大岡 敏孝(おおおか としたか、1972年〈昭和47年〉4月… 大岡 敏孝(おおおか としたか、1972年〈昭和47年〉4月16日 - )は、日本の政治家、中小企業診断士。自由民主党所属の衆議院議員(6期)。 衆議院内閣委員長、自由民主党副幹事長、環境副大臣、財務大臣政務官、自由民主党政務調査会内閣部会副部会長、静岡県浜松市議会議員(1期)、静岡県議会議員(2期)を歴任した。 滋賀県甲賀郡(現・甲賀市)生まれ。現住所は大津市平津1丁目。ラ・サール中学校・高等学校(鹿児島)に進学した。高校卒業後は、早稲田大学政治経済学部経済学科に進学した。同大学を卒業後、1995年にスズキに入社した。国内の四輪営業部と海外の四輪営業部で勤務した。1998年、スズキを退社した。
岩永 峯一(いわなが みねいち、1941年〈昭和16年〉9月… 岩永 峯一(いわなが みねいち、1941年〈昭和16年〉9月5日 - )は、日本の政治家。 農林水産大臣(第38・39代)、農林水産副大臣(第2次小泉改造内閣)、総務大臣政務官(第1次小泉第1次改造内閣)、農林水産大臣政務官(第1次小泉内閣)、衆議院議員(4期)、滋賀県議会議長、滋賀県議会副議長、滋賀県議会議員(5期)、信楽町議会議員(1期)などを歴任。 滋賀県立甲賀高等学校(現在の滋賀県立水口高等学校)卒業。中央大学法学部中退。1971年、滋賀県信楽町(現在の甲賀市)町議となる。1975年、滋賀県議会議員となり、5期務める。この間、1988年から1989年に同議会副議長、1990年から1991年に同議長を務めた。
福永 健司(福永 健司、ふくなが けんじ、1910年〈明治4… 福永 健司(福永 健司、ふくなが けんじ、1910年〈明治43年〉8月5日 - 1988年〈昭和63年〉5月31日)は、日本の政治家、衆議院議長(第63代)、内閣官房長官(第9・10・26・27代)、労働大臣(第19代)、厚生大臣(第51代)、運輸大臣(第49代)、自由民主党国会対策委員長、自由民主党総務会長を歴任。位階は従二位、勲一等旭日桐花大綬章。息子は元自民党衆議院議員の福永信彦。 滋賀県甲賀郡甲賀町(現・甲賀市)出身。旧制松江高校文科甲類、1933年東京帝国大学法学部法律学科卒業後、片倉製糸紡績に入社。 1947年、西村実造埼玉県知事の要請を受けて埼玉県副知事となる。カスリーン台風が到来したときには、利根川が決壊するなか陣頭指揮にあたる。
沢田 ひさ(さわだ ひさ、1897年(明治30年)11月25… 沢田 ひさ(さわだ ひさ、1897年(明治30年)11月25日 - 1979年(昭和54年)11月9日)は、大正時代から昭和時代の女性政治家、女性解放運動家。日本社会党所属の衆議院議員(1期)。 1897年(明治30年)生まれ。滋賀県甲賀郡土山村(現甲賀市)出身で、結婚して三重県桑名市に移り、戦前から婦人参政権獲得運動に挺身して、中部地区婦人選挙権獲得同盟会員となる。 1946年(昭和21年)、第22回衆議院議員総選挙で当選し、49歳で日本社会党の新人議員として日本最初の女性代議士(三重県の婦人代議士第1号)となり、衆議院議員1期を務めた。1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙で三重県選挙区から55歳で右派社会党の新人として立候補して 150501票 (得票率28.4%)で落選した。
大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年… 大原 重右衛門(重右衞門、おおはら じゅうえもん、1861年6月12日(文久元年5月5日)- 1927年(昭和2年)5月9日)は、明治から大正期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、滋賀県会議長。 近江国甲賀郡、のちの滋賀県甲賀郡土山村(土山町を経て現甲賀市土山町)で、農業、先代・大原重右衛門の二男として生まれる。漢学、数学、仏学を修めた。1881年(明治14年)4月、家督を相続した。 戸長、収税属、郡書記を務めた。滋賀県会議員に選出され、同常置委員、同議長、徴兵参事員、所得税調査委員などに在任。 1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(滋賀県第2区、無所属)で当選し、その後、進歩党に所属して衆議院議員に1期在任した。
鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5… 鹿島 秀麿(かしま ひでまろ、1852年10月10日(嘉永5年8月27日) - 1932年(昭和7年)3月27日)は、日本の武士(徳島藩士)、明治期の政治家、ジャーナリスト、実業家。勲四等旭日小綬章。 近江国甲賀郡水口(現滋賀県甲賀市)で水口藩医師大村純道の次男として生まれた。幕末には徳島藩侍医鹿島家の養子となり、徳島藩に仕えた。明治維新後稲田騒動 (徳島藩家老の稲田邦植が淡路島の分藩を求めたことに対し、徳島藩士が激発した事件)に巻き込まれて藩職を去ったのち、上京して慶應義塾に学ぶ。神戸新報を立ち上げる。 帰淡後、教育・新聞出版事業に携わるとともに、立憲改進党に参加して兵庫県の自由民権運動の中心的存在となっていった。
林田 騰九郎(はやしだ とうくろう、1843年10月14日(… 林田 騰九郎(はやしだ とうくろう、1843年10月14日(天保14年9月21日) - 1899年(明治32年)9月5日)は、明治時代滋賀県の政治家。 1843年10月14日((旧暦)天保14年9月21日)、近江国甲賀郡相模村(現甲賀市)に生まれる。1872年(明治5年)甲賀郡第7区副区長、1874年(明治7年)同区長に選ばれ、地租改正時には甲賀郡総代として地価軽減運動に奔走した。1880年(明治13年)、第一回県議会が大津南町(現大津市)顕證寺において開かれ、騰九郎は甲賀郡選出県会議員として参加した。1884年(明治17年)4月9日の県会において騰九郎は「農商学校」設立建議案を提出し、これが後の滋賀県立商業(現滋賀県立八幡商業高等学校)設立に繋がる。