との「診診連携」、インターネットを活用した医療連携等々、離島、僻地医療にも携わっている。
池口 恵観(いけぐち えかん、1936年〈昭和11年〉11月… 池口 恵観(いけぐち えかん、1936年〈昭和11年〉11月15日 - )は、日本の僧侶。単立烏帽子山最福寺法主。高野山真言宗・鹿児島高野山・最福寺 住職。高野山真言宗大僧正・伝灯大阿闍梨。俗名・鮫島 正純(さめじま まさずみ)。 安倍晋三(元内閣総理大臣)や小泉純一郎(元内閣総理大臣)などの政界の大物政治家と親交があることから「永田町の怪僧」の渾名がある。 1936年(昭和11年)、鹿児島県肝属郡東串良町で醤油屋の息子として生まれた。町立柏原小学校、町立東串良中学校、鹿児島県立志布志高等学校を経て、1959年(昭和34年)高野山大学文学部密教学科卒業後、俳優を目指して上京し、広告代理店勤務をしていた。
谷口 茂(たにぐち しげる、1933年2月1日 - 2019… 谷口 茂(たにぐち しげる、1933年2月1日 - 2019年)は、日本のドイツ文学者、宗教学者、小説家。明治学院大学名誉教授。 鹿児島県大崎町生まれ。鹿児島県立志布志高等学校を経て、1959年東京大学文学部ドイツ文学科卒業。1964年同大学院宗教学科博士課程満期退学。大学院ではマルティン・ルターの宗教改革について研究した。 明治学院大学一般教育部講師、助教授を経て教授となる。2001年に定年退任し、名誉教授。 大学在学中から文学サークルで活動し、1959年には季刊誌「雙面神」の同人となって長編「彼岸花」の連載や椎名麟三論の発表をおこなっていた。1961年「めじろ塚」で芥川賞候補となり、1968年に作品集『若き医師の告白』を刊行。
二階堂 進(にかいどう すすむ、1909年〈明治42年〉10… 二階堂 進(にかいどう すすむ、1909年〈明治42年〉10月16日 - 2000年〈平成12年〉2月3日)は、日本の政治家。 内閣官房長官(第36・37代)、北海道開発庁長官(第27・28代)、科学技術庁長官(第18・19代)、原子力委員会委員長(第18・19代)、労働政務次官(第1次岸改造内閣)、衆議院商工委員長、同建設委員長、衆議院議員(16期)、自由民主党副総裁(第11代)、自由民主党幹事長(第16・23・24代)、自由民主党総務会長(第24代)などを歴任。 鹿児島県肝属郡高山村(現・肝付町)生まれ、出身。鹿児島県高山村長を務めた二階堂篤志の四男二女の次男として生まれる。鎌倉時代以来の名家・二階堂氏の出身であり、生家(二階堂屋敷)は国の重要文化財(1975年6月指定)で最後の居住者であった。
藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 199… 藤後 左右(とうご さゆう、1908年1月21日 - 1991年6月11日)は、鹿児島県出身の俳人、医師(医学博士)。本名惣兵衛。 東志布志村(現志布志町)生。志布志尋常高等小学校尋常科、旧制鹿児島県立志布志中学校(現鹿児島県立志布志高等学校)、旧制第七高等学校造士館理科を経て、1928年京都帝国大学医学部に入学し、京大三高俳句会に入会。『ホトトギス』に投句を始め、高浜虚子に師事。在学中の1930年に『ホトトギス』巻頭。1931年、「噴火口近くて霧が霧雨が」により『日本新名勝俳句』の帝国風景院賞(高浜虚子選)を獲得。1932年京大医学部卒業。1933年、平畑静塔らと「京大俳句」創刊。 大学卒業後は松尾内科を経て京都市立病院に勤務。
海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日 -… 海老原 喜之助(えびはら きのすけ 1904年9月13日 - 1970年9月19日)は、日本の洋画家。鹿児島県出身。大正末期から昭和にかけてフランスと日本で活躍。「エビハラ・ブルー」と呼ばれた鮮やかな青の色彩を多用し、馬をモチーフとした作品を数多く制作した。1970年にパリで客死。今では郷里の鹿児島市立美術館、児玉美術館をはじめとする各地の美術館に作品が収蔵されている。 鹿児島県鹿児島市に生まれる。県立志布志中を卒業後、上京してアテネ・フランセでフランス語を学びながら有島生馬に師事するかたわら川端画学校でも絵画を学び『自画像』を制作した。1923年(大正12年)に19歳で単身渡仏し、パリで活動をしていた藤田嗣治に師事。
吉井 淳二(よしい じゅんじ、1904年〈明治37年〉3月6… 吉井 淳二(よしい じゅんじ、1904年〈明治37年〉3月6日 - 2004年〈平成16年〉11月23日)は、日本の洋画家、文化勲章受章者。鹿児島市立美術館顧問 鹿児島県曽於郡末吉町(現曽於市)出身。 鹿児島県曽於郡末吉町に生まれる。1922年(大正11年) 鹿児島県立志布志中学校(現在の鹿児島県立志布志高等学校)卒業。1929年(昭和4年) 東京美術学校洋画科卒業。 1940年(昭和15年) 二科会会員就任。1961年(昭和36年) 同会理事就任。1965年(昭和40年) 日本芸術院賞受賞。1972年(昭和47年) 南日本美術展審査委員長就任。1976年(昭和51年) 日本芸術院会員就任。1977年(昭和52年) 勲三等瑞宝章に叙される。