スポーツ選手、俳優、学者、実業家、芸能人など各界で活躍する人物情報に加え、外の言語(多言語)で紹介されている内容や、その人物にゆかりのある地の観光資源データを集めました。
藤原 聡大(ふじわら そうた、2003年11月20日 - )… 藤原 聡大(ふじわら そうた、2003年11月20日 - )は、三重県伊賀市出身のプロ野球選手(投手)。東北楽天ゴールデンイーグルス所属。 リーグ通算20勝達成。花園大学時代は1年春からベンチ入りし、2年春には京滋大学リーグ優勝に貢献した。リーグ通算20勝5敗。 2025年のドラフト会議で東北楽天ゴールデンイーグルスから1位指名を受けた。花園大学からは初のドラフト指名であった。 11月14日に契約金1億円、年俸1600万円(推定)で契約合意に至った。 最速156km/hのストレート、スプリット、スライダー、カーブ、ツーシーム等といった多彩な変化球が持ち味。 大学時代には、自宅のある三重県伊賀市から京都市内の大学まで往復5時間かけて通学していた。
山田 聡子(やまだ さとこ、1995年2月26日 - )は、… 山田 聡子(やまだ さとこ、1995年2月26日 - )は、日本の射撃選手、自衛官(2021年時点で3等陸曹)。ピストルに精通する。自衛隊体育学校射撃班に所属している。 滋賀県甲賀市水口町出身。滋賀県立水口高等学校国際文化科では、最初は野球部のマネージャーだったが、射撃部に中途入部した。 競技を始めて間もなかった高校2年時の山口国体で少年女子ビームピストルに出場し、いきなり優勝。同種目の初代王者に輝いた。またピストル競技が注目されがちではあるがライフル射撃エアー、ビームともに全国大会で好成績をおさめる程の実力者でもある。 後述にもある通り滋賀県立水口高等学校初のオリンピック選手となる。 高校卒業後、陸上自衛隊に入隊。
ユウシテッセン 山本ォォオ(1983年1月20日 - )は、… ユウシテッセン 山本ォォオ(1983年1月20日 - )は、日本のお笑い芸人。所属フリー。 主に日本橋UPsのライブ
東 崇史(あずま たかし、1979年11月21日 - )は、… 東 崇史(あずま たかし、1979年11月21日 - )は、滋賀県甲賀郡水口町(現在は甲賀市)出身の元プロサッカー選手。ポジションはDF。
中西宏文(なかにし ひろふみ 1962年6月27日- )は滋… 中西宏文(なかにし ひろふみ 1962年6月27日- )は滋賀県甲賀市出身の元競艇選手。滋賀県立水口高等学校卒業。 登録番号3123。身長160cm。血液型O型。53期。滋賀支部所属。同期に元競艇選手、現ボートレーサー養成所教官の占部彰二がいる。
里内 猛(さとうち たけし、1957年1月11日 - )は、… 里内 猛(さとうち たけし、1957年1月11日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。JFA 公認S級コーチ(1998年 - )。滋賀県出身。大阪経済大学卒業。 選手時代はディフェンダーとして住友金属工業蹴球団に所属した。1988年に引退した後、翌年から同部コーチに就任。その後同部が母体となった鹿島アントラーズで2001年までフィジカルコーチを務め、鹿島の隆盛の基礎を支えた。 鹿島時代からのジーコとの繋がりから、2003年から日本代表チームのフィジカルコーチとなり、2006年のFIFAワールドカップドイツ大会にもスタッフとして帯同した。その後監督がイビチャ・オシムに替わってからも引き続きフィジカルコーチを務めていたが、2006年限りで退任。
鵜飼 哲也(うかい てつや、1956年1月1日 - )は、日… 鵜飼 哲也(うかい てつや、1956年1月1日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(ストッパー、サイドバック)。息子の鵜飼宏長(JFL)、鵜飼建吾(J2)も元サッカー選手。 滋賀県立甲賀高等学校(現・水口高等学校)を卒業し、1974年に日本サッカーリーグ1部の古河電気工業サッカー部に入る。 大型フルバックとしてプレーするが、怪我に泣かされるシーズンも目立った。1982年8月に行われたJSLカップは、5試合すべてにフル出場し優勝。また、同年11月の日ソ親善サッカーでは、JSL選抜チームとして古河から、宮内聡、早稲田一男、佐藤長栄とともに出場している。その後29歳で引退。 JSL選抜チーム(1982年)1試合0得点
鬼塚 忠久(おにづか ただひさ、1955年7月3日 - )は… 鬼塚 忠久(おにづか ただひさ、1955年7月3日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード。滋賀県甲賀郡甲西町(現・湖南市)出身。 滋賀県立甲賀高校時代、高校選手権、インターハイ、国体に出場。卒業後の1974年に日本サッカーリーグ1部の古河電気工業サッカー部(現 ジェフユナイテッド市原・千葉)へ入部し、1年目からレギュラーの座を獲得。以後、ウインガーとして古河の黄金時代を支え、1982年シーズンにはアシスト王にも輝いた。サイドからのドリブル突破を持ち味とし、得点能力も高かった。 引退後は、芸能人で結成されたサッカーチーム、ザ・ミイラにも所属していた。また、解説者やサッカースクールのコーチなどを経て、2004年に古河時代のチームメイトだった前田秀樹が監督を務める水戸ホーリーホックの強化部長兼取締役に就任。
