スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
堀江 守弘(ほりえ もりひろ、1981年9月1日 - )は、… 堀江 守弘(ほりえ もりひろ、1981年9月1日 - )は、山形県出身の日本のスキーオリエンテーリング選手。スキーオリエンテーリング以外にもフット・オリエンテーリングやMTBオリエンテーリングの競技も行っている。所属はアークコミュニケーションズスキーチーム。 山形県立米沢興譲館高校を卒業し、東北大学工学部に入学するとともにオリエンテーリングと出会う。スキーオリエンテーリングを始めたのは大学1年の冬で、その年に日本代表選抜合宿に参加、いきなりジュニア日本代表に選ばれるもイタリアで開催されたジュニア世界選手権では惨敗。それがきっかけとなり本場であるスウェーデンのフォルケホイスコーレにスポーツ留学することを決意することとなる。
池田 めぐみ(いけだ めぐみ、1979年8月1日 - )は、… 池田 めぐみ(いけだ めぐみ、1979年8月1日 - )は、山形県南陽市出身の元フェンシング選手。旧姓は、原田。東京女子体育大学卒業。筑波大学大学院修了。 YAMAGATA ATHLETE LAB.(ヤマガタアスリートラボ) 創業者・代表。 日本アンチ・ドーピング機構(JADA)アスリート委員。
原田 めぐみ(はらだ めぐみ 1979年8月1日 - )は、… 原田 めぐみ(はらだ めぐみ 1979年8月1日 - )は、青森県生まれ、山形県南陽市出身のフェンシング選手。身長169cm。山形県立米沢興譲館高等学校、東京女子体育大学、筑波大学大学院卒。山形県体育協会所属。
柴田 正人(しばた まさと、1979年(昭和54年)5月5日… 柴田 正人(しばた まさと、1979年(昭和54年)5月5日 - )は、日本の政治家。山形県南陽市長就任予定者。元山形県議会議員(3期)。 山形県南陽市宮内生まれ。山形県立米沢興譲館高等学校、大東文化大学法学部政治学科卒業後、自由民主党本部に就職。2012年12月より鈴木憲和衆議院議員公設第一秘書を務める。2015年の山形県議会議員選挙南陽市選挙区で初当選し、県議を3期務める。 2026年5月27日、県議を辞職。6月5日に南陽市長選挙への立候補を表明した。7月5日に市長選挙が告示されたが、柴田以外に立候補の届け出がなく、無投票で初当選した。
小関 悠一郎(こせき ゆういちろう、1977年 - )は、日… 小関 悠一郎(こせき ゆういちろう、1977年 - )は、日本の歴史学者、千葉大学教授、千葉市文化財保護審議会会長。日本近世史専攻。德川記念財団徳川奨励賞受賞。 宮城県仙台市に生まれる。山形県南陽市梨郷育ち。1996年山形県立米沢興譲館高等学校卒業。2000年一橋大学社会学部卒業。 2008年一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了、「藩政改革の展開と「改革主体」の形成」で博士(社会学)の学位を取得。主査若尾政希。同年德川記念財団徳川奨励賞受賞。同年東京大学史料編纂所特任研究員。2009年日本学術振興会特別研究員。2012年千葉大学教育学部准教授(社会科)。2013年歴史科学協議会歴史評論編集委員。
眞島 秀和(ましま ひでかず、1976年11月13日 - )… 眞島 秀和(ましま ひでかず、1976年11月13日 - )は、日本の俳優。山形県米沢市出身。ザズウ所属。 山形県立米沢興譲館高等学校卒業。国士舘大学法学部法律学科中退。大学時代に俳優を志すようになった。 1999年の映画『青〜chong〜』でデビュー。転機になった作品として、2007年の『海峡』を挙げている。2019年8月26日、『サウナーマン〜汗か涙かわからない〜』で連続ドラマ初主演。 こだわりすぎない性格。寡黙な印象を持たれがちだが、実際はよく話すタイプ。一人っ子。影響を受けた作品に、『東京ラブストーリー』を挙げている。2020年には、同作のリメイク版に出演。動物が好きで、犬を飼っている。
渡部 美由紀(わたなべ みゆき、1973年 - )は、日本の… 渡部 美由紀(わたなべ みゆき、1973年 - )は、日本の法学者。専門は民事手続法、倒産法。名古屋大学副総長を経て、早稲田大学法学学術院教授。 山形県長井市出身。山形県立米沢興譲館高等学校を経て、1995年東北大学法学部卒業、東北大学法学部助手。2000年法政大学法学部助教授。2008年コンスタンツ大学客員研究員。 名古屋大学大学院法学研究科助教授、名古屋大学大学院法学研究科准教授を経て、2011年名古屋大学法学研究科教授に昇格。 2012年国立大学法人名古屋大学総長補佐(人権担当)。2014年消費者庁特定適格消費者団体の認定・監督に関する指針等検討委員会委員。2016年豊田市情報公開・個人情報保護審査会委員。
