松井 昌雄(まつい まさお(旧姓:西尾)1942年3月28日… 松井 昌雄(まつい まさお(旧姓:西尾)1942年3月28日 - )は、日本の宗教家、歌手、実業家。石川県金沢市出身。宗教法人瑠璃教会の二代目司教。松井秀喜の実父である。 宗教法人瑠璃教会の二代目司教。二男は元プロ野球選手の松井秀喜であり、メディアにもしばしば登場し、「ゴジパパ」の愛称でも知られる。 また同教会傘下の「オフィスルリ」代表取締役。同社は松井秀喜ベースボールミュージアムの運営及び秀喜のマネジメントを手掛けている。嘗ては同じく同教会傘下の「ルリ・コーポレーション」代表取締役も兼任していたが、こちらは2015年に昌雄の長男(秀喜の兄)である利喜に譲渡している。なお同社は秀喜のグッズ販売を手掛けている。
33代 木村 庄之助(さんじゅうさんだい きむら しょうのす… 33代 木村 庄之助(さんじゅうさんだい きむら しょうのすけ、本名:野澤 要一〈のざわ よういち、旧姓は石橋〉、1942年3月28日 - )は、大相撲の立行司の1人。木村庄之助としての在位期間は2006年4月 - 2007年3月。高砂部屋所属。 青森県八戸市出身。師匠は元三役格行司4代木村誠道(2代木村朝之助)である。 初土俵は1955年5月場所。同期生は30代庄之助、31代庄之助、32代庄之助の合わせて4人で、全員が立行司の最高峰、木村庄之助に昇進したことになる。 初土俵で木村要之助を名乗り、その後、式守要之助、木村要之助、木村政裕、木村要之助、木村賢嘉、木村友一と改名。十両格昇進と同時に、高砂部屋代々の名跡3代木村朝之助を襲名した。
井上 輝子(いのうえ てるこ、1942年3月27日 - 20… 井上 輝子(いのうえ てるこ、1942年3月27日 - 2021年8月10日)は、日本の社会学者、女性学者。和光大学名誉教授。 東京生まれ。別名・辺(ほとり)輝子。県立静岡高校から都立九段高校を経て、東京大学文学部社会学科卒業。1971年、同大学院社会学研究科新聞学修了。1970年、立教大学助手、1973年、和光大学助教授となり、1984年、同教授。2012年、定年退職、名誉教授。 1970年代初頭のウーマンリブ運動に参加する中で女性学と出会い、和光大学で女性学講座を担当。日本出版学会賞受賞。日本女性学研究会設立、日本女性学会代表幹事を務めるなど、日本における女性学の基礎を築いた。山川菊栄記念会代表、山川菊栄賞(山川菊栄記念婦人問題研究奨励金)選考委員長やNPO 法人ウィメンズアクションネットワーク(WAN)のミニコミ図書館に尽力するなど女性学研究の発展や女性情報の発信にも積極的にかかわった。
武田 正倫(たけだ まさつね、1942年3月27日 - )は… 武田 正倫(たけだ まさつね、1942年3月27日 - )は、日本の動物学者、東京大学名誉教授。専攻は十脚甲殻類を中心とした動物分類系統学。 東京生まれ。1964年横浜国立大学学芸学部生物学科卒、1971年九州大学大学院農学研究科畜産学博士課程修了、「パラオ諸島産甲殻短尾類の研究」で農学博士、日本大学医学部助手、1973年国立科学博物館研究官、1980年主任研究官、1986年同動物第三研究室長、1995年東京大学理学部教授となる。2006年定年退官、名誉教授、帝京平成大学教授。 1987年『大きなはさみのなぞ干潟のカニ・シオマネキ』で毎日出版文化賞受賞。 絵本などの子供向けのものも幾つか出している。
松村 良幸(まつむら よしゆき、1942年(昭和17年)3月… 松村 良幸(まつむら よしゆき、1942年(昭和17年)3月26日 - )は、日本の政治家。元長崎県対馬市長(1期)。 長崎県下県郡美津島町出身。福岡大学商学部卒。卒業後は三菱自動車販売に勤務し、その後、帰郷し、対馬空港所長となる。1975年、美津島町議会議員に当選。2期務める。1982年に美津島町長に当選し、6期務める。1999年には全国離島振興協議会会長に就任した。2004年に対馬島内の全6町が合併し、対馬市が発足した。合併後の市長選挙に立候補し、元厳原町長の渕上清を破って当選した。2008年の市長選挙では元対馬市役所職員の財部能成に敗れた。2012年の市長選挙に立候補したが現職の財部に敗れた。
岸 千恵子(きし ちえこ、1942年3月26日 - 2011… 岸 千恵子(きし ちえこ、1942年3月26日 - 2011年12月9日)は、日本の民謡歌手。 青森県南津軽郡碇ヶ関村(現在の平川市)出身。所属事務所は株式会社ミュージック・オフィス合田、所属レコード会社はEMIミュージックジャパン(旧·東芝EMI、現·ユニバーサルミュージック合同会社)。 1949年に7歳で初舞台を踏んでより、幼少時は「津軽の天才少女」と称された。結婚して一時歌手活動を休止していたが、1975年に現役歌手に復帰した。以来、津軽民謡の第一人者として全国的に活動を展開。歌いながらステージを所狭しと走り動き回る「ゆさぶり民謡」というダイナミックな独自のパフォーマンススタイルを確立(「ゆさぶり民謡」のきっかけは二日酔いで歌ったときだという)。