上西 一雄(うえにし かずお、1954年11月1日 - )は… 上西 一雄(うえにし かずお、1954年11月1日 - )は、滋賀県出身の元サッカー選手。現役時代のポジションはFW(主にウイング)。 滋賀県立甲賀高等学校(現・水口高等学校)を卒業後、1973年にJSL1部のヤンマーディーゼルサッカー部に入部。左足タッチのドリブルを得意とし、現役の13年間では、釜本邦茂、吉村大志郎、今村博治、阿部洋夫、堀井美晴、楚輪博、長谷川治久らとヤンマーの攻撃陣を支えた。
今村 博治(いまむら ひろじ、1949年4月27日 - )は… 今村 博治(いまむら ひろじ、1949年4月27日 - )は、日本の元サッカー選手。ポジションはFW。滋賀県甲賀郡水口町(現甲賀市)出身。 滋賀県立甲賀高等学校から日本サッカーリーグのヤンマーディーゼルに入団。ヤンマー時代は不動の右ウイングとして活躍し、エースストライカーの釜本邦茂へ数多くのアシストを供給、1975年にはアシスト王を獲得した。現役を通じてリーグ通算230試合出場(歴代6位)、60得点(歴代10位)、50アシスト(歴代7位)の記録を残した。 また、日本代表としては1975年1月5日のバイエルン・ミュンヘン戦(国際Cマッチ)で代表デビュー。翌1976年8月のムルデカ大会に出場するなど、国際Aマッチ4試合に出場した。
奥村 展三(おくむら てんぞう、1944年(昭和19年)8月… 奥村 展三(おくむら てんぞう、1944年(昭和19年)8月10日 - )は、日本の元政治家。衆議院議員(3期)、参議院議員(1期)、新党さきがけ幹事長、民主党総務委員長、(旧)国民民主党滋賀県連顧問、文部科学副大臣(スポーツ、科学技術担当)(野田内閣・野田第1次改造内閣・野田第2次改造内閣)、滋賀県議会議員(4期)などを歴任。 滋賀県甲賀郡(現・湖南市)生まれ。1973年(昭和38年)3月、滋賀県立甲賀高等学校(現滋賀県立水口高等学校)卒業。1976年(昭和41年)3月、立命館大学文学部中退。 1968年に甲賀高校野球部監督として第40回選抜高等学校野球大会に出場。水口青年会議所理事長を経て、1976年に甲西町議会議員に初当選。
岩永 峯一(いわなが みねいち、1941年〈昭和16年〉9月… 岩永 峯一(いわなが みねいち、1941年〈昭和16年〉9月5日 - )は、日本の政治家。 農林水産大臣(第38・39代)、農林水産副大臣(第2次小泉改造内閣)、総務大臣政務官(第1次小泉第1次改造内閣)、農林水産大臣政務官(第1次小泉内閣)、衆議院議員(4期)、滋賀県議会議長、滋賀県議会副議長、滋賀県議会議員(5期)、信楽町議会議員(1期)などを歴任。 滋賀県立甲賀高等学校(現在の滋賀県立水口高等学校)卒業。中央大学法学部中退。1971年、滋賀県信楽町(現在の甲賀市)町議となる。1975年、滋賀県議会議員となり、5期務める。この間、1988年から1989年に同議会副議長、1990年から1991年に同議長を務めた。
中村 龍平(なかむら りゅうへい、1916年〈大正5年〉5月… 中村 龍平(なかむら りゅうへい、1916年〈大正5年〉5月20日 - 2008年〈平成20年〉3月29日)は、日本の陸軍軍人及び陸上自衛官。陸軍士官学校卒業(第49期)、陸軍大学校卒業(第56期)。第10代陸上幕僚長、第7代統合幕僚会議議長。 滋賀県出身。農業組合長・中村忠治郎の長男として生まれる。水口中学校(現:滋賀県立水口高等学校)を卒業し、陸士予科を経て陸士本科へ進んだ。1937年(昭和12年)陸士本科(第49期)卒業。1942年(昭和17年)陸大卒業(恩賜組)。関東軍参謀、大本営陸軍部参謀等を務め、陸軍少佐で終戦を迎える。その後、公職追放となる。 1952年(昭和27年)7月、警察予備隊に入隊。
高倉 定助(たかくら さだすけ、1893年(明治26年)8月… 高倉 定助(たかくら さだすけ、1893年(明治26年)8月26日 - 1965年(昭和40年)1月20日)は、大正・昭和期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。 滋賀県甲賀郡土山村(土山町を経て現甲賀市土山町)で、高倉重助の四男として生まれる。滋賀県立水口農林学校(現滋賀県立水口高等学校)を卒業し農牧業を営む。 音更村会議員、帯広市会議員、北海道会議員、同参事会員を務めた。また、帯広市農会長、同農業会長、北海道農会議員、同農業会理事を歴任。十勝拓殖取締役社長、北海種苗公社取締役、北海道木炭取締役なども務めた。 1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙で北海道第5区から出馬して当選し、その後、第25回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した。