遠藤 充(えんどう まこと、1968年〈昭和43年〉12月1… 遠藤 充(えんどう まこと、1968年〈昭和43年〉12月14日 - )は、日本の陸上自衛官。階級は陸将。2025年より中部方面隊総監。 山形県出身。米沢興譲館高校を卒業し防衛大学校(第35期)へ、当時の大学では珍しかった国際関係論を勉強出来る先として選んだが、4年間の寄宿生活で覚悟を固めた。 1991年第44普通科連隊配属。自衛隊ゴラン高原派遣では、2004年に第17次ゴラン高原派遣輸送隊隊長として7ヶ月間指揮を執り、隊員全43名で無事帰国した。その後、2013年第25普通科連隊連隊長。2020年第14旅団旅団長。2023年第7師団師団長。2024年には防衛大学校副校長を務め、2025年より中部方面隊総監。
金藤 晃一(きんとう こういち、1967年 - )は、日本の… 金藤 晃一(きんとう こういち、1967年 - )は、日本のカウンセラー。IBC岩手放送のラジオ番組『やさしいカウンセリング講座』のパーソナリティ。全国の学校等で講演活動も行っている。 山形県生まれ。山形県立米沢興譲館高等学校、山形大学人文学部卒業。その後、カウンセラーとなった。高校生の時、不登校を経験した。その際、カウンセラーでもある田中信生にカウンセリングを受け、高校に復帰した。その経験を生かし各地の学校等で「不登校は僕の最高の青春」と題して講演をしている。川西町家庭教育アドバイザー歴任。 現在、カウンセラーとして不登校やうつ病、拒食症、など多くの心病む人へのカウンセリングを行う。
渡郶 謙一(わたなべ けんいち、1962年11月28日 - … 渡郶 謙一(わたなべ けんいち、1962年11月28日 - )は、日本の指揮者、ユーフォニアム奏者。ユーフォニアムをブライアン・ボーマン(英語版)、三浦徹、大石清に師事。 現在[いつ?]、北海道教育大学芸術課程音楽コース及び、スポーツ・芸術学科音楽文化専攻准教授。ヤマハ吹奏楽団名誉指揮者。日本吹奏楽指導者協会会員及び認定指導者。日本管楽合奏指揮者会議会員。日本音楽教育学会会員。日本管楽芸術学会副会長。
桐生 正幸(きりう まさゆき、1960年4月23日 - 現… 桐生 正幸(きりう まさゆき、1960年4月23日 - 現在、65歳。)は日本の心理学者(博士(学術))。専門は、犯罪心理学、生理心理学、社会心理学。東洋大学社会学部長、教授。山形県米沢市出身。山形県立米沢興譲館高等学校。文教大学人間科学部、大学評価・学位授与機構より学士 (文学)。東亜大学大学院総合学術研究科生命科学専攻より博士(学術)、学位論文は、犯罪捜査場面における虚偽検出検査の研究:「GKT検出理論への記憶と不安からのアプローチ」(北大路書房)。山形県科学捜査研究室主任研究官、関西国際大学人間科学部教授を経て現在に至る。社会心理学科および社会学研究科社会心理学専攻の教授として研究、教育活動を行っている。
星 岳雄(ほし たけお、1960年 - )は、日本の経済学者… 星 岳雄(ほし たけお、1960年 - )は、日本の経済学者。東京大学大学院経済学研究科教授、経済産業研究所研究員。東京財団政策研究所元理事長。日本経済論。特に日本の金融システムに関する研究は世界的に高く評価されており、2005年には日本経済学会中原賞を受賞している。主な著書に『日本金融システム進化論』(日本経済新聞社、2006年)。日本経済学会会長。 1960年山形県南陽市生まれ。1979年山形県立米沢興譲館高等学校卒業。1983年東京大学教養学部卒業後、米マサチューセッツ工科大学大学院博士課程に進学し、1988年同課程修了(経済学博士号取得)。米カリフォルニア大学サンディエゴ校准教授および教授を経て、2012年よりスタンフォード大学教授。
青木 薫(あおき かおる、1956年 - )は、日本の女性翻… 青木 薫(あおき かおる、1956年 - )は、日本の女性翻訳家。 1956年山形県生まれ。1975年山形県立米沢興譲館高等学校卒業。1979年京都大学理学部物理学科卒業。1984年京都大学大学院理学研究科博士課程修了、「原子核間ポテンシャルのパリティ依存性及び角運動量依存性に関する微視的研究」で理学博士の学位を取得。専門は理論物理学。2007年度日本数学会出版賞受賞。
ラズウェル 細木(ラズウェル ほそき、本名:窪田 京一、19… ラズウェル 細木(ラズウェル ほそき、本名:窪田 京一、1956年 - )は、日本の漫画家。旧ペンネームはくぼたケーガ。 山形県米沢市出身。山形県立米沢興譲館高等学校卒業。早稲田大学教育学部国語国文科卒業。東京都練馬区在住。 代表作に『酒のほそ道』『パパのココロ』など。 早稲田大学在学中、漫画研究会に所属していたが、本人は漫画を描く先輩の姿を見て漫画家にはなりたくなかったという。卒業後にカットやイラストの仕事をこなしているうちに、くぼたケーガ名義で麻雀漫画でデビュー(1983年)。大のジャズファンであり、レコードコレクターでもある。ジャズ業界の知識を援用して音楽方面に取材した作品を複数発表している。
