古長谷 千博(こながや ちひろ、2001年10月25日 - … 古長谷 千博(こながや ちひろ、2001年10月25日 - )は、静岡県沼津市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・アルビレックス新潟所属。ポジションはミッドフィルダー。 小学生時代はアスルクラロ沼津U12で庵原篤人(FC琉球)とプレーした。 中学生時代は清水エスパルスジュニアユースで川本梨誉(ブラウブリッツ秋田)、榊原杏太(名古屋グランパス)、青島太一(栃木SC)などとチームメイト。中学3年時には史上2チーム目の3冠を達成した。[要出典] 高校時代は清水桜が丘高校で前田翔茉(藤枝MYFC)とプレーした。1年時に全国高等学校サッカー選手権大会に出場。3年時に全国高等学校総合体育大会に出場し同大会で優秀選手に選出された。
鈴木 準弥(すずき じゅんや、1996年1月7日 - )は、… 鈴木 準弥(すずき じゅんや、1996年1月7日 - )は、静岡県沼津市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・横浜FC所属。ポジションはディフェンダー(サイドバック)。 アスルクラロ沼津、ジュビロ磐田の下部組織(ACNジュビロ沼津、現・アスルクラロ沼津U15)を経て、高校時代は清水エスパルスユースに加入。年代別の日本代表に招集された。 2014年、早稲田大学に進学。2017年8月に参加したユニバーシアード大会では優勝に貢献した。大学4年次に早稲田大学ア式蹴球部キャプテンに就任。 2018年2月、3. リーガのVfRアーレンに入団。 2019年、帰国し藤枝MYFCに加入。 2020年、ブラウブリッツ秋田に完全移籍。
長谷川 竜也(はせがわ たつや、1994年3月7日 - )は… 長谷川 竜也(はせがわ たつや、1994年3月7日 - )は、静岡県沼津市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・北海道コンサドーレ札幌所属。ポジションはミッドフィールダー、フォワード。 2015年に順天堂大学から特別指定選手に登録され、2016年シーズンより川崎に所属。シーズン通して怪我に苦しんだが、11月3日、2ndステージ最終戦のガンバ大阪戦でリーグ戦初得点を決めた。11月23日、Jリーグチャンピオンシップ準決勝・鹿島アントラーズ戦にて負傷し、27日に左ハムストリング肉離れで全治3ヵ月と診断される。チャンピオンシップでの肉離れが、このシーズン4度目の肉離れとなった。 2016年9月の天皇杯3回戦のジェフユナイテッド千葉戦で、右サイドバックで先発出場し、プロ入りして初めてDF登録で出場した。
脇野 隼人(わきの はやと、1993年4月10日 - )は、… 脇野 隼人(わきの はやと、1993年4月10日 - )は、静岡県沼津市出身のサッカー選手。ポジションはウイングやワイドなど主にサイドで起用される。 清水エスパルスジュニアユースから東海大学付属翔洋高校(現・東海大学付属静岡翔洋高等学校)に進学。卒業後はアスルクラロ沼津に所属した後、単身渡豪しAPIAライカート・タイガースFCに加入した。翌年にはシドニー・ユニバーシティFCに移籍した。 その後、リトアニア・Aリーガ(現・トップリーガ)のFKクライペドス・グラニタスとプロ契約。 2014年夏にはドイツ・ブンデスリーガ6部のFCインターナショナル・ライプツィヒへ移籍した。2015年にはフィンランドのアトランティスFCと契約、2016年にはリトアニアのFCストゥンブラスに移籍した。
松本 拓也(まつもと たくや、1989年2月6日 - )は、… 松本 拓也(まつもと たくや、1989年2月6日 - )は、静岡県沼津市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはゴールキーパー。 2011年、特別指定選手としてプレーしていた湘南ベルマーレに加入するが、新加入のGK西部洋平の活躍もあり、トップチームでの出場機会はなかった。 同年7月、出場機会を求め川崎フロンターレへ期限付き移籍するも、同年限りで期限付き移籍期間満了となり川崎を退団。 2012年、湘南に復帰。この年は阿部伸行、金永基とのポジション争いの結果、ほとんどの試合でのベンチ入りもあったが、リーグ戦・天皇杯はそれぞれ1試合に留まった。 2013年からギラヴァンツ北九州に完全移籍。
渡邊 圭二(わたなべ けいじ、1985年1月28日 - )は… 渡邊 圭二(わたなべ けいじ、1985年1月28日 - )は、静岡県沼津市出身の元プロサッカー選手。ポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。
山田 堅太(やまだ けんた、1983年10月6日 - )は、… 山田 堅太(やまだ けんた、1983年10月6日 - )は、静岡県沼津市出身の元ビーチサッカー選手、元サッカー選手。ポジションはディフェンダー。現在は、ビーチサッカーコーチとして活動する傍らで、産業支援機関でも活躍している。 東京工業大学での研究に専念するために、一度はサッカーから引退するも、2016年にインテルジャパンBSに選手として復帰、2017年からは東京ヴェルディBS、東京レキオスを経て、2020年からはFC琉球BSに所属。 サッカー関係者だけではなく、多種目のプロスポーツ選手やアーティスト、芸人、漫画家との交流がある。
