柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、1767年(明和4年) … 柏戸 宗五郎(かしわど そうごろう、1767年(明和4年) - 1818年2月18日(文化15年1月14日))は、江戸時代の大関。武蔵国足立郡(現・草加市)出身。本名は大久保 清五郎。身長184cm、体重116kg。雷電爲右エ門の好敵手として名があるが、自身も強豪大関の一人だった。享保2年2月関脇昇進。 同郷の縁で3代伊勢ノ海の弟子となった。当時の力士としては珍しく序ノ口で初土俵(天明6年(1786年)11月)。若名乗りは滝ノ音。新入幕は寛政7年(1795年)11月。新入幕の場所、雷電不在場所ではあったが、8勝1敗1休で優勝相当成績を残す。寛政10年(1798年)3月場所4日目、師匠の急死によって二枚鑑札で4代伊勢ノ海を襲名。
関ノ戸 澤右エ門(せきのと さわえもん、1767年 - 18… 関ノ戸 澤右エ門(せきのと さわえもん、1767年 - 1817年12月21日)は、上野国多胡郡馬庭村(現在の群馬県高崎市吉井町)出身で佐渡ヶ嶽部屋に所属した大相撲力士。本名は阿藤 初五郎。江戸時代寛政年間から文化年間にかけて活躍した松江藩お抱えの人気力士。最高位は小結。
市野上 浅右エ門(いちのかみ あさえもん、1767年(明和4… 市野上 浅右エ門(いちのかみ あさえもん、1767年(明和4年) - 1802年(享和2年)9月9日(旧暦8月13日))は、山形県温海町(現:山形県鶴岡市温海)出身の元大相撲力士。本名は斎藤 浅右衛門(さいとう あさえもん)。 大相撲史上最強力士、雷電爲右エ門に二度勝利した唯一の力士として知られる。 1767年に山形県温海町(現:山形県鶴岡市温海)で温泉宿「あらやまや(新玉屋)」の三代・斉藤五左衛門の長男として生まれ、幼名は五郎吉だった。1788年(天明8年)に初代・出羽ノ海に見出されたことで入門、1790年(寛政2年)11月場所において三段目付出しで初土俵を踏んだ。1793年(寛政5年)3月場所(幕下筆頭、現在でいう十両)と1797年3月場所にて雷電爲右エ門から勝利を挙げ、雷電に二度勝った唯一の力士となった。
岡田 惣右衛門(おかだ そうえもん、明和2年3月15日〈17… 岡田 惣右衛門(おかだ そうえもん、明和2年3月15日〈1765年5月4日〉 - 文政9年9月24日〈1826年10月25日〉)は、江戸時代の剣術家。柳剛流兵法(剣・居合・杖・長刀)の開祖。諱は奇良。 武蔵国葛飾郡惣新田(現埼玉県幸手市)出身。幼くして文武を磨き、18歳で江戸に赴き心形刀流、伊庭直保の弟子大河原有曲に学び、さらにその後武者修行に出て広沢長喜から三和無敵流や山本流等を修め、柳剛流を起こした。 北辰一刀流の玄武館同様、神田お玉ヶ池界隈に道場を構えており、万延元年(1860年)の『武術英名録』によれば門人数は北辰一刀流を超えていたという。 柳剛流は相手の脛を斬ることと、斬撃の際に左右の足を入れ替える飛び違いの技法に特徴があり、実戦力の高い剣術に昇華させた。
山東 京伝(さんとう きょうでん、旧字体: 山東 京傳、宝暦… 山東 京伝(さんとう きょうでん、旧字体: 山東 京傳、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) - 文化13年9月7日(1816年10月27日))は、江戸時代後期の浮世絵師、戯作者。浮世絵師としては北尾 政演()と号し、葎斎()、北尾葎斎政演、北尾京伝、山東政演とも号して寛政元年(1789年)まで活動した。作画期は安永7年ころから文化12年前後(1778年-1815年)であった。寛政の改革における出版統制により手鎖の処罰を受けた。本業として現在の銀座1丁目に喫煙用の小物販売店「京屋」を開き、自分がデザインした紙製煙草入れが大流行した。「京屋」は京伝の作品中に宣伝として頻繁に登場している。 本名は岩瀬 醒()、または田臧()。
小谷田 子寅(こやた しいん、1761年(宝暦11年)4月4… 小谷田 子寅(こやた しいん、1761年(宝暦11年)4月4日 - 1831年(天保2年)4月11日)は八王子千人同心の一人。1761年(宝暦11年)4月4日、武蔵国多摩郡川口村(現・八王子市川口町)に生まれる。通称は権右衛門、諱は昌亮。 学問を塩野光廸(鶏沢、塩野適斎の養父)に、剣術を真鏡斎(若菜主計)に、医術を岑貉丘に学んだ。また、天文学にも詳しく、西洋学を好んだという。1831年(天保2年)4月11日、死去。享年71。1964年7月23日、心源院(八王子市下恩方町)に建つ「子寅先生碑」が八王子市の文化財に指定された。同碑の撰文は塩野適斎、書は植田孟縉が担当した。