星 秀一(ほし しゅういち、1955年9月6日 - )は、日… 星 秀一(ほし しゅういち、1955年9月6日 - )は、日本の実業家。伊藤忠食品代表取締役社長や、日本加工食品卸協会副会長を務めた。 山形県出身。1974年山形県立米沢興譲館高等学校卒業。1979年一橋大学法学部卒業、伊藤忠商事入社。1998年ファミリーコーポレーション取締役。2000年伊藤忠商事社食品流通部食品流通第一課長。2001年伊藤忠商事食品流通第一部長代行兼食品流通第一課長。2002年雪印アクセス取締役。 2006年伊藤忠商事食料カンパニー食品流通部門長補佐兼食品流通部長。2009年伊藤忠商事食料カンパニー食品流通部門長兼CVS事業推進部長。2010年伊藤忠商事執行役員食品流通部門長。
安部 三十郎(あべ さんじゅうろう、1953年(昭和28年)… 安部 三十郎(あべ さんじゅうろう、1953年(昭和28年)9月21日 - )は、日本の政治家。行政書士。勲等は旭日小綬章。元山形県米沢市長(3期)。 山形県東置賜郡上郷村出身(上郷村は安部が生まれて2年後の1955年に米沢市に編入された)。米沢市立上郷小学校、米沢市立上郷中学校、山形県立米沢興譲館高等学校卒業。早稲田大学法学部卒業後、福島大学大学院地域政策専攻に進む。会社員を経て市長選に立候補する。自治体職員や市議などの経験はなかったが、保守志向の強い住民が多い同地域に草の根運動の選挙スタイルを持ちこみ、市内全戸の訪問や、朝晩の街頭演説などで知名度を上げていった。 3度目の挑戦の末、2003年(平成15年)に第33代米沢市長に初当選した。
ますむら ひろし(本名、増村 博、1952年(昭和27年)1… ますむら ひろし(本名、増村 博、1952年(昭和27年)10月23日 - )は、日本の男性漫画家。山形県米沢市出身。山形県立米沢興譲館高等学校卒後、東京デザイナー学院二部商業デザイン科[要出典]卒業。 横尾忠則、伊坂芳太良に憧れてイラストレーターを志し、1971年に上京しデザイン学校に通った。 1973年に21歳でに本名の「増村博」名義で賞金目当てに応募した『霧にむせぶ夜』が第5回手塚賞に準入選。 その後『ガロ』誌に作品を発表。1975年からしばらく青林堂に入社して働いていたこともある。『マンガ少年』誌で「ますむらひろしのファンタジーゾーン」(単行本『アタゴオル物語』収録作品およびSF作品の短編)シリーズを発表。
岡部 史(おかべ ふみ、1951年 - )は、日本の翻訳家、… 岡部 史(おかべ ふみ、1951年 - )は、日本の翻訳家、食文化研究者、児童文学作家、歌人。塔短歌会所属。 米沢興譲館高等学校を受験、入学するが、父の転勤により東京に移り、一年の二学期より都立雪谷高校へ編入学。1974年、日本女子大学文学部史学科卒業。 横浜市役所に10年間勤務後、夫の渡米に伴いアメリカのノースカロライナ大学で学ぶ。 1983年、塔短歌会入会。 帰国後は児童文学の翻訳に携わり、児童文学を中心に好きな本を翻訳。1989年に初の訳書『はだしのバレリーナ』(ポプラ社)を刊行。 1993年、翻訳作品『魔女図鑑』(マルカム・バード著)が、剣淵町絵本の館が主催する第3回剣淵絵本の里大賞を受賞。
長谷川 憲治(はせがわ けんじ、1946年(昭和21年)8月… 長谷川 憲治(はせがわ けんじ、1946年(昭和21年)8月31日 - )は、日本の実業家。きらやか銀行相談役。公益財団法人山形美術館監事。社会福祉法人山形いのちの電話理事長。山形県米沢市出身。 長谷川吉内殖産相互銀行社長の養嗣子。 山形県立米沢興譲館高等学校、慶應義塾大学経済学部卒業後、松下電器産業(現:パナソニックホールディングス)に入社。その後、長谷川家の家業である電気関連企業「マルタニ」に転じ、社長に就任する。 1983年、殖産相互銀行(1989年普銀転換、殖産銀行に商号変更)社外監査役に就任する。以降、常務等を歴任。2000年、専務米沢支店長を務める折、荘内銀行との合併構想(ミライオン銀行)に距離を置いていたこと、創業家出身であることが勘案され、引責辞任した叶内紀雄頭取の後継としてトップに就任した。
大滝 則忠(おおたき のりただ、1944年9月27日 - )… 大滝 則忠(おおたき のりただ、1944年9月27日 - )は、日本の図書館員。第15代国立国会図書館長(2012年-2016年)。元東京農業大学教授。専門はアメリカ図書館史。公益社団法人米沢有為会会長。2016年11月瑞宝重光章を受章。 山形県東置賜郡川西町玉庭御伊勢町に生まれる。川西町立玉庭小学校、川西町立玉庭中学校、山形県立米沢興譲館高等学校を経て、1964年、東京教育大学文学部社会科学科法律政治学専攻卒業。 1968年、国立国会図書館に入職。2001年、同館総務部長、2003年、同館副館長。2004年、同館を定年退職。2006年、東京農業大学教授に就任(2012年退職)。2011年、日本図書館協会理事(2012年退任)、2012年4月~2016年3月に国立国会図書館館長。
大塚 勝夫(おおつか かつお、1944年5月13日 - 19… 大塚 勝夫(おおつか かつお、1944年5月13日 - 1998年9月15日)は、日本の経済学者。専門は、経済発展論、開発経済学、日本経済論。 山形県東置賜郡高畠町生まれ。山形県立米沢興譲館高等学校、早稲田大学商学部卒業後、1971年一橋大学大学院経済学研究科修士課程修了。1974年同博士課程単位取得退学。指導教官は梅村又次。1991年、経済学博士(一橋大学)。博士論文は「経済発展と技術選択 -日本の経済と発展途上国-」。一橋大学経済学部助手、財団法人国際開発センター研究員、オーストラリア国立グリフィス大学現代アジア研究学部助教授、和光大学経済学部教授等を経て、早稲田大学商学部教授。1998年9月、胃癌のため死去。