李 麗仙(り れいせん、イ・ヨソン、朝鮮語: 이여선、194… 李 麗仙(り れいせん、イ・ヨソン、朝鮮語: 이여선、1942年〈昭和17年〉3月25日 - 2021年〈令和3年〉6月22日、本名:大靏 初子〈おおつる はつこ〉、旧本名:李 初子〈り はつこ〉)は、日本の女優。舞台での活動が主軸で、その個性的な演技で「アングラの女王」の異名を取る。元夫は俳優の唐十郎、長男は俳優の大鶴義丹。 東京府生まれ。両親は在日韓国人2世だが、日本語しか話さなかったという。生まれた時の名前は李初子(朝: 이초자 イ・チョジャ)。日本名は星山初子(ほしやま はつこ)。東京都立広尾高等学校卒業。 舞台芸術学院在学中に劇作家・演出家・俳優の唐十郎と知り合う。 1963年に舞台芸術学院を中退、唐が設立した状況劇場に参加。
西和美(にし かずみ、1942年(昭和17年)3月25日)は… 西和美(にし かずみ、1942年(昭和17年)3月25日)は鹿児島県大島郡瀬戸内町西古見生まれの島唄の歌い手。1978年頃義父の影響で島唄を初め、坪山豊を師匠とする。1981年頃『嘉徳なべ加那節』にて南海日日新聞主催の奄美民謡大賞 新人賞受賞。翌年同大会の民謡大賞受賞後舞台活動を開始。 自身や経営する店舗は、奄美大島を舞台としたドラマなどに度々登場している。
小島 康誉(こじま やすたか、1942年3月24日 - )は… 小島 康誉(こじま やすたか、1942年3月24日 - )は、日本の浄土宗僧侶、国際協力実践家。 愛知県名古屋市出身。佛教大学内ニヤ遺跡学術研究機構代表。中国新疆ウイグル自治区政府文化顧問。 1960年向陽高校卒業後、建材会社「小野田ブロック」、宝石卸会社「水渓」をへて、66年「宝石の鶴亀」(その後「ツルカメコーポレーション」と社名変更、後任社長時代に「あずみ」と社名変更、エステールと合併し、現「エステールHD」)を創業。93年名古屋証券取引所に株式上場、96年創業30周年を機に社長退任。一方で1987年得度し僧籍に入る。88年佛教大学文学部仏教学科卒業。89年知恩院で伝宗伝戒。98年念仏行脚日本縦断成満。
鈴木 誉志男(すずき よしお、1942年3月23日 - )は… 鈴木 誉志男(すずき よしお、1942年3月23日 - )は、茨城県那珂郡勝田町(現・ひたちなか市)出身の実業家。サザコーヒー創業者・会長。息子の鈴木太郎はサザコーヒー代表取締役社長。 1942年(昭和17年)3月23日に茨城県那珂郡勝田町(現・ひたちなか市)に生まれた。父親は勝田宝塚劇場の経営者だった鈴木富治。1964年(昭和39年)に東洋大学法学部法律学科を卒業。1966年(昭和41年)には株式会社東京楽天地に入社し、江東楽天地の興行プロデューサーとなった。1969年(昭和44年)に郷里に戻ると、勝田宝塚劇場の一角に7坪・15席の珈琲店 且座(さざ)を開店させた。専門雑誌でコーヒーの焙煎方法について学び、日本国外のコーヒー生産地を訪れて勉強に励んだ。
田中 紘一(たなか こういち、1942年3月22日 - )は… 田中 紘一(たなか こういち、1942年3月22日 - )は、日本の医学者(外科学・消化器外科学・移植免疫学)。主な業績は生体肝移植の確立と展開に関する研究。京都大学名誉教授。神戸国際フロンティアメディカルセンター理事長。大分県大分市出身。 この項目は、科学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝/Portal:自然科学)。 この項目は、医学に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:医学/Portal:医学と医療)。
小原 嘉明(おばら よしあき、1942年3月22日 - )は… 小原 嘉明(おばら よしあき、1942年3月22日 - )は、日本の動物行動学者、東京農工大学名誉教授。 福島県生まれ。1964年東京農工大学農学部卒業、1974年九州大学理学博士。1966年東京農工大学助手、1975年助教授、1986年教授。2007年定年となり、名誉教授。この間、九州大学理学部生物学教室、ケンブリッジ大学動物学教室、ワイカト大学(ニュージーランド)生物学教室にて研修。昆虫の行動学を中心に研究し一般書も多く執筆した。
亀井 昭宏(かめい あきひろ、昭和17年(1942年)3月2… 亀井 昭宏(かめい あきひろ、昭和17年(1942年)3月22日 - )は、日本の広告、マーケティング研究者。 東京都出身。早稲田大学大学院商学研究科博士課程満期退学。日本学術会議会員。主な表彰歴として、日本広告学会賞、第20回白川忍賞受賞など。日本広告学会会長、日本広報学会理事、産業・組織心理学会理事、広報効果測定手法研究会委員。早稲田大学名誉教授。 この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