青柳 文蔵(あおやぎ ぶんぞう、宝暦11年〈1761年〉 -… 青柳 文蔵(あおやぎ ぶんぞう、宝暦11年〈1761年〉 - 天保10年3月14日〈1839年4月27日〉)は、仙台藩領磐井郡東山町(現在の岩手県一関市東山町松川)出身の江戸時代後期の商人。医師・小野寺三達の三男として生まれる。名は茂明、号は東里、近水楼主人。青柳文庫の名前の由来となった人物である。 清和源氏佐竹氏あるいは武田氏の後裔と称し、兄2人、姉3人の末子であった。父は私塾もやっていたので幼いころから和漢の書物に触れる機会を持っていた。18歳で江戸に出て、苦労しながら学問を続け、井上金峨に儒学を学んだ。その後、公事師として財をなすに至った。 墓所は東京都豊島区高田の金乗院にある。 1831年(天保2年)、仙台藩に書籍2,885部、9,937冊、また100両を贈り、藩はこれを公開図書館として一般に供することとなり、これが日本の最初の公開図書館となる。
二所ノ関 軍右エ門(にしょのせき ぐんえもん、1760年〈宝… 二所ノ関 軍右エ門(にしょのせき ぐんえもん、1760年〈宝暦10年〉 - 1823年3月17日〈文政6年2月5日〉)は、伊勢ノ海部屋及び柏戸部屋に所属した元力士。四賀峰東吉(元大関)は甥、娘婿に当たる。 本名は小田島 音藏。身長184cm、体重109kg。出身地は現在の岩手県北上市(旧・陸奥国和賀郡)。最高位は西大関。南部藩の抱えであった。 最初は南部相撲で相撲人生をスタートさせた。1783年3月に初土俵(二段目〈現在の幕下〉)を踏んだ。1786年3月東二段目6枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。1789年11月場所、西十両筆頭で7勝1敗2分の優勝相当成績を挙げ、翌1790年3月場所で新入幕を果たした。
頼 杏坪(らい きょうへい、宝暦6年(1756年)7月 - … 頼 杏坪(らい きょうへい、宝暦6年(1756年)7月 - 天保5年7月23日(1834年8月27日))は江戸時代の儒学者、広島藩士。名は惟柔(ただなご)、字は千祺(せんき)・季立、号は春草堂、通称は万四郎、別号に春草、杏翁。
嚴嶋 関右エ門(いつくしま せきえもん、1756年(宝暦6年… 嚴嶋 関右エ門(いつくしま せきえもん、1756年(宝暦6年) - 1794年(寛政6年)6月16日(旧暦5月19日))は、讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)出身の元大相撲力士。本名は三崎と伝わっているが、詳細は不明である。 1756年(宝暦6年)に讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)の筆ノ山(現在の善通寺市内)の麓にある牛飼いの家に生まれる。幼少期より並外れた怪力で、通行人を待ち受けては相撲を取ったり、俵を担いできた人を抱いて弘田川を渡ったりしたと伝えられている。当初は朝日山部屋(大坂相撲)に入門し、丸亀藩の抱え力士として1779年10月場所で初土俵を踏んだ。1781年3月場所で東二段目(現在の十両)10枚目へ昇進するが、その後は不振により勝ち越しが一度も無かった。
栗木 尚謙(くりき ひさかた、1753年3月20日〈宝暦3年… 栗木 尚謙(くりき ひさかた、1753年3月20日〈宝暦3年2月16日〉 - 1815年2月23日〈文化12年1月15日〉)は、伯耆国米子(現在の鳥取県米子市)の武士(鳥取藩士)。『樵濯集』の著者。栗木家8代目。初めの諱は祥宜(よしのぶ)、幼名は助三郎。 米子城下に生まれる。1763年に父・義成が死去し、11歳で跡目相続する。1778年、米子城の御破損奉行に任ぜられ、禄高200石となる。1779年、諱を尚謙と改め、字を柘植義方の撰で子恭と名乗る。 1787年、病気のため退役を願い許され、2年半余家に籠る。1790年、再び出仕を要請され、御破損奉行に再任され、以後その職に11年専念する。1800年に退役するまで21年間御破損奉行を務めた。