金子 善次郎(かねこ ぜんじろう、1943年(昭和18年)9… 金子 善次郎(かねこ ぜんじろう、1943年(昭和18年)9月24日 - )は、日本の自治官僚、政治家。自治省大臣官房審議官を最後に退官後、衆議院議員となり国土交通大臣政務官、厚生労働大臣政務官を歴任。旭日重光章受章。 山形県川西町出身。山形県立米沢興譲館高等学校を経て、1966年に一橋大学法学部を卒業(田上穣治ゼミナール)後、自治省(現・総務省)に入省。 1968年から外務省に出向し、北米第一課での勤務を経て、在シカゴ日本国総領事館領事を務め、1974年に自治省へ復帰。1976年から静岡県に出向し、静岡県商工企画課長や静岡県工業課長を務め、1982年からは埼玉県に出向し、同年に埼玉県労働部次長、1984年に埼玉県生活福祉部長、1986年には埼玉県企画財政部長へ就任した。
樋口 公一(ひぐち こういち、1942年3月11日 - )は… 樋口 公一(ひぐち こういち、1942年3月11日 - )は、日本の実業家である。グッドウィル・グループ(現 プロンプトホールディングス←ラディアホールディングス)株式会社の元執行役員、株式会社コムスンの元代表取締役社長。
湯野川 孝夫(ゆのかわ よしお、1939年4月3日 - 20… 湯野川 孝夫(ゆのかわ よしお、1939年4月3日 - 2003年11月26日)は、日本の自動車技術者、実業家。元豊田工機代表取締役社長。 山形県米沢市出身。山形県立米沢興譲館高等学校を経て、1962年東北大学工学部機械工学科卒業。トヨタ自動車で開発に携わり、トヨタ自動車工業労働組副執行委員長等を経て、1992年には石坂芳男、白水宏典らとともに取締役に昇格した。豊田工機常務取締役、豊田工機代表取締役副社長を経て、2000年からは豊田工機代表取締役社長を務めていたが、2003年に出張先の東京都内のホテルで死亡しているのが発見され、覚王山日泰寺で社葬が行われた。
遠藤 武彦(えんどう たけひこ、1938年10月5日 - 2… 遠藤 武彦(えんどう たけひこ、1938年10月5日 - 2019年12月27日)は、日本の政治家。位階は従三位。 衆議院議員(6期)、農林水産大臣(第44代)、山形県議会議員、置賜農業共済組合組合長理事、山形県農業共済組合連合会会長理事、社団法人全国農業共済協会理事などを歴任した。愛称はエンタケ。 山形県米沢市出身。父は米沢市議会議長、山形県議をつとめ、山形農政に強い影響力を持っていた遠藤清海。現在の山形県立米沢興譲館高等学校を卒業後、1961年に中央大学文学部を卒業し、帰郷。県指導主事、米沢市農業協同組合理事などを務めた後、山形県議会議員(3期)を経て、1986年、第38回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選。
皆川 睦雄(みながわ むつお、1935年7月3日 - 200… 皆川 睦雄(みながわ むつお、1935年7月3日 - 2005年2月6日)は、山形県南置賜郡山上村大字関根(現・米沢市)出身のプロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ・解説者・評論家。 現役当時は同期入団の野村克也と共に南海ホークス黄金期の主力選手であり、同じくアンダースロー投手の杉浦忠と共に南海黄金時代のエースとして活躍した。通算成績は759試合登板、221勝139敗、防御率2.42。通算221勝はホークス(南海、ダイエー、ソフトバンク)の球団記録であり、1983年に山田久志に更新されるまでアンダースロー投手としてのNPB記録でもあった。なお、南海の大エースとして名高い杉浦(通算187勝)よりも通算勝利数は上回っており、200勝がラインとなる日本プロ野球名球会にも入会している。
近藤 鉄雄(近藤 鐵雄、こんどう てつお、1929年8月11… 近藤 鉄雄(近藤 鐵雄、こんどう てつお、1929年8月11日 ‐ 2010年3月4日)は、日本の政治家。位階は正三位。自由民主党衆議院議員。三木派・河本派に所属した。愛称は「コンテツ」。 母の実家のあった現在の山形県南陽市で生まれ、米沢市で育った。父の道雄は海軍軍人で、近藤が小学校3年時に37歳で戦死した。以後、織物工場の寮母となった母の手ひとつで育てられた。 海軍兵学校(77期)、高等商船学校を経て1953年3月に一橋大学経済学部を卒業。マルクス経済学の杉本栄一ゼミ出身。在学中は、ゼミの同期の宮川公男(一橋大学名誉教授)、玉井龍象(金沢大学名誉教授)とともに、日曜日朝から杉本の家で開かれるゼミで、杉本の指導の他、ゼミの特別研究生であった伊東光晴(京都大学名誉教授)や浅野栄一(中央大学名誉教授)、ゼミOBの宮崎義一(京都大学名誉教授)、宮崎犀一(元東京女子大学教授)からも指導を受けた。
