境沢 孝(さかいざわ たかし、1919年 - 2001年)は… 境沢 孝(さかいざわ たかし、1919年 - 2001年)は、日本人のインテリアデザイナー・建築家。1950年に個人アトリエを開設。以後、主に飲食店のインテリアデザインと建築デザインを手がける。家具やオブジェなどの特徴的な造形要素を一見至って自由に配置しながらも機能性を損なうことのない巧みなプランニング、親しみやすいモティーフを主題とする軽妙で詩的なデザインは、高度経済成長期において店舗事業者から広く受け入れられ、数多くの作品が発表された。国内におけるインテリアデザイナーの社会的認知を高め、その活動の場を拡げるとともに、現在に至るインテリアデザインの主要なボキャブラリーをかたち作った人物のひとりである。
千家 潔(せんげ きよし、1919年〈大正8年〉- 1994… 千家 潔(せんげ きよし、1919年〈大正8年〉- 1994年〈平成6年〉)は、日本の洋画家。詩人、千家元麿の次男として東京都に生まれる。立教大学卒。 ギリシャや日本の神話を題材にした作品を数多く遺しており、古代フレスコ画を連想させるかのような、独特の表現技法には、モネやルノワールなどの、後期印象派へと通ずるものが観られ、繊細、かつ柔和なタッチと淡くも克明なる色遣いからは、鑑賞する者に安堵なる余韻をもたらす。また、ありとあらゆる美術団体に属することを好まず、1994年に75歳で亡くなるまでの間、生涯在野の画家として活躍したことでも知られている。 千家という名からも、本家は出雲国造の出身であり、古い豪族の出に由来している点からも、彼が神話をモチーフにした作品を、数多く制作してきた背景には、由緒ある血縁にも、多少は影響されていたためではないかと考えられる。
好村 三郎(よしむら さぶろう、1919年 - 2012年)… 好村 三郎(よしむら さぶろう、1919年 - 2012年)は、日本のジャーナリスト、新聞記者、野球選手。朝日新聞社運動部長、東海大学教授。立教大学では野球部の4番・エースとして東京六大学リーグで活躍し、主将と監督も兼ね、立大野球部初の三割打者となった。日本アマ野球規則委員会顧問、日米大学野球組織委員。 1919年(大正8年)、兵庫県芦屋に生まれる。旧制灘中学校に入学し、野球部で右投げ左打ちの投手、主力打者として活躍。 1937年(昭和12年)3月、立教大学に入学。野球部で投手、主力打者としてプレーし、主将、監督も兼ねた。終身打率は3割4厘で、東京六大学野球史上13番目の終身打率三割打者となり、立教大学野球部としても初の三割打者となった。
原田憲雄(はらだ のりお/けんゆう、1919年 - )は、日… 原田憲雄(はらだ のりお/けんゆう、1919年 - )は、日本の詩人、歌人、中国文学者。弟は歌人の原田禹雄。 京都市の日蓮宗・妙徳寺の生まれ。1941年龍谷大学文学部卒、尾上柴舟門下の歌人となる。1953年雑誌『方向』を発刊。漢詩を軸に古典中国文学を多く翻訳。 唐代詩人の『李賀研究』を、個人雑誌で拠点に発刊、長年かけその作品を全訳注解した『李賀歌詩編』で、日本翻訳文化賞を1999年に受賞した。
齋藤 雅男(さいとう まさお、1919年 - 2016年)は… 齋藤 雅男(さいとう まさお、1919年 - 2016年)は、日本の鉄道技術者。 福岡県福岡市で、祖父は医学士、父はレントゲン技師という家庭に生まれる。戦時中に早稲田大学理工学部(機械工学)を卒業し、陸海軍技術将校となる。戦後、運輸省に入省するが、同省から鉄道部門が日本国有鉄道(国鉄)として独立した際そこに移籍、以降、東海道新幹線での安定化・輸送力増強に尽力したのを始め、内外の鉄道技術やシステムに深く関与。国際連合開発計画エグゼクティブ・アドバイザー、鉄道工学専門家。台湾高速鉄道では、審査官を務め、島隆とともに日本の技術供与にも尽力し、開業後もコンサルタントとして何度も台湾に渡航していた。2016年に死去。
