坂倉 将吾(さかくら しょうご、1998年5月29日 - )… 坂倉 将吾(さかくら しょうご、1998年5月29日 - )は、千葉県印旛郡酒々井町出身のプロ野球選手(捕手、内野手)。右投左打。広島東洋カープ所属。 酒々井町立酒々井小学校時代には、1年時から酒々井ビッグアローズに所属。当初は捕手だったが、5年時に投手へ転向すると、6年時に千葉県大会へ出場した。長年投手としてプレイ 酒々井町立酒々井中学校への進学後は、八千代中央シニアに所属しながら捕手へ復帰。中学3年の春には、八千代中央シニアの正捕手として、シニアリーグの全国大会で優勝を経験した。 高校への進学に際しては、県内外の30校近い野球強豪校から勧誘されたが「3年間寮で生活しながら、野球だけではなく人間力も磨きたかった」という思いから、日本大学第三高等学校への進学を決めた。
郡司 真里(ぐんじ まさと、1995年7月18日 - )は、… 郡司 真里(ぐんじ まさと、1995年7月18日 - )は、千葉県成田市出身のプロ野球審判員。袖番号は8。 小学2年から橋賀台サンダーズで野球を始め、千葉ロッテマリーンズの選抜メンバーとしてNPB12球団ジュニアトーナメントに出場。成田市立西中学校時代には佐倉リトルシニアで全国大会に出場。 習志野高校に進学し、外野手としてプレーしていたが、3年夏の千葉大会で、一塁へのヘッドスライディングの際に右肩を脱臼。決勝で木更津総合に敗れたあとも痛みが引かず、硬式野球の引退を決断した。しかし、高校時代に紅白戦で審判を経験し、選手として見てきたものとは異なる野球の見え方があることに気づき審判員に興味を抱くようになる。
唐川 侑己(からかわ ゆうき、1989年7月5日 - )は、… 唐川 侑己(からかわ ゆうき、1989年7月5日 - )は、千葉県成田市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。千葉ロッテマリーンズ所属。 父親の方針で小学校入学当時は空手(緑帯)を始め、成田市立成田小学校3年から成少フォックスに入団し野球を始める。以来一貫して投手を務めている。小学校6年で千葉県大会ベスト8。成田小学校の2学年上に、女子マラソン選手の田中智美がいた。 中学では熱心な誘いを受けていた強豪シニアリーグのチームには入らず、成田市立西中学校の軟式野球部に入部。これも身体が出来ていないうちから硬球での野球をさせることに反対していた父親の方針からだった。中学3年時にはKボール成田市選抜のエースとして全国大会準優勝を果たした。
岩舘 学(いわだて まなぶ、1981年4月14日 - )は、… 岩舘 学(いわだて まなぶ、1981年4月14日 - )は、千葉県成田市出身の元プロ野球選手(内野手)。右投右打。現在は北海道日本ハムファイターズでファーム内野守備走塁コーチを務める。 成田高等学校では2年夏に東千葉大会決勝で多田野数人を擁する八千代松陰に敗退。3年次は主将で春県大会優勝、夏は県ベスト4。東洋大学に進学。1年からレギュラーで秋にはベストナイン(遊撃手)。東都大学リーグ通算101試合出場、375打数92安打、打率.245、6本塁打、42打点。4年時は世界大学野球選手権に出場し、本塁打を放った。 2003年のプロ野球ドラフト会議において、読売ジャイアンツに5巡目で指名されて入団した。
奈部川 勉(なべがわ つとむ、1968年11月10日 - )… 奈部川 勉(なべがわ つとむ、1968年11月10日 - )は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。 成田西高では3年春に県大会準優勝で関東大会に出場、関東大会では登板せずに敗退した。進学を希望していたが1986年オフにドラフト外で西武ライオンズに入団。 1年目の1987年は、アメリカ1A・サンノゼ・ビーズに野球留学した。一軍公式戦への出場がないまま、1991年限りで現役を引退。 現在は、西武ドームに勤務している。
島崎 毅(しまざき たけし、1967年3月3日 - )は、千… 島崎 毅(しまざき たけし、1967年3月3日 - )は、千葉県成田市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ。コーチ転身後の2003年から表記を島﨑 毅(読み同じ)としている。 パシフィック・リーグ初の最優秀中継ぎ投手を獲得している。 小学5年の時に野球を始め、中学時代は三塁手だった。 東京学館高等学校で投手に転向。在学中から、千葉県内の高校野球界で好投手として知られていたが、高校時代の夏の県大会は3回戦進出が最高成績(1984年)。高校卒業後は、東都大学野球連盟に所属する国士舘大学に進んだが、在学中はチームの活動停止期間等もあって1部でプレーの夢はかなわなかった。大学通算15勝14敗。 国士舘大学2部政経学部を卒業後、社会人野球のNTT北海道に入部。
牧野 宏(まきの ひろし、1937年11月9日 - 1994… 牧野 宏(まきの ひろし、1937年11月9日 - 1994年1月20日)は、千葉県出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 成田高等学校では投手、五番打者として活躍。1955年夏の県予選、南関東大会で3完封、5本塁打を記録。南関東大会決勝で鴻巣高を延長10回の末に破り、夏の甲子園に出場。甲子園では2回戦(初戦)で津久見高の田中喜八郎と投げ合うが、大差で完封負けを喫する。高校同期に左翼手、四番打者の平山正行(南海)がいた。 法政大学へ進学。エース、中心打者として活躍するが、東京六大学野球リーグは当時、長嶋茂雄、杉浦忠らの立大全盛期であり、法大は優勝に届かなかった。しかし1957年秋季リーグで、シーズン最優秀防御率0.19のリーグ記録を達成。
石原 照夫(いしはら てるお、1929年11月28日 - 2… 石原 照夫(いしはら てるお、1929年11月28日 - 2006年3月16日)は、千葉県成田市出身のプロ野球選手(内野手)。 兄は戦前投手として、東京セネタースや翼軍、大洋軍、大和軍に所属した石原繁三。1960年代に東映フライヤーズ、1970年代にロッテオリオンズの球団代表を務めた石原春夫とは別人。 旧制成田中学校では、エースとして戦後初の開催となった1946年夏の大会では、球史に残る1回戦最初の試合で京都二中と対戦するが0-1で惜敗。 立教大学へ進学し、野手転向。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、リーグ通算86試合出場、338打数101安打、打率.299の成績を残す。 大学卒業後は、社会人野球の藤倉電線に入社。
浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1… 浅井 礼三(あさい れいぞう、1917年11月15日 - 1985年5月26日)は、千葉県印旛郡成田町成田(現在の成田市本町)出身の野球選手、実業家、馬主。早稲田大学在籍時には「100万ドルの名外野手」と謳われた。 旧制成田中学校を経て1935年に早稲田大学に入学した。全国中等学校優勝野球大会での実績がないなか同大学の野球部に入部し、中堅手としてレギュラーに選出された。1938年に早稲田大学専門部商科を卒業。1939年には現役の選手でありながら、唐津中学の監督に就任。これは、同校野球部の強化を望んでいた学校関係者が、同校卒業生で当時早大野球部に在籍していた下尾勝馬を通しての依頼であるという。当初は1週間ほどの予定であったが、指導に熱が入ったため、最終的には45日間にもわたる熱心な指導となった。