松野 良寅(まつの よしとら、1926年(大正15年) - … 松野 良寅(まつの よしとら、1926年(大正15年) - 2012年(平成24年)3月12日)は、日本の英学者。日本英学史学会第7代会長、我栄記念館館長。豊田實賞、米沢市功績章を受章。 山形県出身。米沢中学から、海軍兵学校入校。松野は海兵75期で、在校中に第二次世界大戦の終結を迎え卒業証書を授与されている。 戦後は東北大学法文学部英文科を卒業し、母校の教員や山形県教育庁主事などを務める。1967年(昭和42年)から山形大学工業短期大学部助教授、同教養部教授、1992年(平成4年)から東北芸術工科大学教授を歴任。 英学者としては『興譲館世紀』で第1回豊田實賞を受賞。また日本英学史学会会長を務めた。
上村 重信(かみむら しげのぶ、1918年〈大正7年〉9月2… 上村 重信(かみむら しげのぶ、1918年〈大正7年〉9月24日 - 没年不明)は、日本の官吏。北海道土地開発公社副理事長兼専務理事。 山形県米沢市元中馬口労町出身。米沢市南部尋常小学校を卒業する。1936年に山形県立米沢興譲館中学校を卒業する。1945年に北海道帝国大学農学部農業経済学科を卒業する。北海道の拓殖調査研究を嘱託される。 北海道庁に入る。開拓部に勤務する。1951年に漁政課企画係長、1955年に同課企画調査係長。1958年に資源課次長、1961年に同課長、同年に人事課長。 1963年に網走支庁長。1964年に道立総合経済研究所副所長。1965年に北海道企画部次長。1967年に道立総合経済研究所長。
石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1… 石塚 庸三(いしづか ようぞう、1915年2月19日 - 1982年4月24日)は、山形県米沢市出身の実業家。東京帝国大学法学部政治学科卒。パイオニア2代目社長としてレーザーディスク事業を推進した。父は山形県立米沢興譲館高等学校教頭の石塚澄[要出典]。 1937年に東芝入社。東芝から1955年に日本電子機械工業会へ業務部長として出向。輸出問題で手腕を発揮。その後、ミツミ電機を経てスカウトされパイオニアに入社。常務、専務などを経て昭和46年社長に就任。パイオニアでは技術開発力の向上や無借金経営など財務体質の強化を図る傍ら、人材拡充にも注力。当時一介の中小企業であったパイオニアをオーディオのトップメーカーとして一流企業にまで発展させた。
佐藤 三郎(さとう さぶろう、1912年1月14日 - 20… 佐藤 三郎(さとう さぶろう、1912年1月14日 - 2006年1月30日)は、日本の歴史学者。山形大学名誉教授。国士舘大学教授。山形県出身。 1912年(明治45年)1月14日、山形県川西町小松に生れる。旧米沢興譲館中学、1931年(昭和6年)福岡高等学校文科乙類卒業、を経て、1934年(昭和9年)、東京帝国大学文学部国史学科卒業、同大学院に進学。日本史学の重鎮であった黒板勝美博士の下で研鑽。1936年4月人文科学資料研究科助手、1938年(昭和13年)から1942年まで、北京近代科学図書館勤務。これをきっかけとして、近代日中関係史に関心を持つ。 1942年山形高等学校教授、1949年山形大学文理学部助教授、1952年山形大学補導課長、1967年山形大学人文学部教授・山形大学評議員、1969年山形大学人文学部長、1973年山形大学学生部長、1977年退官に際して名誉教授。
舩山 信一(ふなやま しんいち、1907年7月29日 - 1… 舩山 信一(ふなやま しんいち、1907年7月29日 - 1994年3月16日)は、日本の哲学者・マルクス主義者。立命館大学名誉教授。マルクス、ヘーゲル、フォイエルバッハの研究を通じて人間学的唯物論を確立した。船山信一とも書かれる。 山形県東置賜郡吉島村(現:川西町)生まれ。米沢中学校(現:山形県立米沢興譲館高等学校)、山形高等学校を経て、1930年、京都帝国大学文学部哲学科卒業。西田幾多郎の下で哲学を学ぶ。マルクス主義者であることから、学派的には三木清、戸坂潤らとともにいわゆる西田左派に属する。1932年、戦前の著名なマルクス主義団体である唯物論研究会を戸坂潤らと結成。1933年、日本プロレタリア科学同盟に参加。
近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 194… 近野 信雄(こんの のぶお、1899年7月23日 - 1944年3月13日)は、山形県出身の大日本帝国海軍軍人。海軍兵学校48期卒業。太平洋戦争中に護送船団を指揮するが戦死。最終階級は海軍少将。従四位勳二等。米沢海軍武官会会員。 1899年(明治32年)に山形県で生まれる。生家の近野家は上杉謙信所縁の一族、毘沙門天信仰。大日本帝国海軍職業軍人の家系。山形県立米沢中学を卒業後、海軍兵学校に入学し、第48期で卒業。海軍軍人としては1942年(昭和17年)頃まで駆逐艦長、戦艦副長など海上勤務が中心であったが、1944年(昭和19年)1月7日に機雷学校教頭兼研究部長となる。 1944年3月には東松2号船団の運航指揮官として前線に戻り、海軍徴用輸送船「国陽丸」に乗船。