宮城野 錦之助(みやぎの にしきのすけ、延享元年(1744年… 宮城野 錦之助(みやぎの にしきのすけ、延享元年(1744年) - 寛政10年6月5日(1798年7月18日))は、陸奥国江刺郡(現在の岩手県奥州市)出身で佐野山部屋に所属した江戸時代の大相撲力士。本名は小島 大八(こじま だいはち)。体格は身長182cm、体重116kg。最高位は関脇。 最初は江戸相撲関ノ戸億右衛門の弟子となり、江刺川大八と名乗り明和3年(1766年)に初土俵を踏んだ。のちに仙台出身の宮城野丈助の門に移り宮城野大八と改名し、安永10年(1781年)3月に38歳で初入幕した。天明3年(1783年)3月小結になり名を錦之助と改名した。 初土俵は明和3年(1766年)10月場所だが、安永10年(1781年)3月になって新入幕。
稲川政右衛門(いながわまさえもん 1739年-1800年)江… 稲川政右衛門(いながわまさえもん 1739年-1800年)江戸時代中期の大阪府出身初の幕内力士。 最高位は前頭筆頭。藤島部屋所属。 本名・多田屋政右衛門→虎屋政右衛門。 改名歴・稲川政右エ門 → 猪名川 → 稲川政右エ門 → 稲川政右衞門 → 稲川政右エ門 → 伊名川政右エ門 → 稲川政右エ門。 元文4年、大阪府池田市生まれ。没年・寛政12年10月9日(61歳)。 明和6年(1769年)4月に新入幕。 三役に昇進せず、天明4年(1784年)に現役を引退。 生涯戦歴 142勝35敗49休10分12預14無/213出(33場所) 幕内戦歴 91勝23敗49休8分11預12無/145出(23場所) 前頭戦歴 91勝23敗49休8分11預12無/145出(23場所) 十両戦歴 51勝12敗2分1預2無/68出(10場所) この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。
柏戸 村右衛門(かしわど むらえもん、元文3年(1738年)… 柏戸 村右衛門(かしわど むらえもん、元文3年(1738年) - 寛政8年(1796年))は、武蔵国(現在の埼玉県)出身の元大相撲力士。 現在の埼玉県加須市北川辺町出身。 初代伊勢ノ海(幕内・伊勢ノ海五太夫)が開いた伊勢ノ海部屋に入門。宝暦9年(1759年)3月場所の五段目(現在の序ノ口に相当)が番付初見。大半は二段(現在の幕下に相当)の地位にあり、途中備前藩主池田家の抱えとなり、三千ノ川強右衛門を名乗ったこともある。初代没後の安永5年(1776年)1月場所に38歳にして新入幕を果たした。 安永9年(1780年)10月場所以降は既に二枚鑑札となっており、天明元年(1781年)には現役のまま勧進元をつとめる等、初代、2代伊勢ノ海(関ノ戸億右エ門)と同様、興業的手腕や事務的能力を発揮。
佐渡嶽 沢右エ門(さどがたけ さわえもん、1737年 - 1… 佐渡嶽 沢右エ門(さどがたけ さわえもん、1737年 - 1795年)は、上野国群馬郡(群馬県前橋市)出身で伊勢ノ海部屋に所属した江戸時代の大相撲力士。最高位は前頭2枚目。現代に続く年寄名跡・佐渡ヶ嶽の初代である。
関ノ戸 億右エ門(せきのと おくえもん、元文元年〈1736年… 関ノ戸 億右エ門(せきのと おくえもん、元文元年〈1736年〉 - 天明2年4月17日〈1782年5月28日〉)は、陸奥国(現在の岩手県)出身の大相撲力士。 現在の岩手県一関市花泉町永井出身。 初代伊勢ノ海(幕内・伊勢ノ海五太夫)が開いた伊勢ノ海部屋に入門。頭書は「仙台」。宝暦7年(1757年)10月場所にいきなり前頭筆頭に附け出される形で初土俵を踏む。その後小結から関脇を務め、三役力士としての貫禄を示した。 安永3年(1774年)、初代伊勢ノ海が没すると、2代伊勢ノ海を襲名し、二枚鑑札で現役のまま部屋を経営。安永6年(1777年)10月場所限りで現役を引退、年寄専務となり、初代同様仙台藩の後ろ盾を得て勢力を維持する。
