榎本 義法(えのもと よしのり、1969年〈昭和44年〉1月… 榎本 義法(えのもと よしのり、1969年〈昭和44年〉1月7日 - )は、日本の政治家。群馬県富岡市長(2期)。 群馬県富岡市出身。富岡市立西小学校、富岡市立富岡中学校、群馬県立富岡高等学校卒業。1991年(平成3年)3月、東京経済大学経営学部卒業。高校、大学、社会人を通じてラグビー部に所属した。同年4月、太陽神戸三井銀行に就職。1994年(平成6年)3月、さくら銀行を退職。同年4月、学校法人榎本学園に転職。 2005年(平成17年)1月、富岡青年会議所理事長に就任。 2007年(平成19年)1月、日本青年会議所常任理事に就任。 2009年(平成21年)1月、日本青年会議所副会頭に就任。 2014年(平成26年)4月13日に行われた富岡市長選挙に立候補するも、元職の岩井賢太郎に敗れ落選。
茂原 正秀(もはら まさひで、1958年〈昭和33年〉11月… 茂原 正秀(もはら まさひで、1958年〈昭和33年〉11月23日 - )は、日本の政治家。群馬県富岡市長(1期)。元富岡市議会議員(6期)。 群馬県富岡市出身。群馬県立富岡高等学校、同志社大学商学部卒業。 家業の商店を継ぎながら学習塾を経営。一ノ宮地区の子ども会育成会連絡協議会や小中学校のPTAの会長を務める中で周囲から勧められ、2002年、富岡市議会議員選挙で初当選。以後6期務める。 2025年11月14日、翌年の富岡市長選挙への立候補を表明。2026年4月12日に市長選の投開票が行われ、茂原が現職の榎本義法ら4人の争いを制し初当選した。
岩井 賢太郎(いわい けんたろう、1941年〈昭和16年〉1… 岩井 賢太郎(いわい けんたろう、1941年〈昭和16年〉11月6日 - )は、日本の政治家。群馬県富岡市長(通算2期)、群馬県議会議員(6期)。 群馬県北甘楽郡吉田村(現・富岡市)に生まれる。1961年(昭和36年)、群馬県立富岡高等学校卒業。岩井建設に入社し、常務取締役を勤める。 1983年(昭和58年)、群馬県議会議員選挙に富岡市選挙区から無所属で出馬し初当選。同年5月9日に自民党に入党した。以後6期連続当選。1987年(昭和62年)、群馬県監査委員に就任。1995年(平成7年)、自民党群馬県支部連合会政調会長に就任。1996年(平成8年)6月3日、群馬県議会副議長に就任。1997年(平成9年)6月3日に副議長を退任した。
伊藤 基隆(いとう もとたか、1938年〈昭和13年〉10月… 伊藤 基隆(いとう もとたか、1938年〈昭和13年〉10月25日 - 2017年〈平成29年〉7月11日)は、日本の政治家。参議院議員(比例区、2期)。会派は民主党・新緑風会。参議院民主党国対委員長を務めた。 群馬県北甘楽郡一ノ宮町(現・富岡市)に生まれる。群馬県立富岡高等学校卒業。 田邊誠の実質的な後継者である。全逓書記長在任時の1990年、郵政反マル生闘争における被処分組合員の扱いを巡って、郵政省(当時)との裏交渉で「職場復帰の道が開かれた」として、1991年に処分撤回を求めた裁判を取り下げたが、省は誰一人として被処分者を再雇用しなかった。そればかりか、再雇用されなかった被処分組合員全員を組合組織から追放という結末を演じている。
広木 康二(ひろき やすじ、1929年〈昭和4年〉5月27日… 広木 康二(ひろき やすじ、1929年〈昭和4年〉5月27日 - 2015年〈平成27年〉10月4日)は、日本の政治家。群馬県富岡市長を3期12年務めた。富岡市文化協会名誉会長、群馬県猟友会理事、全国市長会評議員、全国市議会議長会理事などにも着任した。 群馬県富岡市出身。1946年(昭和21年)富岡中学校(現群馬県立富岡高等学校)を卒業した。 1970年(昭和45年)富岡市議会議員に当選し、1975年(昭和50年)から同議長を務める。1983年(昭和58年)現職の市長を破って富岡市長に当選。2期目となる1987年の市長選でも2位に大差をつけて当選した。富岡まつり実行委員会の会長も兼務し、1988年(昭和63年)の天皇の体調不良に際しては同年10月15-16日開催予定だった第14回富岡まつりの中止を決定している。
畑 桃作(はた ももさく、1896年7月10日 - 1949… 畑 桃作(はた ももさく、1896年7月10日 - 1949年3月5日)は、日本の政治家。衆議院議員。 群馬県北甘楽郡富岡町(現在の富岡市)出身。群馬県立富岡中学校を卒業後、農業に従事。その後、群馬県議会議員に当選し、群馬県議会副議長などを歴任。1932年、第18回衆議院議員総選挙で立憲政友会候補として群馬2区から出馬し初当選。通算2期務めた。在任中にブラジル、アルゼンチン等を視察した。
斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年… 斎藤 寿雄(さいとう ひさお、弘化4年2月10日(1847年3月26日) - 1938年(昭和13年)2月17日)は、日本の外科医、政治家。衆議院議員(3期)、群馬県会議員(10期)、初代群馬県医師会長。 上野国北甘楽郡高瀬村(現・群馬県富岡市)の小幡藩藩医、斎藤寿幹(のち寿安)の子として生まれる。幼名・鋌策。はじめ藩の学問所で学び、文久元年(1861年)江戸の医師・福富玄同に弟子入りし、翌年群馬郡野田村(現・北群馬郡吉岡町)の外科医・原沢文仲の弟子となった。また高崎の五藤俊英に種痘術の教えを受けた。慶応3年(1867年)小幡藩奥詰医師となり寿幹の名を襲名。七日市藩医も兼務した。 明治2年(1869年)寿雄と改名し東京に遊学、明治4年(1871年)より大学南校に学び、翌年帰郷。
清水 永三郎(しみず えいざぶろう / えいさぶろう、(安政… 清水 永三郎(しみず えいざぶろう / えいさぶろう、(安政5年2月16日〈1858年3月30日〉 - 1902年〈明治35年〉1月22日 / 11月22日 / 11月23日)は、明治期の政治家。衆議院議員、群馬県会議員、群馬県北甘楽郡高瀬村長。 上野国甘楽郡上高瀬村(群馬県甘楽郡上高瀬村、高瀬村、熊谷県甘楽郡高瀬村、群馬県甘楽郡高瀬村、北甘楽郡高瀬村、甘楽郡高瀬村を経て現富岡市上高瀬)で、豪農・嘉蔵の長男として生れた。小幡藩士・菅沼正志から漢籍を学び、19学区鏑川学校、熊谷県立暢発学校(のち群馬県師範学校)で学び、小学校教員を務めた。その後、山井幹六に師事し漢籍、詩文を修めた。 1878年(明治11年)有志と生産会社を設立して頭取に就任したが1880年(明治13年)に辞任し、自由民権運動に加わる。