山田 勇助(やまだ ゆうすけ、1899年(明治32年)2月2… 山田 勇助(やまだ ゆうすけ、1899年(明治32年)2月22日 - 1942年(昭和17年)11月13日)は、日本の海軍軍人。水雷艇「千鳥」艇長として友鶴事件に際会。太平洋戦争において第六駆逐隊司令として第三次ソロモン海戦で戦死した。最終階級は海軍少将。 現在の山形県米沢市出身。米沢中学を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第32期)を受験し、双方に合格している。また、第一師団重砲兵第二連隊への配属も予定されていた。海軍兵学校へ進む。山田は海兵48期で、同期生171名中、中位の成績で卒業した。近野信雄は中学、海兵の同期生で、ともに米沢海軍武官会会員である。 1921年(大正10年)6月少尉任官。
我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日… 我妻 榮(わがつま さかえ、1897年〈明治30年〉4月1日 - 1973年〈昭和48年〉10月21日)は、日本の法学者。専門は民法。学位は法学博士(東京大学)、東京大学名誉教授、米沢市名誉市民。文化勲章、贈従二位(没時叙位)・贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。憲法改正に伴う家族法大改正の立案担当者の一人。鳩山秀夫に師事。弟子に有泉亨、川島武宜、四宮和夫、幾代通、加藤一郎、鈴木録彌、星野英一、西原道雄など。 山形県米沢市出身。英語教師の父・又次郎と家計のたしにするため、自宅で中学生相手に国・漢・数学を教えた母・つるの長男として生まれる。5人の子における唯一の息子であったため、父母を安心させなければという気持ちから一心に勉強に励んだ。
上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - … 上泉 秀信(かみいずみ ひでのぶ、1897年2月12日 - 1951年5月14日)は、日本の劇作家、新聞記者。 山形県米沢市生まれ。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)時代は浜田廣介や大熊信行と同人誌を発行。 早稲田大学中退。大正初期から短歌、戯曲を発表。都新聞学芸部長として、尾崎士郎の『人生劇場』を連載させた。 1935年発表の「村道」は4幕の舞台として創作座にて上演。1938年発表の「ふるさと紀行」も、翌1939年に4幕の舞台として新築地劇団により築地小劇場で上演された。 戦時中は大政翼賛会文化副部長。 戦後は福島県に疎開。「わが山河「鯉」(1946年)、「節分の客」(1948年)などを執筆。
椿 貞雄(つばき さだお、男性、1896年2月10日 - 1… 椿 貞雄(つばき さだお、男性、1896年2月10日 - 1957年12月29日)は、大正から昭和にかけて活動した洋画家。 1896年(明治29年)、山形県米沢市に生まれる。椿家の先祖は御館の乱にて上杉景虎方として戦った椿喜介。米沢藩では御扶持方(下士階級)の家柄であり、また分家は芸者組(下士階級)に組する芸能・芸術に明るい家系であった。医師を目指し早逝した長兄の影響で画家を志すようになった。1914年(大正3年)に山形県立米沢中学校を中退して上京し、岸田劉生の個展を見て衝撃を受け、彼に会いに行こうと決意した。自作の油絵を携えて劉生の自宅に向かい、ここで自画像を褒められたことから、劉生との交流が始まる。
江辺 清夫(えべ きよお、1895年(明治28年)11月5日… 江辺 清夫(えべ きよお、1895年(明治28年)11月5日 - 1950年(昭和25年)1月11日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、川崎市長。 山形県南置賜郡南原村猪苗代町(現米沢市)出身。旧米沢藩士・江辺信次(小学校長、郡視学、南原村長)、いよ夫妻の長男として生まれる。1914年3月、山形県立米沢中学校を卒業。第二高等学校を経て、1920年7月、東京帝国大学法学部法律学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格し逓信省に入省。1921年、内務省に転じ山梨県属・地方課兼学兵課勤務となる。 以後、山梨県西山梨郡長、山梨県警視・警察部警務課長兼巡査教習所長、同保安課長、山口県地方事務官・産業課長、同商工水産課長、同学務課長、富山県書記官・学務部長、山形県書記官・警察部長、三重県書記官・警察部長、熊本県書記官・警察部長、神奈川県経済部長などを経て、1939年4月、兵庫県総務部長に就任。