円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字体: 圓山 應擧、享保1… 円山 応挙(まるやま おうきょ、旧字体: 圓山 應擧、享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期~後期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した画風が特色である。 諸説あるが「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われている。 本姓は藤原、後に源、姓は円山、名は岩次郎、後に主水。夏雲、雪汀、一嘯、仙嶺、僊斎、星聚館、鴨水漁史、攘雲、洛陽仙人と号す。石田幽汀の門人。享保18年(1733年)、丹波国桑田郡穴太(あなお)村(現在の京都府亀岡市曽我部町穴太)に農家の次男として生まれた。穴太は、西国三十三所の札所寺院である穴太寺があることで知られる。
大黒 清勝(おおぐろ きよかつ、1726年〈享保11年〉 -… 大黒 清勝(おおぐろ きよかつ、1726年〈享保11年〉 - 1790年3月28日〈寛政2年2月13日〉)は、土佐藩士、日本の武道師範。無双直伝英信流居合術第11代宗家。字は「元右衛門」。長曾我部氏の支流で、本姓は秦氏。 享保11年(1726年)、土佐藩士(馬廻役・300石)・大黒好勝(文之丞)の三男として土佐国高知城下(現・高知県高知市)に生まれる。 武士の嗜みとして、無双直伝英信流居合を、林安太夫政詡より習う。 明和2年(1765年)、父好勝の跡目相続。 安永6年(1777年)、馬廻組頭、天明2年(1782年)大目付(大監察)切支丹改役、翌年(1783年)、軍備御用兼帯となる。 長谷川英信流居合の伝書を林安太夫政詡から受け、第11代宗家となる。
勝部 如春斎(かつべ じょしゅんさい、享保6年(1721年)… 勝部 如春斎(かつべ じょしゅんさい、享保6年(1721年) -天明4年6月27日(1784年8月12日))は、日本の江戸時代中期に活躍した絵師。 摂津国武庫郡西宮(現在の兵庫県西宮市)で、酒造業の名家・雑喉(ざこ)屋勝部源十郎兼唯の第三子(次男)として生まれる。天明7年(1787年)出版の『新撰和漢書画一覧』以来長らく姓は山本と誤伝されたが、これは同じ西宮で雑喉屋の屋号を持った別の名家・山本家と混同した誤りである。名は順蔵。字は兼寿、後に典寿。初め容斎、後に如春斎と号した。 大坂の狩野派絵師・櫛橋栄春斎に学んだといい、兄弟弟子に森狙仙の兄・森陽信(永春斎)がいる。後に狙仙は如春斎に弟子入りしたとされるが、それもこうした師弟の繋がりからだろう。
風間 閑斎(かざま かんさい、享保元年(1716年) - 寛… 風間 閑斎(かざま かんさい、享保元年(1716年) - 寛政11年10月29日(1799年11月26日))は、日本の医師、開業医、酒田風間氏宗家第三代当主(三代目 風間彦惣)。号は臥牛山人。 1716年(享保元年)、酒田風間氏宗家・初代:風間彦惣(彦次郎)の次男として出羽国飽海郡(現在の酒田市)に生まれる。 村上風間氏に婿入りし五代目・宮川屋を継ぐ予定だったが、酒田に戻って姉・「はる」の夫である二代目:風間彦惣(彦助)の後を受けて三代目:風間彦惣となる。 晩年になってから家業を長男:仁助(四代目:風間彦惣)に譲り、医学を学んで名前を閑斎と改め、次男の医師・風間東美と共に大工町で開業する。 1799年(寛政11年)、死去。
丸山 権太左衛門(まるやま ごんだざえもん(ごんたざえもん)… 丸山 権太左衛門(まるやま ごんだざえもん(ごんたざえもん)、1713年(正徳3年)- 1749年12月23日(寛延2年11月14日))は、仙台藩・陸奥国領出身で七ツ森部屋に所属した大相撲力士。第3代横綱。本名は芳賀 銀太夫(はが ぎんだゆう)。 陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。元文年間頃に初土俵を踏む。家老衆の家来になって江戸見物に出たが、体が重く歩くのが下手だったため、二足用意した草鞋をすぐ踏み潰しては徹夜で編み直すこととなり、馬に乗せれば足が地に着いてしまうほどだった。やっとの思いで江戸に到着したが、これでは故郷に帰るのもおぼつかないために入門したと伝わる。1737年(元文2年)4月大坂堀江で行われた興行に西大関として出場。