長宗我部 友親(ちょうそがべ ともちか、1942年〈昭和17… 長宗我部 友親(ちょうそがべ ともちか、1942年〈昭和17年〉3月22日 - 2025年〈令和7年〉10月11日)は、日本のジャーナリスト、著述家。戦国大名・長宗我部元親の実弟である親房(島親益)から17代目の長宗我部家当主。 高知市上町に生まれる。 早稲田大学を卒業後、1968年(昭和43年)共同通信社に入り、経済部長、そして2002年(平成14年)常務監事を歴任した。2004年(平成16年)に退任。 自身の家系である長宗我部氏に関する著書がある。 高知で好きな場所は浦戸城のあった浦戸であると述べている。また、武家の末裔ながら刀剣類を「恐ろしい存在」と述べ、「うちは先祖である盛親が六条河原で打ち首になったこともあり、私は刀を見ると寒気がします。
河合 伸光(かわい のぶてる、昭和17年(1942年)3月2… 河合 伸光(かわい のぶてる、昭和17年(1942年)3月21日 - )は日本の実業家。河合商事(株)の元代表取締役社長。 父は元米子市長の河合弘道。 昭和36年(1961年)県立米子東高校卒。 昭和40年(1965年)日本大学文理学部心理学科卒。小林脳行(株)東京本社勤務。昭和45年(1970年)同社退職。 昭和47年(1972年)河合商事を個人創業。昭和48年(1973年)株式会社に法人化。
佐藤 紘彰(さとう ひろあき、1942年3月21日 - )は… 佐藤 紘彰(さとう ひろあき、1942年3月21日 - )は、アメリカ合衆国の翻訳家。日系アメリカ人。元日本国籍。 警察官だった父親の赴任先の台湾で生まれたが、終戦により家族とともに長崎に転居。貧しい暮らしの中、街で見かけるユニフォーム姿の米兵に心奪われ、アメリカに憧れて英語を学び始める。1968年、同志社大学英文科大学院修士課程修了するとすぐニューヨークに渡り、1969年、日本貿易振興会 (JETRO) に入る。2005年に JETRO が改組により日本貿易振興機構となるとともに上級研究員。 1979年、アメリカ俳句協会会長。1985年、聖アンドリュース・プレスビテリアン・カレッジ日本文学講師。
齋藤 正寧(さいとう まさやす、1942年(昭和17年)3月… 齋藤 正寧(さいとう まさやす、1942年(昭和17年)3月21日 - 2015年(平成27年)1月5日)は、日本の政治家、新聞記者。元秋田魁新報社社員、元秋田県議会議員、元秋田県井川町町長。 旧上井河村(現在の井川町東部)赤沢の出身。1964年(昭和39年)早稲田大学第一政経学部卒業後に秋田魁新報社に入社する(1970年12月まで在籍)。そして旧上井河村長だった父の齋藤正作県議の逝去に伴う後継として、1971年(昭和46年)秋田県議会議員選挙に立候補し、初当選を果たした。 秋田県議会議員を2期務めた後、20年に渡り井川村長、井川町長を務めた鷲谷嘉兵衛の引退に伴う1979年(昭和54年)の井川町の町長選に立候補、初当選を果たす。
上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、1942年〈昭和17年… 上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、1942年〈昭和17年〉3月20日 - 2023年〈令和5年〉5月19日)は、日本の元漫才師、元司会者、元タレント。上岡劇団座長。 本名は小林 龍太郎。京都府京都市左京区出身。旧芸名は横山 パンチ、伊井 パンチ。その他、講談師旭堂 南蛇(なんじゃ)、落語立川流Bコース高座名・立川右太衛門を持つ。また、作詞家としての別名義にミケランジェロをもじった「三池嵐次郎」(みいけ らんじろう)がある。 1959年、「横山パンチ」の芸名で、横山ノック・横山フックとのトリオ芸人『漫画トリオ』として大阪でデビュー。漫画トリオ解消後の1970年代からはピンでラジオ、テレビに出演し、1980年代には『鶴瓶上岡パペポTV』(パペポ)や『探偵!ナイトスクープ』などテレビ司会者として活躍。
浜田 マキ子(はまだ マキこ、1942年〈昭和17年〉3月1… 浜田 マキ子(はまだ マキこ、1942年〈昭和17年〉3月19日 - 2022年〈令和4年〉5月29日)は日本の実業家・政治運動家・エッセイスト。本名:濱田 麻記子、旧姓は藤井。夫は元衆議院議員・参議院議員で弁護士の浜田卓二郎。叔父は元参議院議員・郵政大臣の植竹春彦、従兄は元衆議院議員・外務副大臣の植竹繁雄。 東京都文京区出身。父親は実業家の娘に生まれる。清明学園初等学校を経て森村学園初等科、中等科、高等科卒業。1960年4月、日本航空に入社し、国際線スチュワーデス(現・キャビンアテンダント)となる。翌1961年2月、10か月で日本航空を退社し、東京大学に入学。1965年3月、東京大学文学部東洋史学科を卒業後、植竹の秘書となるが、同年大蔵省に勤務していた卓二郎と結婚。