大森 英櫻(おおもり ひでお、1919年(大正8年) - 2… 大森 英櫻(おおもり ひでお、1919年(大正8年) - 2005年(平成17年))は、マクロビオティック指導者。静岡県熱海市生まれ。普及団体である宇宙法則研究会の初代会長。マクロビオティック創始者である桜沢如一の門下生のひとり。桜沢の指導哲学である無双原理を発展させ、動物性食品を一切摂取しない完全穀菜食を実践・提唱した。夫人はマクロビオティック料理研究家の大森一慧。工学院大学建築科卒業。本名、大森英雄。 第二次世界大戦後、病弱な体で悩んでいた大森英桜は桜沢のマクロビオティックの著書と出会い、体質を改善した。 日本MI(日本CI協会の前身)で学んだ後、無双原理の正しさを自ら調べるべく、多くの病人と交流し自らも実践するなかで、桜沢の考えを修正し、小魚すら口にしない完全穀菜食が理想的な食事法であるという考えに至った。
伊予本 桃市(いよもと ももいち、1919年(大正8年) -… 伊予本 桃市(いよもと ももいち、1919年(大正8年) - 1974年(昭和49年)9月)は、日本の囲碁棋士。広島県出身、瀬越憲作門下、日本棋院所属、名誉八段。日本棋院中央会館の経営に携わり、国際囲碁協会を設立。会館の運営を巡って訴訟となり、日本棋院から退隠した。 広島県生口島に生まれる。1933年(昭和8年)瀬越憲作に入門。1935年初段。大手合で1941年前期、1943年前期第二部優勝。1952年五段。1954年六段。 1954年丸の内に日本棋院中央会館(館長岩本薫)が設立され、棋院と独立した中央会館運営委員会が運営に当たることとなると、運営委員となって運営に専念し、同年11月に開館となる。
細田 貴助(ほそだ きすけ、1919年(大正8年) - 没年… 細田 貴助(ほそだ きすけ、1919年(大正8年) - 没年不明)は、長野県茅野市出身の郷土史研究家、閉校した諏訪郡富士見町立落合小学校 の元校長。茅野市神長官守矢史料館初代館長。
有明 淑(ありあけ しず 1919年 - 1981年)は太宰… 有明 淑(ありあけ しず 1919年 - 1981年)は太宰治の短篇小説「女生徒」の題材となった日記の筆者。
宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1… 宮崎 利秀(みやざき としひで、1919年 - 1982年1月1日)は、日本の教員で俳人。 杉森久英の小説『黄色のバット』のモデルになったことで知られる。 群馬県伊勢崎市に生まれる。生後すぐに埼玉県妻沼町(現・熊谷市)に転居した。 熊谷中学校(現・埼玉県立熊谷高等学校、1937年卒業)を経て、横浜高等工業学校(現・横浜国立大学工学部)を卒業した。熊谷中学校では金子兜太と同窓だった。1942年に東京工業大学機械工学科を卒業すると、陸軍兵技将校として相模造兵廠監督課に勤務した。陸軍航空本部付技術少尉として満州派遣されている際に敗戦となる。 敗戦後は占領軍の英語通訳を務めながら、1946年に『東京ジョー』を刊行した。
櫻井慶治(さくらい けいじ、1919年 - 2016年6月6… 櫻井慶治(さくらい けいじ、1919年 - 2016年6月6日)は、日本の洋画家。弟子に三沢忠がいる。 1919年、千葉県印旛郡和田村(現千葉県佐倉市高崎)に生まれる。 千葉県立佐倉中学校(旧制、現千葉県立佐倉高等学校)、千葉師範学校(現千葉大学教育学部)を経て1949年に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。東京美術学校在学中の1947年と1948年に光風会展入選。1956年から1957年文部省留学生としてフランス留学。1956年から1964年まで絵画の研究の為、ヨーロッパを中心にイタリア、スイスなど各国を歴訪。1965年、再渡欧米、フランスでル・サロン銅賞・ヴィシー国際展グランプリを受賞。 1967年(昭和42年)第10回日展、1969年(昭和44年)改組第1回日展の2回で特選を受賞した。