緒形 仁平(おがた にへい、1712年8月26日〈正徳2年7… 緒形 仁平(おがた にへい、1712年8月26日〈正徳2年7月25日〉 - 1796年5月19日〈寛政8年4月13日〉)は、日本の鉄山師。伯耆国黒坂の緒形家7代。諱は政直。四郎兵衛と称する。 伯耆国黒坂(現・鳥取県日野郡日野町)の人。元文5年、宗旨庄屋、宝暦3年(1753年)、大庄屋となる。宝暦4年(1754年)8月、米300石差出し、翌宝暦5年の藩邸上屋敷類焼に際して畳2000枚差上げ、米子城修復米積立法により米1800石を積立てるよう命ぜられた時は、そのうち400石を自分で拠出する。さらに福田家からは、取替銀の利息として年々米20石を受ける。 殖産興業にも意を用い各地の開拓、水利の改良等に努力する。
牧庵 鞭牛(ぼくあん べんぎゅう、宝永7年(1710年) -… 牧庵 鞭牛(ぼくあん べんぎゅう、宝永7年(1710年) - 天明2年9月2日(1782年10月8日))は、江戸時代中期に陸奥国で活動した僧。 1710年(宝永7年)、和井内村(現在の岩手県宮古市)の農家にて出生。成長後は炭鉱夫などに従事していたが、22歳の時、母の死を機に仏門に入る。1748年、32歳の時に栗林村(現在の岩手県釜石市)曹洞宗常楽寺住職、38歳で林宗寺住職になる。 1755年(宝暦5年)、46歳の時に三陸・閉伊地方を襲った飢饉(宝暦の飢饉)の被害のあまりの大きさに直面し、古くから陸の孤島であったこの地方と内陸とを結ぶ道を築く事を決意し、以後は三陸沿岸の海辺道をはじめ、宮古から盛岡に至る往路などの開削に生涯を捧げることとなる。
谷川 士清(たにがわ ことすが、宝永6年2月26日〈1709… 谷川 士清(たにがわ ことすが、宝永6年2月26日〈1709年4月5日〉- 安永5年10月10日〈1776年11月20日〉)は、江戸時代の国学者である。通称は養順。字は公介。号は淡斎。 伊勢国の津(現・三重県津市)の医者の家に生まれる。京都に出て医学を学ぶ傍ら、玉木正英(葦斎)から垂加神道を学ぶ。津に帰郷後、医業に精を出す一方で、家塾「洞津谷川塾」を開いて門人を指導したほか、道場「森蔭社」を設けて神道を教授した。また、有栖川宮職仁親王から和歌を学ぶなど、独学で国学を研究した。 宝暦事件と明和事件によって竹内式部が処罰されると、親しい交流のあった士清も嫌疑をかけられたが、士清は藤堂高朗の助けで事なきを得た。
青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日〈1698… 青木 昆陽(あおき こんよう、元禄11年5月12日〈1698年6月19日〉 - 明和6年10月12日〈1769年11月9日〉)は、江戸時代中期の、幕臣御家人、書物奉行、儒学者、蘭学者。さつまいもの普及を図り、甘藷先生(かんしょせんせい)と呼ばれる。名は敦書(あつのり、あつぶみ)、字は厚甫(原甫とも)、通称は文蔵、昆陽と号した。 江戸日本橋小田原町(現在の東京都中央区)の魚屋・佃屋半右衛門の1人息子として生まれる。先祖は近江国の人で、蒲生氏一族という。 浪人として京都の儒学者である伊藤東涯の古義堂に入門して儒学を学ぶ。江戸町奉行所与力・加藤枝直(又左衛門)と懇意で、享保18年(1733年)に加藤の推挙により南町奉行・大岡忠相に取り立てられ、幕府書物の閲覧を許される。
玉田 黙翁(たまだ もくおう、1697年〈元禄10年〉 - … 玉田 黙翁(たまだ もくおう、1697年〈元禄10年〉 - 1785年〈天明5年〉)は、江戸時代中期の儒学者。名は信成、通称は喜内(記内)、久左衛門といい、虎渓庵(こけいあん)・適山(てきざん)・黙翁と号した。 野尻新田村(現・加古川市志方町野尻)生まれ。京都に出て朱子学者・山崎闇斎の高弟・三宅尚斎に学んだ。祖父と父が書斎とした建物を引き続き利用して塾を開き、門弟の教育にあたった。塾は虎渓精舎と呼ばれていた。この塾では、姫路藩の儒学者・合田麗沢や龍野藩主の学問の師・股野玉川をはじめ多くの人が学び、遠く京都からの訪問者もみられた。黙翁の在世当時、野尻新田を小田原藩が所領していたこともあり、江戸の藩邸に2回招かれて講義をした。
寺田 臨川(てらだ りんせん、延宝6年7月8日(1678年8… 寺田 臨川(てらだ りんせん、延宝6年7月8日(1678年8月24日) - 延享元年11月24日(1744年12月27日))は江戸時代中期の儒学者。本姓は源氏、通称は立革、半蔵、諱は高通、字は鳳翼、士豹。