小平 忠正(こだいら ただまさ、1942年〈昭和17年〉3月… 小平 忠正(こだいら ただまさ、1942年〈昭和17年〉3月18日 - )は、日本の政治家。 衆議院議員(7期)、農林水産政務次官、衆議院逓信委員長、衆議院農林水産委員長、衆議院外務委員長、衆議院議院運営委員長(第72代)、東京電力福島原子力発電所事故に係る両議院の議院運営委員会の合同協議会会長(初代)、国家公安委員会委員長(第86代)、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全担当)などを歴任。2015年旭日大綬章受章。 北海道空知郡岩見沢町(のちの北海道岩見沢市)にて生まれた。岩見沢市立幌向小学校、札幌市立柏中学校、北海道札幌南高等学校を経て、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業した。慶應義塾大学卒業後、ワシントンD.C.のジョージタウン大学大学院への留学を経て、1969年に総合商社である東洋棉花(のちのトーメン、現在の豊田通商)に入社した。
飛田 秀一(とびた ひでかず、1942年3月18日 - )は… 飛田 秀一(とびた ひでかず、1942年3月18日 - )は、日本の実業家・新聞記者。北國新聞社名誉会長、北陸放送代表取締役会長、石川県金沢市出身。 「飛田王国」と呼ばれるほど石川県政や地元経済への影響力はすさまじいとされる。 飛田が実権を握って以降、新聞の論調が極めて右派・愛郷主義的なものとなり、懇意の森喜朗とその一派寄りの記事・特集企画が増えた。森奥戦争で「森」側についたことで幹部が「奥」側の関係会社(北陸放送など)との関係が一時悪化したが、敵側の失脚、自滅によりその権力を盤石なものとした。飛田はその権勢ぶりから北國以外の地元メディア関係者からさえ金正日を捩った「トビ・ジョンイル」のあだ名でひそかに呼ばれており、ひいては北國新聞そのものが北朝鮮になぞらえて「北」と社内の隠語で呼ばれると伝わる。
加藤 静治(かとう しずはる、1942年(昭和17年)3月1… 加藤 静治(かとう しずはる、1942年(昭和17年)3月18日 - )は、日本の政治家。愛知県清須市長(3期)。元新川町長(1期) 1960年(昭和35年)3月、大同工業高等学校(現・大同大学大同高等学校)卒業。同年4月、新川町職員に採用される。1990年(平成2年)から同町助役を3期務める。2002年(平成14年)、同町長に就任。 2005年(平成17年)7月7日、西春日井郡西枇杷島町・新川町・清洲町が新設合併して清須市が発足する。これに伴って8月7日に行われた市長選挙に出馬し初当選。 2009年(平成21年)、無投票で再選。 2013年(平成25年)7月21日に行われた市長選では、元市議・元県議の渡辺秀人を破り3選(加藤:16,169票、渡辺:12,961票)。
宇野 淑子(うの よしこ、1942年3月18日 - )は、日… 宇野 淑子(うの よしこ、1942年3月18日 - )は、日本のアナウンサー、ジャーナリスト、女優。 東京都立川市出身。戦争疎開で岡山県に移住し、高校卒業まで岡山市(旧都窪郡吉備町)で送る。東京教育大学卒業後、1964年4月、TBSにアナウンサー9期生として入社(同期に石川顯、大沢悠里、小島康臣、平原晋太郎、桝井論平、高階玲子、二村義子、山田照子、吉野好子)。1966年1月、ラジオ局放送部兼テレビ編成局アナウンス部。1967年11月15日、アナウンサー研修室設置に伴いラジオ局第一制作部勤務者兼アナウンサー研修室付に。1969年3月、放送部兼第一制作部兼第二制作部兼アナウンサー研修室付、1970年7月、ラジオ本部アナウンス室、1989年1月、報道総局アナウンス部兼ラジオ総局情報制作局ニュース・情報センター部、1991年5月、アナウンスセンター兼ラジオ制作局にそれぞれ配属。
池田 奉秀(いけだ ほうしゅう、1942年3月18日 - 2… 池田 奉秀(いけだ ほうしゅう、1942年3月18日 - 2016年8月24日)は、日本の武道家。日本空手道常心門少林流・初代宗家。 1942年3月18日、満洲国生まれ。引揚げ後、鹿児島県で育つ。鹿児島経済大学(鹿児島国際大学)で空手部へ所属し、少林寺流空手道錬心舘の初代宗家 保勇に師事した。 1962年、第8回全国空手道選手権大会(旧・全空連主催)中量級準優勝。同年、第1回鹿児島県空手道選手権大会総合優勝。1963年、第2回鹿児島県空手道選手権大会優勝。 1965年12月、錬心舘の保勇師範に随行し、当時は「竹のカーテン」といわれ、日本との国交がなかった中華人民共和国(「日中国交正常化」は1972年)の中国武術界から招聘を受けて、中国を訪問。