平 貞蔵(たいら ていぞう、1894年8月7日 - 1978… 平 貞蔵(たいら ていぞう、1894年8月7日 - 1978年5月28日)は、日本の思想家。新人会、昭和研究会に参加。昭和塾を設立。 山形県東置賜郡佐沢村(現在の長井市上伊佐沢)に平八蔵の二男として生まれる。米沢中学校、第三高等学校を経て、東京帝国大学法学部政治学科卒業。東京帝大の新人会に所属。 佐々弘雄の紹介で、奉天において後藤隆之助らに会い、これが縁で昭和研究会の支那問題研究会に参加することになり、多くの軍人と接触した。ソ連旅行中の宮本百合子と会っている(「道標」) 1926年〜1928年、1931年から1933年にかけ、法政大学図書館館長に就任。 昭和13年(1938年)5月に大山岩雄とともに中支視察のため上海へ赴き、6月に野田清海軍少将らと現地視察談を昭和研究会で発表。
相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14… 相田 岩夫(あいだ いわお、1894年〈明治27年〉6月14日 - 1982年〈昭和57年〉10月6日)は、戦前日本の大蔵官僚。日本銀行理事・監事、日本出版販売会社社長。 山形県出身。特定郵便局長相田広吉の二男として生まれた。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)、第一高等学校を卒業。1918年(大正7年)10月、高等試験行政科試験に合格。1919年(大正8年)7月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業した。大蔵省に入省し大蔵属に任官し銀行局に配属された。 以後、財務書記・米国駐在、司税官・千葉税務署長、幸橋税務署長、大蔵事務官・銀行局配属、銀行検査官などを歴任。帝人事件で検挙され1934年(昭和9年)5月に休職したが、冤罪事件のため1937年(昭和12年)12月に無罪判決を受けて復職。
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年〈明治26年〉5月25日 - 1973年〈昭和48年〉11月17日)は、日本の童話作家。本名は濱田 廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがあり、一連の作品は「ひろすけ童話」と称される。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。次男濱田滋郎は音楽評論家になった。 山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれた。幼少時から巖谷小波を愛読。米沢中学(現山形県立米沢興譲館高等学校)、早稲田大学英文科卒。中学時代は大熊信行や上泉秀信と同人誌を作っていた。 1914年(大正3年)大学入学の年に『萬朝報』の懸賞小説に短編小説『零落』が入選したのを皮切りに、何作かの小説を著す。
浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年… 浜田 広介(はまだ ひろすけ、旧字体:濱田 廣介、1893年(明治26年)5月25日 - 1973年(昭和48年)11月17日)は、日本の童話作家。本名は廣助。日本児童文芸家協会初代理事長。代表作に『泣いた赤鬼』『椋鳥の夢』『竜の目の涙』などがある。坪田譲治、小川未明とともに「児童文学界の三種の神器」と呼ばれた。既婚。息子は音楽評論家の濱田滋郎である。
大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1… 大熊 信行(おおくま のぶゆき、1893年2月18日 - 1977年6月20日)は、経済学者・文芸評論家・歌人。 富山大学教授、神奈川大学教授、創価大学教授などを歴任。福田徳三門下。 山形県米沢市元籠町生まれ。旧制米沢興譲館中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)を経て1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒。中学時代、浜田広介や上泉秀信と同人誌を作っていた。高商同期の歌人浦野敬はのちに、大熊の創刊した歌誌「まるめら」の同人となった。 1916年日清製粉入社。米沢商業学校で教鞭をとった後、1919年東京高等商業学校専攻部進学、1921年同卒。1941年経済学博士(東京商科大学)。論文の題は「経済理論における配分原理の所在並に適用に関する基礎的研究」。
山下 知彦(やました ともひこ、1891年(明治24年)6月… 山下 知彦(やました ともひこ、1891年(明治24年)6月23日 - 1959年(昭和34年)5月2日)は、日本の海軍軍人、華族。山下源太郎の養嗣子で艦隊派の一員である海軍大佐、男爵である。 高知市に生まれる。米沢の医師、水野廉平の次男。山本五十六夫人の礼子は従妹。山下源太郎の長女、千鶴子と結婚し山下家の養嗣子となる。米沢中学を経て海軍兵学校40期を卒業。席次は144名中30番。山口多聞、大西滝治郎、宇垣纏らが同期生である。1913年(大正2年)12月に少尉任官。 第一次世界大戦では「周防」乗組みとして出征し、青島攻略戦で陸戦隊を指揮して功五級に叙せられた。山下は砲術学校高等科、および同校の教官養成課程である専攻科を修了した砲術専攻の士官で、同校教官や軽巡洋艦「球磨」砲術長などを務めた。