服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - … 服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。 服部家は淡路出身の武家で、父服部喜太夫高治も常陸麻生藩主・新庄直時などに仕えた下級武士であった。嵐雪の生れについては、江戸湯島とする説と、淡路国三原郡小榎並村(現:兵庫県南あわじ市榎列小榎列)とする説がある。これについて潁原退蔵は、実家が淡路、嵐雪自身は江戸の生れであったため両説が伝えられたのではないかと考察している。
陸奥守 吉行(むつのかみ よしゆき、1650年 - 1710… 陸奥守 吉行(むつのかみ よしゆき、1650年 - 1710年)は、陸奥国中村(現:福島県相馬市中村)、または摂津国住吉(現:大阪府大阪市住吉区)出身の刀工。本名は森下平助。土佐に移住したことから土佐吉行とも呼ばれる。 同じく刀工である播磨守吉成の次男で、上野守吉国の弟。山岡家の養子となり、のち父兄ともに大坂の刀工・初代大和守吉道に入門し、作刀を修行する。土佐藩の山岡家の養子となった際に山岡姓を名乗る。吉行は元禄年間に土佐藩に招聘され、同藩の鍛冶奉行となった。後に受領名として陸奥守を受領する。大坂にてその生涯を終えたとされている。 この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。
初代 大樋 長左衛門(しょだい おおひ ちょうざえもん、寛永… 初代 大樋 長左衛門(しょだい おおひ ちょうざえもん、寛永8年(1631年) - 正徳2年2月27日(1712年4月2日))は、江戸時代の陶工。大樋焼を創始した。河内生まれ。屋号は荒屋、号は臘月庵。 河内国土師村(現・大阪府藤井寺市)出身。はじめ土師長左衛門と称す。明暦2年(1656年)から京都・二条瓦町に居住し楽家四代目一入に学んだのち、寛文6年(1666年)に加賀藩第5代藩主・前田綱紀から茶堂として招かれた。裏千家家元・4代目千宗室(仙叟)に同道し加賀藩に赴き、楽焼の脇窯である大樋焼を始めた。貞享3年(1686年)に仙叟が帰京したあとも金沢に残り、河北郡大樋村(現・金沢市大樋町)で藩の焼物御用を務めて、地名から大樋姓を許される。
コルネリア・ファン・ネイエンローデ(Cornelia van… コルネリア・ファン・ネイエンローデ(Cornelia van Nijenroode、1629年 - 1691年)は、バタヴィア(ジャカルタ)の実業家。 オランダ人と日本人の子供として平戸に生まれ、江戸時代の鎖国政策によってオランダ植民地のバタヴィアへ追放された。バタヴィアでは東インド会社で働く男性と結婚し、投資などの事業をおこなった。しかし再婚した相手が彼女の資産を求めたために争いとなり、バタヴィア社会やオランダ本土も巻き込んだ訴訟となった。彼女の生活や訴訟を通して、17世紀当時の植民地における混血女性の生活や、バタヴィアの社交界、日本との関係、夫婦財産契約の不平等をうかがえる記録となっている。
徳川 光圀(とくがわ みつくに、寛永5年6月10日〈1628… 徳川 光圀(とくがわ みつくに、寛永5年6月10日〈1628年7月11日〉 - 元禄13年12月6日〈1701年1月14日〉)は、江戸時代前期の大名。常陸水戸藩の第2代藩主。諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫に当たる。 儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。 後世では創作の題材になり「水戸黄門」として知られている。「水戸黄門」の「水戸」とは領地である水戸のこと、「黄門」は官職である中納言・権中納言の唐名(漢風名称)である。一般に「水戸黄門」といえば光圀のことを指すが、歴代の水戸藩主には光圀以外にも頼房、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤が中納言・権中納言に任じられており、「水戸黄門」と呼ぶに足る人物は7人いたことになる。
長崎のマグダレナ(ながさきのマグダレナ、1610年 - 16… 長崎のマグダレナ(ながさきのマグダレナ、1610年 - 1634年10月15日)は、江戸時代初期のキリシタン。ドミニコ会第三会の修道女であり、1987年に「聖トマス西と15殉教者」の一人として、大村のマリナと共に日本人女性として初めてカトリック教会の聖人に列せられた。 1610年(慶長15年)、マグダレナは長崎近郊の村にて誕生。両親は敬虔なキリシタン(カトリック信者)であり、後に殉教したといわれている。知られているのは生年、生誕地、洗礼名のみで、日本名は知られていない。はじめ聖アウグスチノ修道会の司祭の指導を受けたが、後にドミニコ会の司祭ジョルダーノ・アンサローネの指導を受けるようになる。彼女はその身を神にささげる決心をして第三会に入り、1632年(寛永9年)ごろ誓願を果たしたが、修練が終わらないうちに、アンサローネ神父は逮捕された。