桜庭 康喜(さくらば やすき、1942年3月17日 - )は… 桜庭 康喜(さくらば やすき、1942年3月17日 - )は、日本の政治家。現在、北・北海道国際文化交流協会代表。元北海道名寄市長(3期)。 北海道名寄市出身。名寄市立名寄南小学校、名寄市立名寄中学校、北海道名寄高等学校卒業。1962年3月、札幌短期大学卒業。同年4月、山崎証券に就職。1963年、同社を退社し、名寄市役所に入り、市職員労働組合書記長を務めた。 1971年、名寄市議会議員に日本社会党から立候補し初当選。以後連続4期当選。1983年同議会副議長を経て、1986年名寄市市長選出馬のために同党離党。革新系無所属として名寄市長に初当選、以後、連続3期にわたって市長を務めた。 1996年、民主党から北海道第7区で第41回衆議院議員総選挙に立候補するも落選。
山本 陽子(やまもと ようこ、1942年〈昭和17年〉3月1… 山本 陽子(やまもと ようこ、1942年〈昭和17年〉3月17日 - 2024年〈令和6年〉2月20日)は、日本の女優。東京都中野区出身。株式会社三陽企画所属。國學院高等学校卒業。 4人兄弟(兄、姉、弟)で、4人年子。 高校卒業後は野村證券投資相談部に勤務していたが、1963年に知人が日活に山本の応募書類を送ったところ合格し、第7期日活ニューフェイスとして芸能界に入る。同期には、西尾三枝子、谷隼人、沖田峻一郎などがいる。1963年に女優デビュー(ただし、マスメディアによっては「1964年4月にデビュー」とする場合もある)。 映画では吉永小百合ら「日活三人娘」の人気に押され、なかなか作品には恵まれなかったが、テレビドラマに進出してからは日本的で清楚な美貌で人気を集めた。
森山 輝久(もりやま てるひさ、 1942年3月17日 - … 森山 輝久(もりやま てるひさ、 1942年3月17日 - )は、日本の元バレーボール選手。元バレーボール全日本選手。 広島県出身。崇徳高等学校3年の時、ジャンプ力のある強打のエースアタッカー兼主将として国体優勝。1960年、中央大学1年時の、第1回日ソ対抗バレーで全日本に初選出された。その後も6人制へ切り替え期の全日本選手として1962年第5回世界選手権(モスクワ)、第4回ジャカルタアジア競技大会(金メダル)などで活躍した。中大4年時には大学王者の勢いで当時の最強チーム・日本鋼管を天皇杯(全日本総合選手権)で破って日本一となるなど中大黄金期の礎を創った。中大を卒業し入団した松下電器(現・大阪ブルテオン)でも1964年、チームの全日本都市対抗、全日本総合、国体、全日本実業団の国内4大タイトル独占の原動力となった。
柏原 正之(かしはら まさゆき、1942年(昭和17年)3月… 柏原 正之(かしはら まさゆき、1942年(昭和17年)3月17日 - 2018年6月25日)は、日本の政治家。元兵庫県加西市長(1期)。元兵庫県議会議員(自由民主党、2期)。位階は正六位。旭日双光章。 兵庫県出身。神奈川歯科大学卒。加西市で歯科医院を開業する。1995年兵庫県議会議員選挙に立候補し、初当選。2期務める。 2001年加西市長選挙に立候補し、当選する。市長を1期務めた。 2005年加西市長選挙で再選を目指したが、松下政経塾出身で長野県知事選挙と大阪市長選挙に立候補した(いずれも落選)中川暢三に敗れた。当時は「泡沫候補が現職に勝った」と話題になった。 2007年4月、市長の中川の市職員の採用に関する疑惑が報道されたため、加西市議会は百条委員会を開き、市議会は市長の不信任案を決議し、可決された。
水田 祥代(すいた さちよ、1942年3月16日 - )は、… 水田 祥代(すいた さちよ、1942年3月16日 - )は、日本の医師、医学者。九州大学名誉教授、学校法人福岡学園理事長。専門は小児外科。旧帝国大学系の医学部で初の女性外科教授となった。 大分県出身。6歳のとき九州大学病院に入院したが、その際の医師らによる親切な対応に感銘を受け、九州大学への進学と医師になることを志すようになった。長崎県立長崎東高等学校を経て、九州大学医学部に進学。同在学中に米軍病院でのインターンを経験し、そこでの体験をもとに外科志望となった。大学院在学中の1968年にはイギリスへ留学し、リバプール大学病院付属アルダーヘイ小児病院で臨床に従事した。帰国後の1974年に医学博士号を取得。