中島 慎三郎(なかじま しんざぶろう、1919年 - 201… 中島 慎三郎(なかじま しんざぶろう、1919年 - 2011年11月23日)は、日本の通訳者、ASEANセンター代表。本名は中島進八郎。インドネシア料理店経営者。 大工になることを志し、1938年(昭和13年)、東京府立実科工業学校(現・東京都立墨田工業高等学校)を卒業し、陸軍航空本部建築課へ勤務。 1939年(昭和14年)、日本大学在学中に徴兵で陸軍野砲兵第一連隊入隊。南支、フランス領インドシナ、中支、マレー半島、シンガポール、スラバヤ、アンボン、西部ニューギニア等を転戦。最終階級は上等兵。インドネシア独立戦争に参加することなく1946年(昭和21年)帰国。 戦後は福田赳夫の通訳を務め、東南アジア問題では様々な献策も行う。
平井 信義(ひらい のぶよし、1919年 - 2006年7月… 平井 信義(ひらい のぶよし、1919年 - 2006年7月7日)は、日本の児童心理学者・文筆家・医師。大妻女子大学名誉教授。 東京生まれ。1941年 (昭和16年) 東京帝国大学文学部独文科卒。1944年 (昭和19年) 東北帝国大学医学部卒。1957年 (昭和32年) 名古屋大学より医学博士の学位を取得。 小児科医、母子愛育会愛育研究所所員、お茶の水女子大学教授、1970年 (昭和45年) 定年退官、大妻女子大学教授(児童学)、1990年(平成2年)退任、名誉教授。 ウィーン大学でハンス・アスペルガーに学び、自閉症を研究した。『「心の基地」はおかあさん』が140万部のベストセラーとなったほか、多数の著書を著した。
宮口 美吉(みやぐち よしきち、1919年 - 戦死)は、大… 宮口 美吉(みやぐち よしきち、1919年 - 戦死)は、大阪府出身のプロ野球選手(投手、内野手、外野手)。 京阪商業学校(現:大阪府立芦間高等学校)時代には春1回(1938年),夏1回(1938年)甲子園に出場した。京阪商業時代のチームメイトに深尾文彦や加地健三郎がいる。 1938年秋、南海軍に入団。南海の初代エースとして活躍し、負けが先行しながらも6勝(当時の南海ではチーム一の勝ち頭だった)を挙げた。同シーズンには防御率2.25で防御率トップ10の5位に入っている。1939年5月6日の阪急軍戦では平野正太郎投手とのリレーで無安打に抑えるも、2点を取られるという珍記録を持っている(日本プロ野球公式戦唯一の被安打0敗戦)。
小林 吉雄(こばやし よしお、1919年 - 1997年3月… 小林 吉雄(こばやし よしお、1919年 - 1997年3月29日)は、山口県出身のプロ野球選手。晩年は佐々木姓を名乗った。 当初は親の意向や教員への憧れから、山口師範学校に通っていた。しかし同校には野球部がなく、また1933年の選抜に御園生崇男を擁する山口中学が出場したことに刺激を受け、山口師範学校附属高等小学校の卒業後、山口中学校に編入した。 1939年に大阪タイガースへ入団。同年にホームスチールを決めているが、プロ通算で得点は1のため、得点に占めるホームスチール率10割という珍記録を残している。 1941年に応召のため退団した。 戦後は宇部興産に入社。その際の縁で佐々木家の養子となり、同家が経営する佐々木モーターズの社長に就任した。
雁瀬 治貞(がんせ はるさだ 1919年 - 1946年2月… 雁瀬 治貞(がんせ はるさだ 1919年 - 1946年2月)は、日本の元アマチュア野球選手。京都府出身。
合屋 長英(ごうや ながひで、1919年 - 2001年9月… 合屋 長英(ごうや ながひで、1919年 - 2001年9月13日)は、日本の小児科学者。九州大学名誉教授。
