島田 翰(しまだ かん、1879年〈明治12年〉1月2日 -… 島田 翰(しまだ かん、1879年〈明治12年〉1月2日 - 1915年〈大正4年〉7月28日)は、日本の漢学者・書誌学者。若くして校勘学で名をあげ、日中の文人と広く交流した一方で、書籍の窃盗などの事件を起こし、37歳のとき自殺した。 字は彦禎または彦楨。号は双桂后人。 1879年(明治12年)1月2日、東京府小石川区(現在の東京都文京区)にて、島田篁村を父とする学者の家系に生まれる。幼少から漢籍を愛し神童と評されたが、吃音を患い会話が苦手だった。 1891年(明治24年)、東京高等師範学校付属尋常中学校に入学、幼馴染の永井荷風や井上唖々と親交する。荷風の回想によれば、彼らはともに軟派で文弱だったため、しばしば同級生の鉄拳制裁の対象になったという。
国米 泰石(こくまい たいせき、1879年1月1日 - 19… 国米 泰石(こくまい たいせき、1879年1月1日 - 1957年12月30日)は、鳥取県八頭郡智頭宿(現・智頭町)出身の仏像修復師(仏師)。墓所は智頭町の興雲寺。 約50年に渡って仏像の修復などに携わり、16府県の95以上の神社・寺院にある約320の仏像修復を手掛けた。「今日の日本の国宝・重要文化財の仏像の命脈は泰石によって保たれた」と称されている。 1879年(明治12年)1月1日、鳥取県八頭郡智頭宿(現・智頭町)に生まれた。父は狩野派の画家である小林桃渓(国米善太郎)、母は諏訪神社の小林正広神主の長女八重野であり、泰石は次男だった。なお、鳥取市が刊行した『鳥取市七十年 市史』では国米泰石が「本市出身」とされている。
新免一五坊(しんめん いちごぼう、1879年(明治12年) … 新免一五坊(しんめん いちごぼう、1879年(明治12年) - 1941年(昭和16年))は、日本の俳人・教員。本名は睦之助。後に藤木姓を名乗る。 1879年(明治12年)、岡山県吉野郡大野村(現・美作市)川上で父和太郎、母こまのの二男として代々庄屋や酒造家だった旧家に生まれ、睦之助と名付けられる。俳号の一五坊は睦のムツを6に掛け、一と五に分けたと推測される。1892年(明治25年)13歳で上京して神田中学院、翌26年国語伝習所、翌27年哲学館予科を経て明治28年小石川哲学館本科教育部に入学後18歳で卒業。1898年(明治31年)の夏、一五坊は根岸(東京都台東区根岸)の子規庵を訪れ正岡子規の門人となり、句会や歌会に参加する。
孫 潤宇(そん じゅんう、1879年 – 1960年)は、中… 孫 潤宇(そん じゅんう、1879年 – 1960年)は、中華民国の政治家・官僚・弁護士・画家・外交官。字は子涵。南京臨時政府で官歴を開始し、北京政府では国会議員や法制局長などを務めた。中華民国臨時政府や南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会でも各職を歴任している。 清末に天津北洋大学予科を卒業。日本に留学し、1906年(光緒32年・明治39年)6月に法政大学法政速成科第二班を卒業した。なお、同期には汪兆銘(汪精衛)や李文範、胡漢民、古応芬、張一鵬らがいる。 中華民国成立直後の1912年(民国元年)2月より、南京臨時政府内務部で警務局長と警務学校校長を歴任した。翌1913年(民国2年)江蘇省で衆議院議員に当選し、国民党や民憲党に所属した。
鬼角 長治郎(おにかど ちょうじろう、1879年 - 没年不… 鬼角 長治郎(おにかど ちょうじろう、1879年 - 没年不明)は、現在の石川県加賀市出身で雷部屋に所属した力士。本名は北市 長次郎。最高位は東前頭12枚目。169cm、105kg。 1899年1月幕下付出で初土俵、1902年5月十両昇進。1906年1月、同期入門の浪ノ音健藏とともに新入幕(浪ノ音は序ノ口から)を果たす。しかし、大敗を喫し途中休場したうえ、翌場所も全休し十両に陥落。1907年5月限り廃業し、浪ノ音と明暗を分ける形となった。 この項目は、相撲に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ相撲)。
小屋 道治(こや みちはる、1879年〈明治12年〉 - 1… 小屋 道治(こや みちはる、1879年〈明治12年〉 - 1921年〈大正10年〉6月27日)は、日本の工学者。秋田鉱山専門学校(現・秋田大学)教授。 小屋右兵衛の長男として1879年(明治12年)に群馬県勢多郡笂井村(現在の前橋市笂井町)に生まれる。父小屋右兵衛は南勢多郡木瀬村の村長(1896年から1904年まで)を務めた人物であり、美学者大塚保治(旧姓・小屋)の兄である。 現在の前橋市立笂井小学校、群馬県立前橋高等学校を卒業後、第二高等学校を経て、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業する。卒業後は東京砲兵工廠火薬製造技術にて研究に従事する。 中国広東省の高等工業学堂の教授を経て、1912年(明治45年)より秋田鉱山専門学校にて、講師、教授を務める。
朱 深または朱 㴱(しゅ しん、1879年〈光緒5年〉 - … 朱 深または朱 㴱(しゅ しん、1879年〈光緒5年〉 - 1943年〈民国31年〉7月2日)は、中華民国の政治家・検察官・法務官僚・実業家。字は博淵。北京政府では安徽派に属し、後に中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会にも参加した。 清末に日本へ留学する。1912年(民国元年・明治45年)7月、東京帝国大学法学部法律学科(ドイツ法兼修)を卒業し、併せて法学士の称号を取得した。 帰国後の1912年7月26日に北京政府で法典編纂会纂修となり、翌1913年(民国2年)8月24日には総検察庁検察官に任命された。さらに京師地方検察庁検察長署理や京師高等検察庁検察長署理も務めている。1915年(民国4年)1 月27日、中大夫の位階を授与され、上大夫銜を加えられた。
楠本 周三(くすもと しゅうぞう、1879年〈明治12年〉 … 楠本 周三(くすもと しゅうぞう、1879年〈明治12年〉 - 1920年〈大正9年〉2月29日)は、日本の医師。現在の長崎県長崎市出身。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの曽孫で、楠本高子の長男。 母である楠本高子は、1866年(慶応2年)、三瀬諸淵(三瀬周三)と結婚した。三瀬はシーボルト門下の医者で、二宮敬作の甥に当たった。そして1877年(明治10年)に三瀬諸淵に先立たれた後、異母兄・石井信義の元で産婦人科を学んだ。 しかし、石井信義のところに出入りしていた医師である片桐重明に船中で強姦され、周三(亡き夫三瀬周三にちなんで命名)を妊娠した。 妊娠した高子は1879年(明治12年)長崎に戻り、周三を出産した。