安彦 忠彦(あびこ ただひこ、1942年3月16日 - )は… 安彦 忠彦(あびこ ただひこ、1942年3月16日 - )は、日本の教育学者。名古屋大学名誉教授。 1942年東京都生まれ。東京大学教育学部卒業、同大学院教育学研究科博士課程1年中退。大阪大学文学部助手、愛知教育大学教育学部専任講師、同助教授、名古屋大学助教授、同教授、早稲田大学教育・総合科学学術院特任教授を経て、2012年4月より2021年3月まで神奈川大学特別招聘教授。1984年から1年間、フルブライト若手研究員として米国フロリダ大学に研究留学。 名古屋大学教育学部附属中学校・高等学校長、同大学教育学部長などを歴任。1990年12月に木下繁彌と日本カリキュラム学会を共同創立。 2005年1月より第3期中央教育審議会委員(〜6期)。
菊池康雄(きくち やすお、1942年(昭和17年)3月16日… 菊池康雄(きくち やすお、1942年(昭和17年)3月16日 - )は日本の実業家、銀行家。栃木銀行の代表取締役頭取や第二地方銀行協会会長などを務めた。 栃木県出身で日本大学法学部卒。1965年に栃木相互銀行(現在の栃木銀行)に入行し、戸祭支店や東京支店などの支店長や経営企画部長を歴任し、1998年に同行取締役に就任する。常務、専務を経て、2005年に代表取締役副頭取、2009年に代表取締役頭取に就任した。 2013年に簗瀬悠紀夫の後任として栃木銀行では初の第二地方銀行協会会長に就任し、2015年まで務めた。 2016年に栃木銀行頭取を黒本淳之介に譲って代表取締役会長に就任し、2018年に退任した。
高村 正彦(こうむら まさひこ、1942年〈昭和17年〉3月… 高村 正彦(こうむら まさひこ、1942年〈昭和17年〉3月15日 - )は、日本の政治家、弁護士(登録番号:10863)。公益財団法人日本武道館会長(第9代)。自由民主党憲法改正実現本部最高顧問。 衆議院議員(12期)、経済企画庁長官(第50代)、法務大臣(第70代)、防衛大臣(第3代)、外務大臣(第122・135代)、衆議院農林水産委員長、番町政策研究所会長(第3代)、自民党副総裁(第13代)、日中友好議員連盟会長、武道議員連盟会長、少林寺拳法振興議員連盟会長、自民党たばこ議員連盟顧問などを歴任した。 元衆議院議員高村坂彦の四男。息子は衆議院議員の高村正大。 山口県徳山市(現・周南市)出身。
松原 正毅(まつばら まさたけ、1942年3月15日 - )… 松原 正毅(まつばら まさたけ、1942年3月15日 - )は、日本の社会人類学者。国立民族学博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。元大阪外国語大学理事。専門は社会人類学・遊牧社会論。 広島市出身、愛媛県松山市育ち。1960年3月に 愛光高等学校を卒業し、京都大学文学部へ進む。1965年3月、同大学文学部を卒業(考古学)。1967年3月 京都大学大学院文学研究科修士課程修了、1970年3月 京都大学大学院文学研究科博士課程中退。 生前の司馬遼太郎との親交があり、これが縁で2007年4月に開館した坂の上の雲ミュージアム館長を務めている(2017年3月末まで)。
井坂 栄(いさか さかえ、1942年3月15日 - 2010… 井坂 栄(いさか さかえ、1942年3月15日 - 2010年2月7日)は、日本の経営者。 茨城県出身。1953年に中央大学法学部政治学科を卒業し、同年に伊藤ヨーカ堂(現在のイトーヨーカ堂)に入社。 1995年5月に常務、2001年5月に専務を経て、2003年5月に社長に就任した。2006年6月に体調不良により、社長を辞任。 2010年2月7日多臓器不全のために死去。68歳没。
孝石 欣一(こうせき きんいち、1942年3月14日 - )… 孝石 欣一(こうせき きんいち、1942年3月14日 - )は、日本の地方公務員。大阪府土木部長、大阪府副知事、大阪府土地開発公社理事長、大阪府都市開発株式会社代表取締役社長、日本パレットプール株式会社取締役等を務めた。 1964年大阪大学工学部土木工学科卒業、大阪府入庁。土木工学の技術畑を歩み、関西空港2期工事などを推進。1997年大阪府土木部長。1998年大阪大学構築会会長。1999年阪神高速道路公団理事。同年から同じ土木系技術職の金盛弥の後任として、梶本徳彦、木村良樹とともに大阪府副知事を務めた。2003年大阪府土地開発公社理事長。2004年 大阪府都市開発株式会社代表取締役社長。2005年社日本パレットプール株式会社取締役。
児玉 弘義(こだま ひろよし、1942年3月13日 - 20… 児玉 弘義(こだま ひろよし、1942年3月13日 - 2009年2月5日)は、兵庫県津名郡津名町出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ。 津名高校卒業後、1960年に近鉄バファローへ入団。 1961年10月14日の阪急戦(藤井寺)に8番・捕手で一軍初出場を果たし、初安打も記録。 1963年から試合出場数が増えたが、吉沢岳男の存在もあって2番手の起用が続いた。 1964年8月6日の東映戦(日生)では途中から吉沢に替わってマスクを被り、嵯峨健四郎から初本塁打を放つ。三原脩が監督に就任した1968年に初めて正捕手の地位を獲得した。 1969年には岩木康郎にその座を奪われて再び2番手となる。 1970年には辻佳紀の加入で3番手となる。