海野 三朗(うんの さぶろう、1889年(明治22年)9月2… 海野 三朗(うんの さぶろう、1889年(明治22年)9月21日 - 1961年(昭和36年)1月14日)は、大正・昭和期の冶金学者、僧侶、政治家。衆議院議員、参議院議員、理学博士。 山形県山形市で、浄土真宗本願寺派・明善寺住職、海野覚英の三男として生まれる。1916年(大正5年)東北帝国大学理科大学物理学科を卒業した。 山形県立米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)教諭に就任。1919年(大正8年)農商務省に入省し、製鐵所技手、同技師を歴任。その後、八幡製鉄所研究所員、日本製鐵理事、同研究所調査部長、技術院事務嘱託などを務めた。1935年(昭和10年)鉄炭素の研究で日本学士院賞を受賞した。
北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5… 北澤 敬二郎(きたざわけいじろう、1889年(明治22年)5月28日 - 1970年(昭和45年)10月25日)昭和期の実業家。住友本社常務理事、大丸社長を務めた。位階は従三位。 山形県米沢市元籠町に於いて、旧米沢藩士で海軍省経理局などの官吏を務めた北沢虎蔵の次男として生まれる。米沢尋常中学興譲館(現・山形県立米沢興譲館高等学校)、一高を経て、1914年に東京帝国大学法科大学を卒業後、住友総本店に入社。アメリカ・プリンストン大学への留学を経て、住友電線支配人、住友倉庫専務、住友生命保険専務を歴任。1931年に住友本社常務理事となる。しかし、敗戦後の1946年に財閥解体で理事を辞任。翌1947年には公職追放の憂き目に遭った。
土佐林 義雄(とさばやし よしお、1887年〈明治20年〉8… 土佐林 義雄(とさばやし よしお、1887年〈明治20年〉8月 - 1957年〈昭和32年〉11月28日)は、 日本のアイヌ民族研究者。北海道大学教授。 1887年8月、山形県米沢市に生まれる。 米沢中学校を経て、1909年4月に早稲田大学理工科予科入学。1911年9月に家事都合で中退後、1912年6月から同大理工科建築学研究室の佐藤功一の助手となり工芸美術を専攻。1915年1月から建築学会の書記となり、『建築雑誌』の編輯にあたる。 1922年4月から北海道大学予科の講師となり、図画を担当する。1940年9月から教授となり、高等官六等に叙される。1943年に従六位に叙される。1949年5月に同大教授を退官。
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月… 南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年〈明治20年〉3月25日 - 1944年〈昭和19年〉7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。正三位勲一等功一級。 1887年3月25日、山形県南置賜郡米沢信夫町(現在の米沢市)で、郡役所書記の父・南雲周蔵と母・志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。父の周蔵は旧米沢藩士であり、藩では御扶持方(中士階級)でもあった。 米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。
高橋 里美(たかはし さとみ、1886年(明治19年)11月… 高橋 里美(たかはし さとみ、1886年(明治19年)11月28日 - 1964年(昭和39年)5月6日)は、日本の哲学者。男性。元東北大学総長。文化功労者。 1886年、山形県東置賜郡上郷村(現米沢市)で生まれた。13歳の時に父を失い、米沢にあった母の実家本間家で育った。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)、第一高等学校を経て、1907年(明治40年)に東京帝国大学文科大学に入学。哲学科で学び、1910年(明治43年)に卒業。同大学大学院へ進み、修了した。大学院在学時の26歳の時に処女論文「意識現象の事実と其意味」(1912年5・6月号『哲学雑誌』)を発表して西田幾多郎『善の研究』を批判し、西田と論争を展開して注目された。
田制佐重(たせい すけしげ、1886年11月25日ー1954… 田制佐重(たせい すけしげ、1886年11月25日ー1954年10月30日)は、日本の教育社会学者。 山形県置賜郡添川村(現・飯豊町添川)生まれ。山形県立米沢中学校卒、1907年早稲田大学文学部文学科卒。新潟県立高田中学校教諭、1913年に退職して上京、大日本文明協会で翻訳の仕事をする。1915年大日本文明協会編集部員。1946年早大文学部講師。のち教育学部講師を兼ねる。