鈴木 照雄(すずき てるお、1919年 - 2008年5月9… 鈴木 照雄(すずき てるお、1919年 - 2008年5月9日)は、日本の哲学研究者、大阪市立大学名誉教授。ギリシア哲学専攻。プラトン「饗宴」の訳者である。 静岡県生まれ。1942年、京都帝国大学卒業、大学院修了。関西大学教授。大阪市立大学教授。1981年、定年退官、名誉教授、神戸学院大学教授。1988年、『ギリシア思想論攷』で大阪市立大学より文学博士の学位を取得。1991年、神戸学院大特任教授。
河合 弘廸 (かわい ひろみち、1919年〈大正8年〉 - … 河合 弘廸 (かわい ひろみち、1919年〈大正8年〉 - 2005年〈平成17年〉4月1日) は、昭和から平成時代の化学者。京都大学名誉教授。繊維学会会長。日本化学会賞等受賞。正四位勲二等瑞宝章。 1943年東京工業大学紡織科卒業、東洋紡績入社。京都帝国大学助手、京都大学工学部講師、京都大学工学部助教授を経て、1964年京都大学工学部教授。高分子化学教室高分子力学講座を担任した。1978年繊維学会会長。1983年停年退官、京都大学名誉教授、兵庫教育大学教授。1988年文化女子大学教授。2005年正四位。専門は高分子。 ほか、繊維学会、高分子学会、日本繊維機械学会、日本材料学会、日本レオロジー学会などにおいて会長、理事、支部長等の要職を歴任した。
粟津 キヨ(あわづ きよ、1919年(大正8年) - 198… 粟津 キヨ(あわづ きよ、1919年(大正8年) - 1988年(昭和63年)9月6日)は、新潟県立高田盲学校教諭で、生涯を視覚障害者教育に捧げた人物である。旧名は金井キヨ。4歳で失明した。1977年に「失明女子を考える会」を結成した。1986年度第6回山川菊栄記念婦人問題研究奨励金を受けた。 『ふみ子の海―ある盲少女の青春』(理論社)では、高田盲学校で同僚だった市川信夫が、粟津キヨをモデルにその考えと生き方、特に少女時代を紹介している。また、2007年に新潟県上映推進委員会が結成され、『ふみ子の海』の映画版が制作された。 高田瞽女最後の親方・杉本キクイが、毎年秋金井家に泊まりに行く折、弟子の養女シズ(1916年(大正5年)生)と3つ違いだったので、よく遊んだと証言している。
立野 留志子(たての るしこ、1919年 - 2009年10… 立野 留志子(たての るしこ、1919年 - 2009年10月27日)は、フランソア喫茶室の装用者である立野正一の妻。 福井県武生(現越前市)で1919年に生まれた。兄は日本画家の佐藤晴行。兄の紹介で16歳の時に、京都のフランソア喫茶室にウエイトレスとして勤務。戦時中は物資不足でコーヒーのかわりに番茶を提供して営業を続けた。徴兵で知り合った永井東三郎(洋画家)と晴行は、結婚していた留志子に会いにフランソアへ通った。 晩年、パーキンソン病を患った。 この項目は、まだ閲覧者の調べものの参照としては役立たない、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:人物伝/PJ:人物伝)。
金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10… 金城 裕(きんじょう ひろし、1919年 - 2013年10月10日)は、沖縄県出身の空手家。韓武舘において防具付き空手による組手稽古を主導し、空手における最初の全国大会である全国空手道選手権大会の開催に貢献した。多くの人物に師事した経験から評論家としての面を持ち、雑誌や著作物での執筆活動も精力的に行った。 1919年、沖縄県首里区桃原町(現那覇市首里桃原町)に生まれる。 1926年、唐手を始め奥里將現、1927年、知念三良、1932年、大城朝恕、1933年、徳田安文、1935年、真栄城朝徳、1938年、花城長茂に師事。 1939年、日本大学に入学、唐手同好会を設立。修道館の遠山寛賢に師範免状を授与される。