鷲田小弥太(鷲田小彌太、わしだ こやた、1942年(昭和17… 鷲田小弥太(鷲田小彌太、わしだ こやた、1942年(昭和17年)3月13日 - )は、日本の哲学者、札幌大学名誉教授。
小南 一郎(こみなみ いちろう、1942年3月13日 - )… 小南 一郎(こみなみ いちろう、1942年3月13日 - )は、日本の中国文学者。専門は中国史。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・2001年)(学位論文「楚辞とその注釈者たち」)。京都大学名誉教授。泉屋博古館名誉館長。 1942年、京都市北白川生まれ。1964年京都大学文学部卒業。1969年、同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。高橋和巳に師事。 卒業後は京都大学人文科学研究所助手となる。また、京都大学文学部助教授、京都大学人文科学研究所教授。2001年「楚辞とその注釈者たち」で京都大学より文学博士の学位を取得。2005年定年退官後、龍谷大学特任教授に就任。2012年に同大学を退職し、泉屋博古館館長(中国青銅器を多く所蔵)。
松田 司郎(まつだ しろう、1942年3月13日 - )は、… 松田 司郎(まつだ しろう、1942年3月13日 - )は、児童文学作家・評論家。大阪国際大学名誉教授。 大阪出身。同志社大学文学部英文科卒業。その後、出版社に勤務し、退社後にフリーライターを経て、創作活動に専念。1981年に川村たかし、那須正幹ら児童文学者ともに児童文学創作集団「亜空間」を結成し、同タイトルである「亜空間」を季刊誌として創刊した。大阪国際大学人間科学部心理コミュニケーション学科教授を務めた。2006年『宮沢賢治 存在の解放(ビッグバン)へ』で日本児童文学学会賞特別賞受賞。実作のほか、宮沢賢治について多くの著書がある。
藤原 睦躬(ふじわら むつみ、1942年3月13日 - )は… 藤原 睦躬(ふじわら むつみ、1942年3月13日 - )は、日本の実業家。マツダ代表取締役副社長や、マツダ財団理事長、中国経済連合会副会長などを務めた。 1964年明治学院大学経済学部商学科卒業、東洋工業(現マツダ)入社。1993年マツダ第6営業本部副本部長。同年マツダ取締役購買本部副本部長に昇格。1995年マツダ取締役購買本部長。1997年マツダ常務取締役購買担当。1999年マツダ専務取締役購買担当。日本自動車工業会理事兼務を経て、2006年にはマツダ代表取締役副社長に就任した。同年マツダ財団理事長、中国経済連合会副会長。2007年マツダ特別顧問。
本田 勝彦(ほんだ かつひこ、1942年(昭和17年)3月1… 本田 勝彦(ほんだ かつひこ、1942年(昭和17年)3月12日 - )は、日本の実業家。 元日本たばこ産業社長。同社相談役、顧問を経て、社友。元・NHK経営委員会委員長職務代行者。 鹿児島県日置市の旧日置郡日吉町出身。1942年、小学校教諭の父・省吾と母・藤の間に、5人兄弟の4番目として誕生。町立日置小学校を経て、日置中学校3年在籍中の10月に長兄のいる東京へ移り、足立区立第十六中学校に転校。東京都立上野高等学校を経て、1965年東京大学法学部卒業後は、日本専売公社(現・日本たばこ産業)に入社。人事部長、たばこ事業本部長などを経て、2000年に日本たばこ産業 (JT) 社長に就任した。JT社長を退任後は相談役、顧問を経て社友。
吉森 みき男(よしもり みきお、本名:吉森 三喜男、1942… 吉森 みき男(よしもり みきお、本名:吉森 三喜男、1942年3月12日 - 2026年4月24日)は、日本の漫画家。別表記に吉森みきを、吉森みきお。小説家の吉森大祐は長男。 東京都文京区出身。中学生の頃、落語家に憧れるが両親の反対に遭い断念。漫画家を目指し東京都立向丘高等学校に通いながら内野純緒のアシスタントを務める。 中央大学文学部英文科卒業後の1965年、『5つめの宝石』(『別冊マーガレット』、集英社)で漫画家デビュー。しばらくは少女漫画をメインに執筆していたが、1972年より『連勝野郎』(週刊少年ジャンプ連載)で少年漫画家に転身。 1977年より代表作となる『ライパチくん』を読売新聞日曜版に連載した(同作品は1985年、『月曜ドラマランド』の一篇としてドラマ化された)。