惣助(そうすけ、1603年生誕。没年月日不明。) 通称「惣助… 惣助(そうすけ、1603年生誕。没年月日不明。) 通称「惣助翁」(渡辺姓を名乗ったという説もある。)秋田県にかほ市象潟町(旧中塩越村)の一百姓。貧しい村の将来を憂い、田に水を引くための灌漑用水路の完成のために心血を注ぐ。 その様子は鬼気迫る有様で、「満三年不眠不休の努力と全私財を投じて開通せられたるものにして・・・」と現在の「にかほ市象潟町象潟島」にある蚶満寺の碑に記されている。 時は江戸時代初期、度重なる飢饉にさらされる村を救うためには荒地を開墾し、稲作の拡張をする必要があった。 しかしそこに水を運ぶための水路が必要となる。荒地開墾を望む声は幾たびもあがっていたが、水路完成の見込みがないとして掘削許可が下りたことはなかった。
金鍔次兵衛(きんつば じひょうえ、慶長5年(1600年) -… 金鍔次兵衛(きんつば じひょうえ、慶長5年(1600年) - 寛永14年9月20日(1637年11月6日))は17世紀日本の聖アウグスチノ修道会司祭、カトリック教会の福者ペトロ岐部と187殉教者の1人。 金鍔次兵衛は肥前大村のキリシタンの両親の下に生まれ、父はレオ小右衛門、母はクララおきやといい、後に殉教者となる。洗礼名は「トマス」で姓名ははっきりしない。なお、「金鍔」という名は彼が長崎奉行所で役人に成りすましていた際にさしていた刀の金具である金鍔(きんつば)に由来する。6歳のころ、司祭を志し、有馬のセミナリヨ(キリシタン時代の神学校)で神学を学んだが徳川幕府による禁教令により、マカオに追放され引き継き勉学に励んだ。
トマス西六左衛門(トマス にし ろくざえもん、1590年 -… トマス西六左衛門(トマス にし ろくざえもん、1590年 - 1634年11月17日(寛永11年9月17日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教(カトリック)の司祭。1987年に「聖トマス西と15殉教者」の一人としてカトリック教会の聖人に列せられた。 1590年(天正18年)、ガスパル西の次男として肥前国松浦郡生月島(現在の長崎県平戸市)で誕生。母はウルスラ・トイ。両親は敬虔なキリシタンであり、自身もカトリックの幼児洗礼を受けた。幼少のころ有馬(現在の長崎県南島原市)のセミナリオで勉学に励み、同宿(教会や修道院で奉仕する人)になり、1620年にマニラに渡る。1624年、ドミニコ会に入り「ロザリオのトマス」の修道名を授かる。
ペトロ 岐部(ペトロ きべ、日本名・本名: 岐部 茂勝(きべ… ペトロ 岐部(ペトロ きべ、日本名・本名: 岐部 茂勝(きべ しげかつ)、1587年(天正15年) - 1639年7月4日(寛永16年6月4日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけてのキリスト教(カトリック)の司祭。ペトロ・カスイ岐部とも呼ばれる。 司祭になるべくローマへ向かう途上、日本人として初めてエルサレムを訪問するなど、近世初頭の日本人の中で最も世界を渡り歩いたため「日本のマルコ・ポーロ」、「世界を歩いたキリシタン」ともいわれる。同時期に日本で殉教した187人の殉教者とともに、「ペトロ岐部と187殉教者」として2008年にカトリック教会の福者に列せられた。 1587年、豊後国国東郡の岐部(現・大分県国東市国見町岐部)で、父・ロマーノ岐部、母・マリア波多の元に生まれる。