川村 淳一(かわむら じゅんいち、1980年6月24日 - … 川村 淳一(かわむら じゅんいち、1980年6月24日 - )は、静岡県沼津市出身の元サッカー選手。現役時代のポジションは、ミッドフィールダー、フォワード。 1999年、東海大学第一高校からJリーグ・ヴィッセル神戸へ入団。神戸では3年間プレーした。 2002年、JFL・ジヤトコサッカー部へ移籍。しかし2003年を以てチームが解散し退団。その後、ジヤトコのサポーターが中心となって設立したFCイースタン04へ加入。 2005年、地元の沼津香陵クラブ(のちのアスルクラロ沼津)へ移籍。コーチ兼任でプレーしていたが、JFLに昇格した2014年からは選手専任となった。同年シーズン終了後、現役を引退した。
小野 伸二(おの しんじ、1979年9月27日 - )は、静… 小野 伸二(おの しんじ、1979年9月27日 - )は、静岡県沼津市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(MF)。元日本代表。 FIFAワールドユース準優勝、FIFAコンフェデレーションズカップ2001準優勝、日韓ワールドカップGL1位通過、UEFAカップ優勝、アジア年間最優秀選手賞を受賞。FIFA世界大会、UEFAクラブ国際大会のすべてに出場した唯一の日本人選手。 小学生時代から「天才」と呼ばれ地元の沼津では名前を知られていた。10人兄弟の内で6番目の子で、貧しい母子家庭で育ち、小学生時代はサッカー少年団にも入っていなかったが、小野が一人でサッカーをしているのを見た少年団の監督から「お金(月会費等)はいらないからぜひ入ってくれ」と勧誘され、小学3年生のころに入団した。
深澤 仁博(ふかさわ まさひろ、1977年7月12日 - )… 深澤 仁博(ふかさわ まさひろ、1977年7月12日 - )は、静岡県沼津市出身の元サッカー選手。 静岡学園高等学校卒業。1996年に横浜マリノス(1998年から横浜F・マリノス)に入団。その年の8月からJリーグ海外留学制度の適用を受けてアルゼンチンのCAリーベル・プレートで1年間技術研修を受け、1997年6月に横浜Mへ復帰。その後1999年1月から半年、スペインのテネリフェに留学した後、三たび横浜F・マリノスに復帰するが、横浜FMではスタメンに定着できず、リーグ戦は13試合出場3ゴールに留まる。 2000年6月よりアルビレックス新潟に期限付き移籍で加入し、翌年も期間を延長し、2002年より完全移籍。
杉本 龍勇(すぎもと たつお、 1970年11月25日 - … 杉本 龍勇(すぎもと たつお、 1970年11月25日 - )は、日本の陸上競技選手、サッカー指導者(フィジカルコーチ)。静岡県沼津市出身。血液型はO型。静岡県立浜松北高等学校、法政大学(卒業後、ドイツ留学)、中京大学大学院博士課程修了。 現在は法政大学経済学部教授を務める。 182cm、80kgと恵まれた体型から、日本人離れしたパワータイプのスプリンターであった。 インターハイ、インカレの実績ですでに日本のトップスプリンターの1人であったが、日本選手権のタイトルや日本記録はならず、また、25歳を越してから活躍が乏しく、オリンピック代表も22歳でのバルセロナに終わった。バルセロナでは4×100mリレーのアンカーとして、日本の戦後初のオリンピックでのリレー種目決勝進出に貢献。
山田 松市(やまだ まついち、1961年2月21日 - )は… 山田 松市(やまだ まついち、1961年2月21日 - )は、静岡県沼津市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 国士舘大学で教員免許を取得、一時は教員を志したが、本田技研工業サッカー部の練習に参加した事から同サッカー部に入部。攻撃的MFとしてプレーした。 1990年に本田技研のヘッドコーチに就任。1992年にはJリーグ入りを目指すヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)に転じて、10年間にわたって磐田のコーチングスタッフとして活動する。 2002年から湘南ベルマーレのコーチに就任。2003年から就任したサミアが監督を辞任したため、2003年5月に湘南の監督に就任。翌2004年シーズンも引き続き指揮を執ったが低迷し、7月に解任された。
山本 昌邦(やまもと まさくに、1958年4月4日 - )は… 山本 昌邦(やまもと まさくに、1958年4月4日 - )は、静岡県沼津市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。元サムデイ所属。 国士舘大学時代から冷静な判断と鋭いタックルが売り物のディフェンダーとして将来を嘱望された。1977年、ユース代表に選出され、AFCユース選手権1977に出場。大学時代に1979年夏季ユニバーシアードのサッカー競技に代表として出場。1980年には日本代表として1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選に出場した。 1981年にジュビロ磐田の前身、ヤマハ発動機サッカー部に入団。1982年の日本サッカーリーグ2部優勝、1983年の天皇杯優勝に貢献。しかしDFとしては致命的ともいえる肩の脱臼癖が手術をしても完治せず、1987年に29歳で現役を引退した。