小高 英紀(おだか ひでき、1942年3月12日 - )は、… 小高 英紀(おだか ひでき、1942年3月12日 - )は、日本の実業家。三菱ガス化学代表取締役社長や、同社代表取締役会長を務めた。 東京都出身。1965年一橋大学商学部卒業、三菱江戸川化学(現三菱ガス化学)入社。関連事業部長を経て、1997年取締役に昇格。1999年常務取締役。2001年から代表取締役社長を務め、積極的な投資を進めた。2007年代表取締役会長。2013年相談役。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
樋口 公一(ひぐち こういち、1942年3月11日 - )は… 樋口 公一(ひぐち こういち、1942年3月11日 - )は、日本の実業家である。グッドウィル・グループ(現 プロンプトホールディングス←ラディアホールディングス)株式会社の元執行役員、株式会社コムスンの元代表取締役社長。
福田 武隼(ふくだ たけとし、1942年(昭和17年)3月1… 福田 武隼(ふくだ たけとし、1942年(昭和17年)3月11日 - 2016年(平成28年)9月16日)は、日本の政治家。医師。栃木県真岡市長(2期)。 東京府東京市板橋区生まれ。栃木県立真岡高等学校、千葉大学医学部卒。1975年に真岡市に福田胃腸科医院を開院。翌年、真岡胃腸病院と名称を変更。1989年に福田記念病院と改称した。2001年に真岡市長に当選。2005年に再選。2009年に退任した。2013年、旭日双光章を受章。2016年死去。叙従五位。
中川 勝弘(なかがわ かつひろ、1942年(昭和17年)3月… 中川 勝弘(なかがわ かつひろ、1942年(昭和17年)3月11日 - 2016年(平成28年)7月8日)は、日本の元官僚の実業家で、2013年7月時点でトヨタ自動車相談役。元通商産業審議官、元トヨタ自動車副会長。
稲垣 嗣夫(いながき つぐお、1942年〈昭和17年〉3月1… 稲垣 嗣夫(いながき つぐお、1942年〈昭和17年〉3月11日 - )は、日本の経営者。神戸新聞社社長を務めた。 兵庫県出身。1964年甲南大学理学部経営理学科卒業後、神戸新聞社入社。1991年取締役、1994年2月常務、1995年2月専務を経て、2003年2月社長、2008年2月会長。2018年に兵庫県功労者表彰を受賞。 この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。
原田 昭 (はらだ あきら、1942年3月11日 - )は、… 原田 昭 (はらだ あきら、1942年3月11日 - )は、日本のインダストリアルデザイナー、建築学者。博士(デザイン学)。筑波大学名誉教授。札幌市立大学元学長。専門は感性工学。教育工学。大阪府出身。 1964年 東京教育大学教育学部芸術学科卒業。1964年 GKインダストリアルデザイン研究所に入社。同社計画部部長を経て、1978年 筑波大学芸術学系講師。1985年 同芸術学系助教授。1993年 同芸術学系教授。1996年筑波大学にて「概念設計の実践的方法と評価に関する研究」で博士号取得。1997年 同芸術専門学群副学群長。1999年 同大学院博士課程芸術学研究科長。2001年 同大学院博士課程人間総合科学研究科感性認知脳科学専攻長。
御園 和夫(みその かずお、1942年3月11日 - 202… 御園 和夫(みその かずお、1942年3月11日 - 2022年12月25日)は、日本の英語学者。関東学院大学名誉教授。専攻は英語学、英語音声学、英語教授法。日本英語音声学会名誉支部長。英語面白楽会ニッポン会長。 東京府東京市京橋区(現・東京都中央区)築地生まれ、御茶ノ水育ち。1967年明治学院大学文学部英文学科卒業。1969年同大学院文学研究科英文学専攻修士課程修了。2006年クイーンズランド大学(オーストラリア)英語学科博士後期課程修了。博士(言語学)。1969年関東学院女子短期大学英文科助手、1971年同専任講師、1975年同助教授。1978年関東学院大学文学部英米文学科助教授、1981年同教授。
皆川 嘉左エ門(みながわ かざえもん、1942年3月10日 … 皆川 嘉左エ門(みながわ かざえもん、1942年3月10日 - 2018年4月3日)は秋田県平鹿郡十文字町(現:横手市)出身の彫刻家。自他ともに「農民彫刻家」を称する。 1942年、秋田県平鹿郡十文字町仁井田に生まれる。1960年に秋田県立増田高等学校を卒業、農業をはじめる。かたわら能面づくりをおこなうが、1962年より彫刻を手がける。おもに木彫を制作している。「老人百姓」「百歳のばあさま」「休耕田に佇む」などの作品は県内各地の公共施設等に展示されている。1999年には、大雄村(現:横手市)の重福寺より仁王像の制作依頼を受け、その作品は「平成の仁王」と呼ばれて注目を浴びた。 1975年11月、日展に初入選、以後、数回にわたり入選した(全7回)。