春日局/斎藤福(かすが の つぼね/さいとう ふく、天正7年… 春日局/斎藤福(かすが の つぼね/さいとう ふく、天正7年〈1579年〉 - 寛永20年9月14日〈1643年10月26日〉)は、安土桃山時代から江戸時代前期の江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。 父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であった斎藤利三、母は稲葉良通(一鉄)の娘である稲葉安、又は稲葉一鉄の姉の娘・於阿牟、養父は稲葉重通。稲葉正成の妻で、正勝・正定・正利の母。養子に堀田正俊。 江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱・柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。また、朝廷との交渉の前面に立つ等、徳川政権の安定化に寄与した。
中浦 ジュリアン(なかうら ジュリアン、Nakaura Ju… 中浦 ジュリアン(なかうら ジュリアン、Nakaura Julian, Nacaura Julian, Nacaura Juliaô, 中浦寿理安、 1568年2月8日ころ〈永禄11年正月〉 - 1633年10月21日〈寛永10年9月19日〉)は、肥前国彼杵郡中浦(現・長崎県西海市西海町中浦)の城主・小佐々兵部少輔甚五郎純吉(小佐々純吉、こざさ すみよし)の一人息子で、中浦は地名、ジュリアンは洗礼名で、幼名は小佐々甚吾(こざさ じんご)。安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の副使。イエズス会士でカトリック教会の司祭となり、殉教して福者となった。 中浦ジュリアンの出自については、宣教師の報告書などを所蔵するイエズス会ローマ文書館や天正遣欧少年使節が公式訪問したイタリア・スペイン各地の文書館に資料が残されている。
セバスチャン木村(セバスチャンきむら、1566年(永禄9年)… セバスチャン木村(セバスチャンきむら、1566年(永禄9年)ごろ - 1622年9月10日(元和8年8月5日))はカトリック教会の日本人最初の司祭、また日本人最初の殉教司祭である。イエズス会士。元和の大殉教のときに長崎・西坂で殉教した55人の中の一人であり、教皇ピウス9世により1867年7月7日に列福された。記念日は9月10日。 1566年(永禄9年)ごろ、平戸のキリシタン一家に生まれる。祖父は、フランシスコ・ザビエルが1550年秋、鹿児島からミヤコに向かう途中の平戸で宿泊した屋敷の主人で、同地でのザビエルからの最初の受洗者であった。1580年(天正8年)に開設された有馬のセミナリオに最初の生徒20人の一人として入学した。
西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年… 西郷局(さいごうのつぼね、天文21年(1552年)(永禄4年(1561年)説もあり) - 天正17年5月19日(1589年7月1日))は、戦国時代・安土桃山時代の女性。初名はあい、お愛とされるが、お相が正しいとする説もある(後述)。徳川家康の側室となって以降は西郷局と称した。院号は宝台院。贈位を受けた際の名は源昌子。 江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉を産んだ。 江戸後期に成立した『寛政重修諸家譜』・『以貴小伝』によれば、父は戸塚忠春とされる。母は源姓土岐氏流三河西郷氏とされ、西郷正勝の娘とされる。 幼少時、父忠春と兄の忠家が討ち死し、母とともに、祖父・西郷正勝に保護された。『以貴小伝』・『寛政重修諸家譜』では母が忠春の死後蓑笠之助正尚に嫁いだためにその養女になり、その後正勝に引き取られたとしている。
吉山 明兆(きつさん みんちょう、正平7年/文和元年(135… 吉山 明兆(きつさん みんちょう、正平7年/文和元年(1352年) - 永享3年8月20日(1431年9月26日))は、室町時代前・中期の臨済宗の画僧。 淡路国津名郡物部庄(現:兵庫県洲本市物部)出身。西来寺(現:兵庫県洲本市塩屋2丁目)で出家後、臨済宗安国寺(現:兵庫県南あわじ市八木大久保)に入り、東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学んだ。その後、大道一以に付き従い東福寺に入る。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、初の寺院専属の画家として大成した。作風は、北宋の李竜眠や元代の仏画を下敷きにしつつ、輪郭線の形態の面白さを強調し、後の日本絵画史に大きな影響を与えた。